㉓仲直りのための助言
「軍人にならなかったのは惜しいな。大いなる損失だよ」
「……それはどうも」
ルイスは幼少期から、もしもの場合を想定した戦闘訓練はそれなりに積んでいる。いざという時が、本当に訪れるのか定かではない。けれど指南役や、父自ら指導してくれた時期もあり、学校に入ってからは同期生と真面目に研鑽していた。
同室達はいずれも奨学金の全額なり一部なりの免除枠であるため、課題の提出と成績には神経を張りつめている。現在でも練習相手に困る環境ではなかった。
しかし、クリストフは明らかに手練れである。今のルイスでは全く歯が立たなかった。
どのくらいの時間、打ち合っていたのかわからない。ルイスは息を整えながら、肩を竦めてその場に座り込んだ。やはり相手は本職である。立ち上がる体力は既に残っていなかった。
対するクリストフは表情を崩す事もなく、建物の中から水差しを持って来てくれた。良い腕だ、などと褒めてくれたが、実力の差が歴然過ぎて、あまり嬉しくはない。
落ち着いたら中へおいで、と言って彼は中へ戻った。ルイスは水辺特有のひんやりとした空気をしばらく浴びてから、彼を追って立ち上がる。
屋内は既にココアの甘い香りが漂っていた。あのさ、とルイスは恥を忍んで話を切り出した。
「クリストフってさ、奥さんと喧嘩した時ってどうやって仲直りするの」
「喧嘩した時はちょっと強引に寝室まで……という段階でもないのなら、とにかく先に話し合いするしかないよ」
ルイスはいきなり提示された、夫婦の生々しい解決方法に思わずむせた。
「一応言っておくけど、初手でやる話ではない。問題が解決した後で、相手の反応を見て、求められていそうな時にやる。我々の譲れない戦いは終わり、再び気兼ねなく求めあう感情を確認してようやく終了だ。会話の端々や目線のやり取りのそこかしこに、相手が合図を送ってくるから」
雑や手荒を指しているのではない、とクリストフが微妙な意味合いの単語をいくつか持ち出して、説明してくれた。大真面目な様子は、完全にルイスの理解の範囲を逸脱している。残念ながら、年齢の観点から見て、自分とパトリシアには応用できそうもない助言である。
歌劇で言えば終幕の一つ前、とルイスの結論をよそに、クリストフが詳細な補足を付け加えてくれたが、彼の結婚生活や細君の解像度は不明瞭なままである。
「クリストフの奥さんと、一度会って話を聞いてみたいよ。きっと素敵な女性に違いない」
「ああ、最高の女性だとも。私は頭のてっぺんからつま先まで隠し事のしようがない。父君と母君をはじめとして、彼女は周囲から大変に可愛がられて育ったのでね。誰よりも手ごわい相手だ」
クリストフはしみじみと、遠い目をして語っている。家の中で骨抜きにされて尻に敷かれている立ち位置が目に見えるようだった。
「一応補足しておくがね、尻に敷かれていようとなんだろうと、主導権から手を放したわけではない。常に二人で握っているつもりだ」
本当だろうか、とルイスは思わず笑ってしまう。奥さんに聞いたら全く違う返答だったりして、などと彼をからかった。
喧嘩したのか、とクリストフは意外そうな顔でこちらを見る。ルイスとしては自分で蒔いた種で自業自得なため、気まずさに閉口してしまう。あのさ、と気を取り直して再び真剣な口調で話を切り出した。
「今まで、本当にずっと嫌だった。自分より優秀な子達がたくさんいるのに、家を継がなくてはいけないのが。けれど、その時に……」
パトリシアにかつて、打ち明けた事がある。隣国へ行く前に色々と調べた際に知った仕組みだった。血統で領主や君主を決めるのではなく、全体の推薦や投票を用いるのである。それを早く導入するべきだと。その時はお茶菓子を食べながらの席だった。
彼女がお菓子を飲み込んで、あの、と真剣なまなざしをこちらに向けたのを覚えている。
『たしかに、話を聞く限りでは上手くいくような気がします。けれど、私は最良の方を、皆がきちんと選び出すのか、疑問が残ります。口が達者だとか見た目が美しいとか、耳障りの良い謳い文句に、騙されない自信がありません。そして選ばれた後、取り決めを完遂する保証はあるのでしょうか。約束を反故にされたら、どうしたらいいのでしょう』
でしたら、とパトリシアはルイスを見た。
『私は絶対にルイス様を選びます。親から子供へと代々守って受け継いで来たもの、それが家の本質ではありませんか。私が横でずっと見ていたルイス様を、私は何より信じています。それに……』
彼女が付け加えた台詞を、ルイスは聞き逃してしまってもう一度、と頼み込んだ。すると小さな声で、いつも優しくしてもらっているから、と真っ赤になって俯きながら呟いたのが辛うじて聞こえた。
まだ小さな婚約者がルイスのために、その場で思いつく限りを絞ってくれたのだ。そのやり取りのおかげで、ルイスは役者不足を痛感しつつも投げ出さずに、それからより良い人間でありたいという気持ちを捨てないでいられる。
誰であっても、爵位や血筋を軽んじてはいけない。それは自分への戒めともう一つ、王城にいる頃に強く感じていた。
「でもクリストフ、彼女を本当に幸せにできるのかどうか。それが今、何より怖い」
祖父や父、領地に帰れば優秀な人間はいくらでも集まっている。後継ぎを、と強く望む周囲の声は、自分達に重くのしかかるだろう。
そして、こちらの隙を窺っている者がいる。パトリシアを危険に晒すわけにはいかない。しかし、彼女からすれば自分だけ蚊帳の外である上、他の人間から事情を教えられて、ルイスへの信頼が揺らいでしまった。まだ子供のエーファにすら、姉は傷つくし悲しむと思いますが、と忠告されていたにも拘わらず、である。
今までのルイスの言動は全て嘘で、演技だったのではないか。彼女からの問いかけは堪えたが、彼女はもっと深く傷ついたに違いない。
ルイスは、クリストフになるべく詳細を説明した。彼は笑わなかったし、叱るような口調でもない。なるほどね、と頷く。しばらくしてから、静かに口を開いた。
「ルイス、まずはね。何かに取り組む時、手際や効率、見栄えは重要ではない。そういう事柄に重きを置く人間は、困った時にどうすると思う?」
聞き覚えのある台詞である。ずっと昔に、彼が言っていた言葉だった。しかし、ルイスには相手の問いかけの答えはわからない。彼が挙げた項目が満たされていれば、他人はその人物を高く評価するに違いない。
クリストフの口調は穏やかだったけれど、表情と声の奥には冷ややかなものが混じっている。
「……それは単に、誰かを切り捨てて見捨てるのに躊躇しないというだけの話だ。私は妙に外聞が良い人間を、経験則で信用していない。だから、私にとっては君が、君自身の意志で成し遂げる事に意味があると信じている」
彼は何か思い出しているかのように、一瞬苦い表情が浮かんだ。それを打ち消すように飲み物に口をつけてから、こちらに真剣な眼差しを向けた。
「まだ幼かった頃の私と、特に兄は常に危険に晒されていたが、周囲の大人は誰も助けようとしなかった。巻き込まれては困ると距離を取って見物しながら、笑っていただけだった。あの時、私達のために戦ってくれたのは、たった一人だけだった。その人が私に、大人としてあるべき背中を示してくれた。そうでなければ、私は夜に安心して眠れないままだった」
クリストフの話は断片的だが、有無を言わせない空気を帯びている。彼はこちらの心配そうな視線に気が付いたのか、少し息を吐いてから笑って見せた。
「……もう少し実践的な助言となると、仲直りに必要な理解や納得は、気分次第の不確定なものに過ぎないと言っておくよ。だが、君は相手の心がどんな時に満たされて安心するのか、よく見ているはずだ」
ルイスはパトリシアを思い浮かべた。しっかりしているようで危なっかしい女の子である。長女らしく、いつも弟妹を気にかけていた。そしてルイスを、世界で一番信じてくれているのもまた、彼女なのである。
もう一度、会いに行ってごらん、とクリストフは言った。少しも難しくないと言わんばかりの口調である。
「安心するといい。私も既にいい歳だが、妻からよく叱られるよ。一人で何でもしようとするな、とね。私は世界で一番、彼女には誰よりも安全な場所にいて欲しいけれど、あまり理解はしてくれない。どこまでも一緒について来てくれる、本当に素敵な女性だ。そして言葉の選び方一つで、私の揺さぶり方をよくわかっている」
クリストフの話は、自分がパトリシアに対して抱いている感情と少し似ていた。彼女には安心して過ごしていて欲しいけれど、向こうが望んでいるのは、一体何だろうか。
「私の妻は、軍にいてそれなりの地位を有し、年齢も背丈が遥かに上回る男の心配ばかりしている。危なっかしいのはお互い様だと思うが、妻には妻の言い分があるのだろう。ルイス、これだけは先に言っておくよ。私が誰かの夫であり父親であり、弟として可愛がられているのは、私に果たすべき役割があるのは、とても幸せな事だ。君も、夢の外では同じだと思う」
ルイスは自分の気持ちを吐き出し、相手の助言を聞く過程を経て、抱えていた苛立ちが随分と和らいだのを感じる。クリストフは真剣にルイスの言葉を受け止め、自分なりの見解を述べて助言してくれた。彼のような人でも、未だに全てが完璧なわけではないらしい。
「だからこそ、お互い納得の行く方法を、二人で探さなくてはいけない。信用は自分の振る舞いで積み上げて示すもので、肩書に無条件で付与されるものではない。全ては、相手の前で自分がどのように振舞うのかにかかっている」
「……」
ルイスは改めて、クリストフを見上げた。この人は何者なのだろう、といつも考える。自分の夢の中にいる、都合の良い大人。威圧や的外れな叱責からは遠く、優しく、話を辛抱強く聞いてくれる。感情を落ち着かせる方法をよく知っていた。何の利益もないのに、こうして自分のために言葉を尽くしてくれたのだ。
ルイスが理想とする大人そのものである。大きくて強くて、冷静でそれていてちゃんと優しく気遣いもできる。
猫が飼い主の頭を操って、都合の良い大人を作り出している。これが正体でも十分納得できた。
それを知ってか知らずか、彼は悪戯を思いついたように、にやりと笑う。
「では悩める若者に処方しよう、恋が上手くいくおまじないだ。妻が社交界に入る頃には既にあったそうだから、一定の効果はあるかもしれない」
恋のおまじないなど、とても父親のような年齢の男性から出て来る言葉とは思えなかった。ルイスは笑いそうになるのを我慢しようとしたが、あまり上手くいかない。ココアを頼ってなんとか平静を保っているのを、相手も気が付いているらしい。
彼が笑いながら目の前にぶら下げたのは、銀の懐中時計である。これを月の明かりにきっかり一時間、枕の下に敷くと、想い人が夢の中に現れるらしい。
「きっと上手く行くさ。長い人生、大いに楽しんでくれたまえ。……必ずまた会おう」
もうすぐ夜が明けるよ、と彼はルイスの背中を押して、送り出した。