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銀の盟約  作者: 朱市望
2 本編
24/32

㉔罠


 ソフィはカステル伯爵の屋敷で住み込みの仕事しながら、休日には教会へと通っている。敬愛する伯爵家の長女、パトリシアが自分を教会から引き取ってくれたため、彼女の話し相手を兼ねて侍女の仕事をしていた。

 他の使用人達は、多くが元から使用人として仕えているか、紹介によってこの仕事に就く者が多い。最初のうち、ソフィは明らかに浮いていたが、最近は打ち解けつつあると思っている。


 その証拠に、最近は出かける際に数件、屋敷から頼まれた手紙や小包を預かったり手渡したりするようにもなった。

 主人を含めた伯爵家の人々から、少しずつ信頼を得ている事を嬉しく思っている。しかし、自分の応対がそのまま屋敷の使用人の評価にも繋がりかねない。そのためどこへ行ってもできる限り礼儀正しく、愛想よく振舞うようにしていた。


 

 頼まれた用事を済ませて教会に着くと、雑用はいくらでもある。その中で、ソフィは墓地の清掃に一番熱心だった。敷地内にいた司祭様に挨拶をして、仕事の指示をもらった。使用人の仕事は給金の額面よりも、衣食住の安定した保証が魅力である。したがってソフィは神殿へも寄進ではなくて、ささやかな肉体労働で貢献という方針だった。


 ソフィは故郷へ帰れず、父の墓前に近寄る事ができない。こうして通い詰めて、祈りを捧げるしかなかった。合同の墓地があるから荒れ果てている、というわけではないだろうけれど、と沈んだ思いを馳せながら、あちこち掃除して回った。


 教会が保護してくれるのは身寄りがなく、行くあてのない者である。要するに、手持ちの財産は全て寄進しなければならない。ここにたどり着いたばかりの当時、他の選択肢はなかった。断腸の思いで手放した父の形見を、しかしパトリシアがこちらに引き取った時に交渉して、手元に戻してくれた。


「こういう品は、なるべく手元に持っておいた方が良いと思うの。さあ、しっかり働いてちょうだい、……なんてね。仕事はゆっくり覚えてくれればいいから」


 感激して、何度も頭を下げるのに対し、主人はただそれだけである。ソフィはその時からずっと、いつか恩を返さなければと必死だった。




 掃除が終われば、神殿の外回りを中心に落ち葉を掃いて回った。そしてここを訪れる人々の話に、こっそりと耳を傾けるのも忘れない。

 脳裏に浮かぶのは、ニナという名前で侯爵邸に仕えている薬師の働きぶりである。彼女と話してみると薬草や医療の分野に詳しく、それ以外の情報収集も、職務として当たり前であるらしい。

 自分に求められている理想像はこれだ、とソフィは悟った。パトリシアの婚約者、ルイスは国内屈指の名門侯爵家の後継である。本人はどちらかと言えば穏やかな好青年だが、先代と当代は歴代でも指折りの優秀さで、領地を豊かに反映させた手腕の持ち主であるのだ。


 令息のルイスはどちらかと言えば穏やかな人柄で通っているけれど、油断はいけない。将来の侯爵夫人の地位が約束されているパトリシア付きの女性使用人の選定が、既に始まっていてもおかしくはないのだ。ソフィはなんとしても、その枠に入っておきたかった。


「あなたは私の世話を焼くのが仕事なの。できたらエーファの分も」


 ソフィが張り切っているのをよそに、主人は相変わらずである。しかし、この頃はやや元気がなかった。将来のため友人をたくさん作ると張り切っていたのに、周囲で妙な病気が流行しているため、屋敷に閉じこもりがちである。そして何より、婚約者と少々諍いを起こしてしまったのだ。


 話を聞いた限りでは、互いに心底失望したり、嫌い合ったりしたわけではなさそうだった。けれど今まで順調に交際を続けていただけに、主人は上手な仲直りの口実が掴めないでいるらしい。


 侍女として、また個人的に助けてもらった者として、今こそ恩を返すべき時が来たのだ。しかし、自分の給金で購入できる範囲では、とてもパトリシアのお眼鏡に適う品は手に入らない。こればかりは仕事で返すほかないのであった。


 何か新しい持ち物を気分転換に購入して、そのお披露目などという名目で、侯爵家の令息を呼び出すのはどうか、と提案してあった。お菓子でも装飾品でも、とにかく必要なのはきっかけである。ソフィは主人をそう説得して、準備を進めていた。


 

 ソフィは引き続き掃除をしながら、噂話というものに耳を傾けた。今も、裕福そうな身なりの紳士が二人、帽子を取って帽子を手に挨拶を交わしている。司祭を待つ間に、熱心に話し込んでいた。暑さのために開け放たれた窓から、二人の話し声が、自分のいる場所まで聞こえた。

 片方はどうやら医者であるらしい。とりとめのない話題が、いつか回りまわって主人の役に立つといいな、と思う。


「やっと、どうにか落ち着きつつありますよ。貴殿が薬草を融通して下さったおかげで助かりました」

「……そちらもお忙しいようですね。こちら妻や娘に手伝ってもらってどうにか対処しているところです。こんな暑い季節に、一体どうしたのやら」


紳士達が熱心に話し込んでいるとおり、この夏はあちこちのお屋敷で、気鬱のような症状が流行していた。伯爵家の三人の子供達は特にそういった症状はなかったが、ソフィの耳にも、具合の悪い子供の話が時折聞こえていた。

 なんとなく奇妙なのは、その症状が上の階級に限られていたようだ。流行り風邪がしつこいのは、いつも下町なのである。今年はいつもと様子が違うらしい。


「それが、私の患者が夢の中で、白い猫が助けてくれたと口を揃えていてね。それが何度も繰り返されると気になってしょうがない」


 紳士達の断片的な話は、実に奇妙である。聞いていたソフィも思わず掃除の手を止めて聞き入ってしまった。高熱で夢にうなされるのはソフィも聞いた事があるので、その類かもしれない。

 

 それにしても猫、と言えば主人の婚約者の令息だ。常に猫を引き連れているという奇妙な青年だが、もう慣れてしまった。今となっては不在の方が、行方が気になってしまうに違いない。

 夏の暑さがまだ尾を引いていて、ソフィは影になっている場所でこっそりと一息ついた。建物の外壁を綺麗にしていた手を休めて、教会を尋ねる人々から見えない奥まっている場所で座り込む。

 


 ソフィは、自分の主人は婚約者ときっと仲直りするだろう、と楽観的だった。自分としては、パトリシアを上手に励ませたのではないだろうか、と誇らしい気持ちも少しある。


 それでも時折、彼女の暮らしが羨ましい日もある。父がまだ生きてくれていれば、ここへ身を寄せるような事態にもならなかった。けれど、とソフィが片時も離さないようにしている形見の短剣の重さが、諫めて慰めてくれるような気がしている。

 今の自分は十分に恵まれている。仕事は楽しくてやりがいもあって、優しく可愛らしい主人には幸せでいて欲しい。その気持ちに嘘偽りはなかった。






 

「……ああ、ちょうどよかった」

 

 もうひと働き、と立ち上がりかけたところで、親し気な声が掛けられた。今いるのはちょうど、神殿を訪れる人々から死角になっている。そして、先ほどまで聞こえていた紳士達の話し声も、気が付かないうちに遠ざかっていた。

 いつの間にか木々の梢が暗く、それから雨でも降り出しそうに暗い。ソフィは声の主を認めて、血の凍るような思いがした。

 一度、遠目ながらも姿を確認してあった。この男を警戒するように、ニナを通してルイスから指示があったためである。


「カステル伯爵家で、家人の身の回りの世話をして働いているそうだな」


 相手は二十代半ばほどで、見目麗しい容姿をしていた。髪を伸ばして優雅にまとめられている。

 まだ故郷で暮らしていた頃も、目の前の人物はできた領主として広く知られていた。王都に集まっている貴族達の間でも、気さくな人柄で大層人気があるらしい。


「伯爵の屋敷に入りたいのだが、どうもあそこには近づきたくない。そこで、だ。お前が連れ出すか、上の娘に接触できそうな日程をこっそり伝えてくれればいい。『教会で偶然行き会った』。これで十分だ」


 侯爵邸から相手を警戒するように念押しされた際、頷きつつもまさか、と思っていた。しかし今、目の前にいる相手はパトリシアとソフィの関係を、実際に把握した上で言っているらしい。

 それにカステル伯やルイスを通り越して、何故執拗にパトリシアに接触したがるのか、理解できなかった。


「……僭越ながらお断りします。どうか捨て置いてくださいませ。どのようなおつもりか存じませんが、使用人相手にあらぬ誤解を招く前に。人を呼びますよ」


 なんとかこの場を切り抜けなければならない。この男はソフィの主人に何かよからぬ事を企んでいる。ソフィの焦りを、相手はせせら笑った。


「破滅するのはそちらだろうに。侯爵とたかが使用人の証言で、一体どちらが信用されると思っているのやら。父親ともども、てんでだめだな」


 相手は何故か、ここではソフィしか知らないはずの父の件を持ち出した。父は自分を養いながら、ずっと病気を抱えていた。ある時に、近くにあった教会へ相談しに行ったのである。ソフィも本格的に働ける年齢になりつつあったため、信頼できそうな仕事先の紹介を交渉に出かけたのだった。


「大体、大人しく従順であれば、すぐに終わる。多少は寝込むかもしれないが、その後は、お前も素知らぬ顔でまた勤めを続ければいい。生意気で反抗的だと、その限りではないだろうが」


 それなのに、父の体調は教会の敷地で急変した。慌てて駆け付けたソフィには、ずっと寒気がすると訴えて、それから数日後に亡くなってしまった。

 人の多い場所へ行きなさい、とそれだけ言った。結局、家を売り払って医者への診療と薬代を清算すれば、僅かばかりの旅費と、形見の銀の短剣しか残らなかった。

 周囲が思う以上に病は進行していたのだと、最後に挨拶へ赴いた際の、医者の見立てであった。


「何故、父の事を……?」

「あの時既に、お前の父親はそう遠くないうちに死ぬ運命だった。……これ以上手間取らせるな」

 

 こちらを捕まえるために伸ばされた腕を前に、ソフィは咄嗟に父の形見に手を掛けていた。どのような動きをしたのかわからないまま、腕が当たって、相手は悲鳴を上げた。相手は右手を抑えている。渾身の力で相手を突き飛ばして、ソフィは暗い場所から半ば転げるように抜け出した。


「誰か来てくれ! 金を盗られた、その娘を捕まえてくれ!」


 行き会った人々の視線と、背後から追いすがる声、そして嵌められたという恐怖が足を鈍らせる。

 けれどその時に、誰かがソフィに逃げろ、と確かにささやいた。声の主を確かめる時間も、何が最善なのかを判断する余裕もない。ソフィは人のいない方向へと逃げ出した。

 

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