②本日のお願い事
「本日は急な用件で申し訳ありません。お二方には多大なご負担を掛けしまって」
出迎えてくれた少年を前に、パトリシアの内心は緊張から一転、嬉しさでいっぱいになった。馬車を降りた先にいた相手は、記憶にあるより背が随分と伸びている。身に着けている黒を基調とした士官学校の制服がよく似合っていた。
パトリシアはこの少年がもう少し小さい頃、兄君と共に領地までこっそり遊びに来た姿しか知らない。そのため、この場で顔を合わせると、何やら感慨深かった。その時はあくまでお忍び、という態であって正式な身分が明かされる事はなかった。
『……ジル兄上より大きいお魚を釣りました!』
嬉しそうに報告してくれた、無邪気な声がひどく懐かしかった。現在はすっかり低く落ち着いて、しかしその正体は第二王子殿下である。形式的な挨拶を交わした後、相手にとってこちらは昔なじみという立ち位置なのか、彼は少し相好を崩した。ルイスも彼の様子に、穏やかに目を細めている。
「殿下、学び舎はいかがですか? 毎日海が見える、それは最高の暮らしですね」
「……毎日釣りができるとは限らないのですけれど、とても気に入っています。勉学に励む日々は、とても有意義ですから」
「おや、せっかく殿下のために釣り遊びに詳しい者をたくさん派遣したのに」
「書き物の課題が多くて、週末だけですね。特に、学年が上がってからは」
第二王子殿下は冗談交じりの近況報告の間、笑いだすのを我慢するように咳ばらいを繰り返した。将来は軍に所属して王族の責務を果たすため、という名目で現在は士官学校に在籍している。ルイスは入学手続きに加え、臣下や知り合いの子弟を何人か学校に送り込んだと聞いている。今は冬の長期休みのため、こちらに戻って来たのだと教えてくれた。
それにしても先ほどからこの釣り堀め、と言いたくなるようなルイスの発言である。殿下の方は勉学に励んでいます、という姿勢を強調して見せる。気の置けないやり取りが落ち着いたところで、こちらも口を開いた。
「殿下、有意義なご様子で何よりです、お会いできてこちらこそ嬉しい限り。以前お会いした時より、とても男前になられましたね」
「本当ですか? 兄上には『日焼けして王族らしさが無くなってしまった』と。ありがとうございます」
心持ち嬉しそうな様子の殿下は、真面目で丁寧な口調のままで、花かごに丸まっている猫にも一通りの言葉を掛けている。
それが終わってこちらです、と誘導されながら、一行は王城の奥へと進んだ。歩きながら、学校での課題や船上実習の様子を教えてくれる声に耳を傾けた。時折すれ違う者達からは軽い会釈と共に道を譲ってもらい、ゆっくりと進んでいく。
パトリシアも成人した際に一度、この場所に来ていた。今から十年以上前の話だが、とにかく華やかで賑やかな、いつも人が集う場所であったように記憶している。それが現在は落ち着いていて、城内が大きく変化しつつあるらしい。パトリシアでさえそう感じるので、ここを仕事の場としている者達は一層強く受け止めているに違いなかった。
「……落ち着いたでしょう。僕がいた頃はもっと騒々しかった。『嵐は過ぎ去った』と上手な皮肉を思いつく者がいるものです」
弟殿下に先導されているので、表情は窺えない。パトリシアが領地にいる間、王宮は長い混乱、いわゆる嵐の中にあった。異母兄弟の王子のうち、どちらが王太子に選ばれるのか、情報は錯綜した。慣例で言えば兄王子だが、生母は亡くなり後ろ盾もない状態で孤立していた。嫌がらせのように近しい者達の首が次々とすげ替えられて、信頼できる者もいなかった。今でこそゆるぎない立場だが、幼少期は逆に息を潜めるようにしていたと聞く。
そういった事情から正式な王妃の息子である、弟王子こそが選ばれるのではないか、その場合に兄王子の処遇はどうなるのか、と当時は王城に出入りしている者ですら、予想するのが難しかった。
その状況で兄王子を庇ったのは、本来政敵の立ち位置であったはずの、今こうして中を案内してくれている弟王子であったらしい。
ルイスをはじめとした諸侯を巻き込んだ紆余曲折を経て、結局は兄王子の方に隣国の王女殿下との縁談が取りまとめられ、正式な次期王位継承者として擁立された。すると途端に、今度は弟王子の立場が危うくなった。既に国王と王妃は情勢を混乱させた責任を取る形で王城を追われ、厳しい監視の下に置かれていると聞く。
兄王子が弟を庇ったので直接的な争いこそ起きなかったが、居合わせなかったパトリシアに、その心労は到底推し量れるものではないだろう。
「お二方にどれほど感謝しても、到底返しきれるような事はないでしょう。義姉上も隣国より無事参られました。そちらに関しても、尽力して下さって。私はようやく、安心してここを離れる事ができます」
戴冠式より前に、一度学校に戻る予定です、と弟王子は話を続ける。その声の明るさを強調するように、彼はこちらに嬉しそうな顔を見せる。着きました、とある扉の前で足を止めた。
中へ通されると、決して広い部屋ではないものの、造りや内装は落ち着き整っている。上質な大理石の暖炉が部屋を暖めていて、数人が集まって会食するのには最適だ。最奥にいた青年が入室した者達を順に見やって、案内役へと苦言を呈した。
「……部屋で待つようにと指示したはずだが」
「申し訳ありません兄上。けれどどうしてもお話がしたくて」
部屋で待っていた声は、実年齢にそぐわない威厳に満ちている。しかし本気で弟を怒っているわけでもなさそうだった。
『来年こそは、ルイスさんより大きいのを釣ります!』
お久しぶりです、と迎えてくれた兄王子の方も、かつて高らかに誓ってくれた面影がある。弟王子がいそいそと横に並んだ。子供の頃は大変お世話になりました、と顔立ちのよく似た兄弟王子の声が重なる。
それが終わればさあ、と兄殿下が部屋にいたもう一人の女性に促した。既にこちらに来ている、と把握していてもやはり身が引き締まる思いである。
「お話は二人から聞き及んでおります」
上流階級の者達が集まる場において、当たり前だが彼女は話題の中心である。凛とした眼差しは、将来の王妃となるに相応しい気品の持ち主だった。ウィスタルです、と彼女が名前と身分を正式に明かし、挨拶と歓迎の意を示してくれた。
では先に、と挨拶もそこそこに食事が運ばれて来た。招待側は王族らしく上品な所作かつ、若者らしい素敵な食事量でもある。それぞれの簡単な紹介のほか、思い出話に花が咲いて、空気は明るく和やかに進行した。
パトリシアは、夫のルイスが王宮で釣りの話ばかりしていた事実を山ほど教えてもらった。それどころか嵐のどさくさに紛れて敷地内に本気で池を造ろうと画策していたらしく、その度に阻止されていたらしい。パトリシアは頭を抱えたくなったが、本人は懐かしむように笑っている。これは妙な二つ名でも文句は言えない。
そうして料理と話題に一区切りがついた頃合いを見計らい、兄殿下が咳ばらいをした。あくまで和やかな表情ながら、部屋の空気は少し張りつめる。
「散々手を煩わせておいて、とは重々承知の上。ですが、これはお二方にしか頼めないのです」
あまり前例はない話ですが、と慎重に前置いた。弟王子の今後に備え、新しく公爵位と王領の一部を与える計画がある。混乱を避けるためにも、正式な通達前に婚約も整えておきたい。かつては王位を争った中でもあるので、これ以上の波風を立てないため、弟を守るため以外に意図はない。その婚約を結ぶ相手は国内屈指の勢力を誇り、兄弟にとっては父親にも等しい相手を頼りたい、と丁寧な説明が淡々と続いた。
そこへ、もう一人の参加が知らされた。ややあって登場したのは老齢に差し掛かりつつある女性である。彼女が部屋の中を見渡し、怪訝そうな眼差しを身内へと向けた。
「……こんな何もない時期に、恩人をわざわざ呼びつけて。不躾ではないの」
「思いつく限りの礼は尽くしたつもりです。おばあ様の分も用意してお待ち申し上げたのに」
「結構。それで、用件は伝えたの?」
現れた女性は、二人の祖母君である。張り詰めていた空気が、もう一段改まったように感じた。
「ええ、ちょうどその話をしたところです」
「私は良い話だとは思えないけれど」
彼女は自分の孫達ではなく、はっきりとパトリシアに目を向けた。