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銀の盟約  作者: 朱市望
2 本編
28/32

㉘猫さんについて



 静かに終わりつつあった今年の社交界が大騒ぎなのはさておき、ルイスは無事だと本人や侯爵邸も言い張っている。その主張を信じ、パトリシアは侯爵邸を訪れて、先にソフィと面会した。

 彼女は教会でコンラッドに襲われかけたのを間一髪で逃走し、ここに逃げ込んだようだ。


 邸宅の玄関先に到着すると、今日は猫さんが出迎えてくれた。久しぶりに姿を見たような気がする。お洒落なのか、首元に水色のリボンを結んで登場した。いつも通りの澄ました顔つきの、美しい猫だった。どういうわけか、この飼い猫がソフィを屋敷まで案内したと聞いている。


 パトリシアが応接間に通されて待機していると、ニナに伴われて、ソフィが姿を見せた。彼女はこちらに駆け寄って瞳を潤ませている。怖い思いをなさったでしょうなどと、自分の事は棚に上げて涙ぐんだ。外傷などはなさそうで、それだけは本当に幸いだった。


「それはあなたの方でしょう、ソフィ。教会で、危ないところだったと」


 コンラッドにとって、彼女個人に何か理由があったわけではない。ルイスやパトリシアへ接触するのに都合が良いと見做されて、彼女が標的にされたのだ。申し訳なかった、と謝罪したが、相手は慌てて制止するばかりである。

 それから、ソフィは困ったような表情を浮かべた。侯爵邸に駆け込むまでの経緯を、正確には覚えていないのだと口ごもる。やはり、恐怖で記憶が曖昧になってしまったのかと心配していると、彼女は首を振った。


「……代わりに父の夢を見て、何故か内容まではっきり覚えているのです、お嬢様。そんなの都合が良い話はないと思うのですが、それにしてはなんだか不思議な夢でした」


 ソフィは夢の中で父君と、何を話したかまで詳細に記憶しているらしい。忘れないうちに内容を書き留めるのに成功したのだと言う。あちらは苦労ばかり掛けたと詫びて、ソフィはそのような事はないと否定した後は、好きなだけ思い出話をして過ごしたのだと言った。


 夢だったんですよね、などとソフィは少し寂しそうに話を終えた。パトリシアは彼女を手招きして、こっそりと耳打ちした。ここだけの話、と前置く。


「私、まだお母様には出て来て下さらないけれど、ルイス様の夢は見た事があって。起きている時と同じくらい甘やかして来るから、けれど私もそのまま甘えてしまってすごく恥ずかしかった。そのような不思議な出来事も、決して物語の中だけではないと思うの」


 まあ、などとソフィは微笑ましそうな笑みを浮かべている。とりあえず元気そうではあるので、パトリシアは心の底からほっとした。



「……それで、ちょっとお嬢様にお願いがございまして」


 ソフィは現在侯爵邸にある、おそらくは一番広くて格式のある客間で寝起きしているそうだ。保護された当初もですら恐れ多いが、今はどこも悪くないのでどうにか部屋を変えたいらしい。口利きをお願いできないか、と彼女は言いにくそうに切り出した。


 よく見てみれば彼女が着ているブラウスや履物は、かなり上質な一揃いである。しかしパトリシアでも、侯爵邸の方針にお世話になっている側として口出しするのは気が引けてしまう。


「……わかった。あちらにもきちんとお礼をして、あなたがここを気兼ねなく滞在できるように」

「お嬢様、そうじゃなくて。私は軒下で、シーツの一枚もあれば十分で」


 ソフィがどうか、どうかと食い下がるので、とりあえず善処はすると約束した。その時に扉がノックされて、初めて顔を見る侯爵邸の使用人が顔を出した。


「……侯爵邸では嫁入り前の娘にそんな仕打ちはしません」


 使用人の上役らしく男性の冷たい指摘が入って、ソフィは身を縮めている。アルマンと名乗った後で、パトリシアに丁寧に書状を差し出した。


「彼女は、カステル伯爵家からの紹介という体裁を整えて、領地へ向かってもらいます」


 そういえば父が解雇してしまったため、ソフィは既に伯爵邸の使用人ではないのである。ルイスが令息の権限でソフィを侯爵家で雇ってくれた。パトリシアとの、結婚後の生活を支えてくれる存在という名目である。


「わかりました。こちらこそ、何卒よろしくお願いします」

「ええ、彼女には期待しています。あなた様もどうか、お早めに領地へお越しくださるように。快適に過ごせるよう、こちらも尽力致しますので」







「……忙しいところ、呼び出して申し訳ない」

「いえ、こちらこそ。お忙しいところ、恐縮です」


 ソフィとは一旦別れて、パトリシアはいよいよ婚約者の元へ赴いた。顔を合わせてみると、どこか他人行儀な挨拶を双方が口にした。

 

 部屋の中には壁一面の蔵書に執務机と椅子、それとは別に座り心地の良さそうな、休憩用らしき長椅子が設置されている。使用人が小机を運んで来てくれて、長椅子に二人で腰かけた。後でお茶を持って来てくれるそうだ。


「……」


 気まずい空気の中、パトリシアは相手の様子を窺った。現在は狂人扱いで投獄されたコンラッドに、公衆の面前で暴行されたそうだが、傷一つ負っていないように見える。この数日で跡形もなく完治できるとも思えない。

 パトリシアはちらりと、自分の足元を走り抜けて執務机に飛び乗った彼の不思議な飼い猫に視線を走らせた。


「お元気そうで何よりです。しかし何か、私に隠していませんか。なんとなく手の内は理解しているつもりですけれど」

「……よく見て、なんなら触っても調べても構わないよ」


 冗談めかしてルイスがそう宣言したので、パトリシアは遠慮なく距離を詰めた。平静を装って深呼吸した。意を決して彼の右手を取ると、指先から撫でたりつついたり、たとえるなら猫を撫でているような手つきで、徹底的に調べた。


 流石のルイスもこちらの挙動には驚いた様子である。しかしパトリシアは、静かにしておいて欲しいという意味を込めて、大真面目な視線をあえて崩さなかった。

 ルイスが本当に怪我していれば、何か反応があるだろう。傷薬や軟膏が持つ独特の匂い、痛がるそぶりや、包帯の感触を探すようにパトリシアは集中した。


 手のひらや指に、学校の課題や授業で酷使している痕跡が窺える。シャツの布地越しに、見た目より力のありそうな腕、それから脇を一通り調査した後は首へ移った。大柄な人ではないが、やはり異性である自分とは身体の造りが違うのだと感じる。

 ルイスはやめろとも何も言わずに、黙って目だけ閉じる事にしたらしい。顎へ手を伸ばし、唇の端を指でつついたけれど、彼はくすぐったそうに笑っただけで、痛そうには見えない。笑みの形を、指でなぞった。

 思い切りつねってやろうかとも思ったが、もし本当に怪我を負っていたら申し訳ない。パトリシアはあちこちペタペタと指先でつつく程度で我慢しておいた。


「……気は済んだかな、少々お行儀が良いとは言えないけれど」

「あら、私だけの責にするおつもりですか? もとはと言えば、ルイス様が私に隠し立てしたのがそもそもの原因ですからね」


 パトリシアが真剣な眼差しで答えると、それもそうだ、とルイスは笑う。それ以上は特に咎められず、元のお行儀の良い客人の席へ撤退した。


「それで、本当に何があったのか、お聞かせいただけるのでしょうか。手紙では、猫さんの仕業にするおつもりのようですが」

「ああ、それは……」


 ルイスはため息をつきながら、執務机を占領している飼い猫を見やった。それからパトリシアに視線を戻して、笑わないで聞いて欲しい、と前置いて話を始めた。


「猫さんには、本来はありえない物事を、目の前にそれらしく見せる能力があると推測される。多くは夢の中で見せてくれるけれど、本気を出せば今こうしている時でも、おそらくは」

「……はあ」


 全く見当違いの方向から話が始まったため、パトリシアは歯切れの悪い返答になってしまった。


 ルイスが王城で勤めていた頃や、現在も在籍している軍の学校において、どうやら猫さんは自分の姿をごく親しい者にしか見せていないらしい。ルイスが飼い猫を連れ込んでいるのを、先日顔を合わせたルイスの同室達しか把握できていないらしい。

 

 彼女がただの猫ではないと、ルイスの侯爵家はずっと昔から把握している。しかし自分達を助力してくれる存在として、代々の当主が面倒を見る決まりになっているそうだ。

 ただ現在はルイスの父君と折り合いが悪く、代わりに後継ぎ息子のそばにいるらしい。

 彼女の存在は公にしていないので、侯爵家の子供達から次代の後継を選び、その一人だけが秘密を教えてもらえるらしい。


「それは、私に話しても大丈夫なのですか」

「ああ、おそらくは。今、この場で特に何も言って来ないからね。私も、私たちの子供の中から、一人、任せる子を選ぶのだと思う」


 見え方を操作できると言ったけれど、とルイスは話を一旦区切った。その後を続けるのに、少しばかり時間がかかった。


 彼女には対価を支払う事で、それ以外にも多くの願い事、金銀財宝や権力を、時には他者を陥れるような使い方も、決して不可能ではないとルイスは言う。

 ただし許されるのは当主が自前で養える範囲であって、決して他者に犠牲を強いるような使い方は容認されていない。もちろん、人の道に外れるような行為も禁止である。


 フェネオン候とは、とルイスは一度姿勢を正して、物憂げな表情で、運ばれて来た紅茶のカップを手に取った。


「夜会で、人が多い場所で待ち合わせた。侯爵家と縁のある方に仲介してもらい、護衛も連れて行ったので下手な真似はできないだろうと踏んだ。それが話を中断して、いきなり殴りかかって来てね。護衛が取り押さえる方が早かったから、私を怪我はしていない。けれど、周囲にはそうは見えなかったのだ。猫さんの企みによって彼の悪評は今、あちこちに広がってしまっている。しばらく前から子供達があちこちで体調を崩していたのは彼が原因だった。ずっと追っていて、止めようとしたのだが」


 彼はあちこちの集まりで、古い価値のある品物を見せて回っていただけだと主張していたらしい。教会での不可解な行動や、凶器とされたソフィの短剣の状態を持ち出せば、相手は非を認めざるを得ないと判断したが、今は正気を失ってしまっている。回復の見込みについては、ルイスは言葉尻を濁した。


 パトリシアも少し前に奇妙な夢を見て、友人のブランシュもしばらく気鬱で寝込んでいた。他にも、たくさんの子供達が苦しい思いをしたのが、まさか人為的に引き起こされていたという事実に、パトリシアは思わず言葉を失う。


 心配をかけてすまなかった、とルイスが謝罪したので、パトリシアは首を横に振った。今回はルイスばかりが悪いのではないだろうし、コンラッドは身柄を拘束されている。これ以上苦しむ人を出さずにいられるのなら、それはよかったと思う。

 

 それから、ソフィが亡くなった父親に夢で会えたというのも、おそらくは猫が気を遣っているのだと言った。猫が気に入った相手にはそのような出来事があるのだとも口にする。


「猫さんには、わりと人間臭い一面もある。決して悪い奴ではないと、最近ようやく確信しつつあるよ。パティさんを助けようとしてくれた日もあったようだ。これからも、彼女とは仲良くやって行きたい。……そう思ってくれると、助かるけれど」


 パトリシアも覚えがあった。ブランシュと集まりの隅で話をしている時に近づいてきた、コンラッドを追い払ったのは、本当に猫さんが助けに入ってくれたのだ。


「ええ、こんなに可愛い猫さんですもの。私は大歓迎です。たまに撫でさせてくれるともっと嬉しいのですけれど」 

「それは保障しかねるかな。ところで彼女には、父が屋敷では冷たいからもうずっと呼ばれていないが。ココちゃんという、本当はすごくかわいい名前がある」

「……ココちゃん、これからどうぞよろしくね」


 あら、とパトリシアは彼女を改めて見やった。猫の名前としては、それなりに耳にする愛称であった。

 彼女の真実の一端を知って、本当の名前を初めて認識した。すると彼女の白い美しい毛並み、薄茶色の耳や水色の瞳をずっと愛おしく感じた。


 せっかくなので、とルイスも安心したように笑いながら、一つ提案をした。彼が愛用している銀時計を、パトリシアの前に掲げて見せる。月明かりに一時間かざして、となんだか不思議なおまじないを教えてくれた。

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