⑳ソフィの言い分
ルイスが伯爵邸を辞した後、パトリシアは自分の部屋に戻って、何も手につかないままである。言うべきはきちんと伝えた。しかしすっきり解決、とはいかなかった。必要以上に相手が怒り出して関係が悪くなったわけでもない。相手はどこまでも大人だった。
夕食も終わるまで、リヒターはこちらに何も言わなかった。おやすみの代わりに、自分のとびきり良いお菓子、とだけ言って一つ置いて行った。
反対に、にぎやかだったのは妹のエーファである。友人に教えてもらった気持ちがやすらぐ香り、と言って香油をいくつか手に取って試していた。その後もしばらく横で本に目を落としていたが、眠くなったと言って自室に引き上げて行った。
二人がいなくなった後、声を掛けて来たのは侍女のソフィである。彼女の顔にも心配そうな表情がずっと浮かんでいた。
「昼間の話し合い、上手くいかなかったのですか?」
「いいえ。そうではないの。ルイス様はきちんとわかってくださいました。ただ、……私の言い分はどうしようもなく子供だと思ってしまって」
ルイスがパトリシアに黙っていた事情を聞き出す事には成功した。相手も意図があって口を噤んでいて、それにはある程度理解できる理由があった。決して煩わしいと思われていたわけでもない。
けれど、パトリシアの内心は楽になるどころか、自分に対する苛立ちや失望ばかりが占めている。自分がいかに浅はかで、甘えるばかりの子供で、ルイスの苦労をわかろうとしなかったか。
「なんというか、逆に言わせてしまったというか。私はルイス様が優しいから、それに甘えるばかりだったのだと」
パトリシアはできる範囲で、ソフィに経緯をかいつまんで説明する。そしてもう一度、自分の中で気持ちの整理を試みた。
以前、王宮に出仕するのはどうかと、ルイスに相談してみた事がある。それは結局実現しなかったけれど、代わりに一緒に領地に行く方が楽しみだと打ち明けてくれた。それだけは絶対に間違いではないと言ってくれた。
他にも、色々な相手の言動が思い起こされた。以前、ルイスは兄弟姉妹、誰でもいいから欲しいとこぼしていた事がある。
「私は、ルイス様の力になりたいと思っていた。それなのに、自分の至らなさばかりが浮き彫りになって、申し訳なくなってしまったの」
王城での経緯が全て明らかになったわけではない。パトリシアが思う以上に大変だったのだろうと思う。自分の家の権力が及ぶ範囲で収める、というやり方の通用しないのだ。
自分の反対している計画が着々と進行していって、誰もそれを止めようとしない。これは随分と精神的に削られる事態だったはずだ。
二年もの間、近習として勤めていた。それ以前に同じくらいの期間、異国で遊学していたのである。困った時に頼れそうな父君と母君は遠く領地にいる。随分と心細い思いをしたのではないだろうか。
それをパトリシアに説明もせずに、自分で何とかしたのだろう。また、彼はあれこれと理由をつけて、領地に戻っていない。今は学校に在籍までしている。これは大丈夫なのだろうか、と今さらながら不安になって来た。
ヴァンティーク領からしてみれば、後継ぎと確定している令息が不在である。当然あちらは急ぎ戻るように、と説得していてもおかしくない。
彼がすぐに帰らなかったのは、おそらく王都に残った自分達の心配をしていたのだ。寂しかった、などと泣いて困らせた事もある。それから現に、妙な接触があった。気が気ではない中で、学業をこなしパトリシア達の身辺にも警戒を欠かしていない。
偉大な祖父と父に比べれば、というのは度々、ルイスに関して耳にする評価である。彼は特に気にした様子を見せなかった。そんな事ない、とパトリシアは聞こえる度にルイスに抗議したが、彼は笑うばかりだった。
ここまで彼にそぐわない言い方もない、と改めて思う。それを一番知っているのは、あの可愛い猫を除けば、婚約者であるパトリシアであるはずなのに。
結局自分は、いつもルイスに庇ってもらってばかりだと、それを改めて突きつけられたのだ。
母が亡くなってから、自分なりに考えて行動しているつもりではある。それでも周囲の年上の人間からすれば、まだまだ満足できる水準ではない。
今日、ルイスに詰問するかのような形になってしまった事柄も、聞かなければよかったのではないかと、今さらながら思えて来た。あれだけ時間を掛けさせて、気を遣わせてしまった。それなのにパトリシアはルイスを慮るのではなくて、逆に責めたではないか。
このままでは、自分だけが危険から遠ざけられて安穏と暮らし、その時ルイスはたった一人で処理しようとするのだろう。
今までパトリシアは、婚約者であるルイスを頼りがいのある、年上の異性として好ましく思い、憧れていた。いつも、何が起きても冷静でいられる人であると。
しかしこの時点で、自分はルイスを助力できるような存在には程遠いと、自ら認めているようなものである。
ルイスに腹を立てているのではなく、許せないのはパトリシア自身だった。
「……私がルイス様に余計な事を、手を煩わせてしまった。それが本当に申し訳なかったの」
寝台に座ったまま自己嫌悪に襲われていると、ソフィがお嬢様、と声を掛けて来た。こちらを覗き込んだ侍女の顔は真剣だった。
「落ち着いて聞いてくださいね。殿方っていうのは、かっこつけたがるものです。それは少しばかり、判断する時に考慮しておかないと、話がややこしくなるばかりです。あの方のことを私はあまり存じ上げませんが、近くで様子を見ている限り、大切に思っていらっしゃるのは嘘ではないと思います。ここはもう少し、自信をお持ちにならなければ」
しかしですね、と彼女は実際の年齢よりやや幼く見える顔立ちながら、努めて真面目に、それから穏やかな口調で続けた。まるで母親や姉が、年少者を落ち着かせようとするような話しぶりである。
「こちらも相応の準備をし、時間を割いて、先方をお待ち申し上げています。衣装とお菓子とお茶の選定、相手を不快にさせず完璧にこなすというのは一つの技術です。素人が真似しようと思っても、上手くいきません。これは教養の一環で、私にはできない事です」
思いやりと呼ぶべきものです、とソフィは断言した。
「これに対して上手に応えない事には、人との関りは上手くいかないんです。身分だろうと男女だろうと、立場を越えてお互いに気遣うべきだと考えます。私の父は既に亡くなってしまいましたが、いつもこのような話を私にしてくれましたよ」
パトリシアの忠実な侍女は目を瞑って、まるで昔の思い出を懐かしむように一人で頷いている。彼女が教会にほとんど身一つで保護される以前の、生い立ちに触れるような話は、初めて口にした。
ソフィもまた、パトリシアのために心を尽くしてくれているのである。
「お二人はお互い、家のために結婚するのでしょう。お互いに支え合って楽しく生きていくという意思も見受けられます。こちらから気持ちを押しつけてばかりなどと、心配しなくていいはずです。いいですか、お嬢様。それを煩わしいなどと受け止めるのならば」
ソフィはいったん言葉を切って、それから思い切ったように再び口を開いた。
「私がひったたいて差し上げます」
「ちょっと、ソフィ」
「お嬢様がどれだけ相手をお慕いして、心を砕いて、信頼を寄せている事か。令息殿の可愛い婚約者殿であるのは当然、しかし私の可愛い大事なご主人様ですもの、私も命を賭けなければ」
「ルイス様はちゃんと、全てわかって下さっているはず。そんな事しなくていいの」
たとえこの右手を、と物騒な発言をはじめた侍女を、パトリシアは慌てて制止した。彼女を諫め、そのような必要はないのだと説得する。
高位貴族の令息に手を出したのが公になればソフィも、解雇処分で済めばまだ軽い方である。ソフィはこちらの必死な説得に、どこか安心したような笑みを浮かべている。
「信頼し合っている相手に甘えたり、期待したりするのは当たり前ですよ。しっかり反省したのですから、次に会った時に、なるべく全て説明して、ここは自分が悪かったと謝ったら、また以前のように楽しくお喋りできます」
「……ありがとう」
いえいえ、と彼女は笑って、いつものようにパトリシアの寝支度をはじめようとした。パトリシアは先ほど、弟が置いて行ったお菓子を開けようとして、下に敷いてあった書きつけには、ごめん、と書いてあるのを発見した。
他の人には内緒ね、と念押しして二人で半分ずつ食べた。自分が励ましてもらって少し元気になったおかげか、先ほどの夕食よりはずっと美味しく感じる。
ソフィが部屋を辞したので室内の明かりを消し、パトリシアは横になった。それで、婚約者は今どうしているだろうかと想像を巡らせる。
会えたらいいのに、などと思いながら、いつの間にか眠っていた。せめて、楽しい夢でも見ていて欲しいと、心の底からそう思った。