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銀の盟約  作者: 朱市望
2 本編
25/32

㉕私の正義は


「姉さまもどう? この間のお礼がしたのですって」 


 妹のエーファが、友人のお屋敷に誘われているらしい。先日、一緒に外出した事のお礼も兼ねて、という名目のようだ。

 誘われたパトリシアはせっかくなので、とお呼ばれに付き添う事にした。昼食後はそうやって、二人で髪型や衣装の検討を重ねている。こんな時こそソフィがいてくれると滞りなく進むのだけれど、生憎今日は休みを与えていた。

 いつも彼女は教会へ赴いて、健気にも奉仕活動に身を捧げるのである。帰りにお菓子を買って来るように頼んであって、それは彼女にも食べてもらう予定だった。


 そういえば今朝、あのブランシュ嬢から手紙が届いて、空いている日を教えて欲しいとの話である。予定が会えば弟と妹、それから婚約者殿もぜひ、などと綴られていた。全員同時にもてなす自信に満ち溢れていて、パトリシアは思わず感服してしまった。


 ブランシュを訪ねるとして妹は反対しないだろうし、弟は美味しいお菓子を口実に誘えば来るはずだ。問題はルイスである。まだ気まずいので、なんとか仲直りしなくては、新しくできた友人の要請には応えられない。勇気を出し、こちらから手紙を出さなければならない。思案していると、部屋がノックされた。

 

「姉さん、今いい? 外に、軍の馬車が来ている。何の用だと思う?」


 訝し気な様子の弟が顔を出した。部屋に入ったリヒターは窓から外の様子を窺っている。パトリシアとエーファも驚きながら横へ行くと、馬車が屋敷の正面に停められている。険しい表情で帯剣した軍人が、何人も来ていた。大抵は二人組で街を巡回するのを知っていたので、異様な空気だった。


 今日は父が屋敷にいる。応対の様子を見て来るべきか、と三人で相談していると、階段を荒々しく上がって来る足音が部屋に近づいた。子供達は顔を見合わせつつも、身に覚えがないため、黙って扉が開かれるのを待つしかない。


「……パトリシア!」

 

 乱暴に扉を開け、父は固まっている三人の子供の中からパトリシアをはっきりと見据えた。一体何があったのか、すぐに尋ねるのが躊躇してしまう程、わなわなと怒りに表情を歪めている。すぐ後ろにいた背の高い軍人は何かを探しているかのように、部屋の隅まで視線を走らせた。とりあえずこの室内に用はないと判断したのか、落ち着きはらった様子で経緯を説明した。


「ここで雇われていたソフィという侍女が、教会でコンラッド・フェネオン候と揉み合いになり、持っていた短剣で相手を刺して、そのまま逃走したようです。まだ見つかっていません。もし何か身柄の確保につながるような情報があれば、速やかに本部まで」

「……そんな、何かの間違いでは」

「パトリシア、お前の責任だぞ!」


 唖然としているパトリシアに、父が激高した。まあまあ、と軍人が執り成したけれど、父は一顧だにしなかった。彼がそそくさと立ち去った後も、父の怒りはまだおさまっていなかった。


「教会が没収した短剣を、私に黙って買い戻して与えたそうだな、一体どういうつもりだ」

「亡くなった父君の形見だと聞いています。あの……」

「口答えするな! あの女は今しがた解雇した。使用人の分際で我が伯爵家の顔に泥を塗るなど……」

「お父様、少し待って下さい! どうか落ち着いて私の話を……」


 お父様、とパトリシアは訴えたけれど、再び一喝されて遮られてしまう。弟が閉口し、妹が身を竦ませる気配がした。


「フェネオン邸からも早速抗議の手紙があった、急ぎ参じて申し開きをせねば。パトリシア、お前も来い、今すぐ支度をしろ!」

「……ええ、わかりました。言うとおりにします」


 パトリシアは父に頭を下げた。相手の怒りの表情ではなく、足元の絨毯と自分の履物だけしか見えなくなったので、かえって心が落ち着いた。父が無言で部屋を立ち去る音がしたので、パトリシアはとりあえず二人に大丈夫だから、と声を掛ける。


「待って姉さん、フェネオン候って……」

「大丈夫よ、いきなりとって食われるわけでもないでしょう」


 弟を諭して、パトリシアは父が去ったのと反対の方向へ駆け出した。階段を駆け下りて屋敷の裏手へ向かう。リヒターとエーファの心配そうな声が追いかけて来たけれど、とにかく時間がない。


 軍がソフィを捜索しているというなら、先ほどの話は事実なのだろう。何らかの理由で、パトリシアが持たせた短剣を抜いてしまい、相手は負傷している。彼女はその場から逃げ出して、非常に不利な状況だった。相手の身分的にも、一度その場を離れたソフィの話を、まともに取り合ってもらえるとは思えない。


 ここから彼女を救う方法は一つしか思いつかない。ルイスと連絡を取る手段として、特定の使用人を遣う取り決めがしてあった。

 

 パトリシアが勝手口を開けて外へ出ようとしたときに、何かに勢いよくぶつかった。壁よりは柔らかいので怪我はしなかったが、やや苦しそうな声が上がった。衝突した勢いのまま数歩よろけつつなんとか態勢を整えると、見上げた相手も似たような状況である。驚きの声が双方から上がった。


「ル、ルイス様!?」

「……びっくりした。どこかに出るの?」 


 どうしてここに、とパトリシアは思わず尋ねた。いつものルイスである。くせのない黒髪と、少し灰色の混じった青い瞳。それから虫一匹殺さない笑みを浮かべている。学校の制服姿で、まだ夏服だった。いつもの習慣で周りに視線を走らせたが、今日は猫がいなかった。


 その飼い猫を除けば、いつも通りの姿である。それを目の当たりにして、パトリシアの混乱や焦燥や、父親に怒鳴られたやるせない感情が落ち着いていくのを確かに感じた。ソフィを助けられる方法は、目の前の相手を頼る以外に可能性はない。


「それがね、パティさん。猫さんが朝から行方不明で、こちらに迷惑を掛けていたら困ると思って、様子を見に来た。いや、あの、……本当は貴女と、もう少しちゃんと話した方がいいと思って。それなのに何あった様子で、誰か出て来ないか見張っていたのだけど」


 言い訳のように長々と語るルイスは、どこか気まずそうだった。ぶつかった姿勢のままだったのを、相手が何気なく距離を開けようと身動きした。パトリシアは、逆に離れまいとしがみついた。


「ちょっと、パティさん?」

「……ソフィが、ソフィをどうか助けて下さい」

「ソフィがどうかしたの」


 困惑していたルイスは、こちらの表情を見て表情を引き締めた。パトリシアは息を整えながら、できる限り事情を説明した。どうやら彼女が教会で、侯爵にけがを負わせてしまったらしい。伯爵邸が使用人に持たせておいた刃物によって引き起こされたため、先方の怒りはこちらに向いている。彼女はその場から逃走し、父によって彼女は解雇されてしまった。相手の屋敷まで、今から申し開きに向かわなければならない。


「教会も、伯爵邸も追い出されたら、ソフィは本当に行く場所がありません。なんとか、助け出す方法はありませんか。きっと何かの間違いです。だってあの短剣は……」

「……」


 ルイスはしばらく、パトリシアを振りほどく事もなく、その場で考え込んでいた。さりげなく、彼の腕がこちらの背中を軽く撫でてくれた。手の動きと、相手の身体の温度に、自分の足が頼りなく震えているのに初めて気が付いた。


 短剣というのは、と彼が呟いたので、こちらも頷く。彼女が手放した父親の形見を取り戻して、彼女に持たせておいた経緯は、婚約者にも説明してあった。


「わかった、ソフィは早急に見つけ出して侯爵邸で保護しよう。可能なら本人に話を聞き出して、相手方や軍へ勝手に突き出したりはしない。それから、私がフェネオン侯爵と接触してみる。これでいいかな?」 


 ルイスの提案を、パトリシアもいくどか頭の中で繰り返した。自分で頼み込んでおきながらも、不安は否定できない。状況はこれ以上になく悪いように思われた。今、ルイスが挙げた案がどこまで実現できるのかも定かではない。


「……」


 けれど何より、目の前の相手は落ち着いていた。こちらの不安が隠せない視線に気が付いて、安心させるように微笑んで見せる余裕すらある。 

 ルイスの説明が、ソフィにとって最善に思えた。お願いします、とパトリシアは頭を下げた。


 いつもと同じだった。パトリシアが困っている時、彼はいつも静かに受け止めて、それから納得できるような形までいつも導いてくれる。


「ルイス様、この間の件は……」


 私が悪かった、とパトリシアが謝罪するのを、ルイスが首を振って遮った。


「貴女はそれでいい。そもそも、貴女が守りたいものは、正しいと信じているものは、私の機嫌を損ねた程度で揺らぐものではないだろうから。そうだよね、パティさん?」

「……はい」


 そこまで確認し合ってから、今度こそルイスはパトリシアとの距離を整えた。伯爵、と彼が丁寧に呼びかけて、自分以外の家族が後ろに来ていた事を知った。


「パトリシアから全て聞きました。伯爵殿、ご心配には及びません。近習として仕えていた時の伝手で、先方と穏便に接触できるはずです。何が起きたのかを突き止めるのが先決でしょう。ご息女にも伝えましたが、伯爵家にとっての最善は、落ち着いて対処する事です。目先の情報に惑わされる事がないように。私のかねてからの要請を、どうか失念する事のないよう」


 父はルイスの提案を黙って聞いた。内心では様々な判断や思考が、慌ただしく巡っているに違いない。苛立ちや困惑は、ルイスの説明によって多少緩和された様子である。


「伝手、というのは確かかね? 助けてもらえると? オレリアン殿下などは、君の味方でいてくれるだろうか」


 ええ、という婚約者はそつなく返答をした。父には見えない角度で、弟は視線を泳がせている。妹は不自然に、目と口を閉じてじっとしていた。

 それを聞いて、父はルイスに感謝の言葉を口にした。それから歯切れの悪い口調でパトリシアに短く詫びて、屋敷の中へ戻って行った。追って連絡します、とルイスが声を張り上げた。



「パトリシアさん、とりあえず屋敷から出ないように。リヒター、エーファ」


 はい、と弟は居心地の悪そうな表情を浮かべているが、ルイスに向かってしっかりと返答した。対照的に妹は目を開けて、真面目な顔つきでパトリシアに走り寄って、そっと手を握ってくれた。


「二人に、パトリシアさんを頼めるかな。何か食べさせておいて欲しい。お腹が空いていると、落ち着かないものだ。それから全員、一人で外に出ないように」

「ええ、承知いたしました。父が申し訳ありません。それと、ソフィの経緯は姉からお聞きだと思いますが、今までの彼女に何か問題があるようには見えませんでした」

「伯爵殿は大丈夫だ。間に合ったので問題がない。ソフィの為人については、こちらも同意見だ。伯爵は落ち着いたようだけれど、そちらにも気を配っておいてくれると助かる」


 はい、と弟は覚悟を決めたように、しっかりと返事をした。先に戻るから、と父の後を追うようにしてリヒターは中へ戻る。


 今頃になって泣きそうになるのを、パトリシアはなんとか耐えた。妹が横にいて、何よりソフィの現状が不明な今、自分がしっかりしなくてはいけない。


「ルイス様。私も、あなたの正義を信じています。私にわからなくても、あなたはきっと誰かを救うために、守るために奔走してくださっているのだと。ですから、どうか」

 

 よろしくお願いします、とパトリシアは改めて彼に頭を下げる。彼はこちらの台詞にしばらく目を瞠っていた。それから一つ頷いて、踵を返す。


 妹と一緒に、彼の姿が見えなくなるまで見送るしか、今はできなかった。

 

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