⑲仲たがい
「ブランシュさんと、それからリヒターとエーファが話してくれました」
パトリシアは、ルイスを伯爵邸に招いた。彼はいつものように手土産を携えてやって来た。しかしこちらの硬い表情に何か察したようで、あちらも神妙な顔つきで、こちらが話を切り出すのを待っている。
先日の集まりが終わっての帰り道、馬車の中での言い争いはなかなか終わらず、弟はこちらに向かって文句を言い続けた。いくら姉でも、婚約者が白と言ったら全て白に違いない、といつまでも言い張った。対するパトリシアは苦言の一つや二つ、いくらでも呈すべきだと反論し、今に至る。
エーファには、今日は挨拶しなくていいと言い置いてあった。弟妹と、何か言いたそうな顔の侍女のソフィを下がらせて、自分でお茶を用意した。
カステル家の子供達を三人並べれば、最も親しいのはパトリシアのはずである。婚約者なので当たり前だ。ところがルイスはあの日、王城で起こった出来事の情報を明らかに制限した。
その意図は、どれだけ時間をかけて考えても思い浮かばなかった。昨晩からあれこれと冷静に、穏便な話の進め方を頭の中で練習しておいた。それなのに相手の顔を見ていると、冷静にはなれないのである。
パトリシアはルイスと、伯爵邸の中庭で向かい合っていた。この件について話をした時、ルイスはまだ近習として勤めていた。まだ春の初めの頃だったと記憶している。もう少しで退官する期日が近づいていた。王城で何があったのか、ルイスはここで説明してくれた。
ところが実際、エーファは王城でルイスに会ったけれど、それを口外しないと約束させられていた。この件に関してルイスが追及されると予想され、巻き込まれる可能性があるからだと言い含められたらしい。姉であるパトリシアも例外ではなかった。
どうして自分には何も教えてくれなかったのか。この件を追求したら、ルイスがどんな反応を見せるのか、パトリシアには全くわからなかった。うやむやにしてしまおうかと思った。それでもこうして呼び出した以上は、相手を見据えて話をしなければならない。
「ルイス様。……リヒターはもうそれなりの年齢なのでともかく。エーファもいつか大人になって、家を守るために、時には上手く躱す立ち回りが必要なのは理解できます。けれどそれは、私に黙ってやらないで欲しかった」
「それに関しては、全く貴女の言う通りだ。申し訳なかった。彼女がしっかりしているのに甘えてしまったのは反論のしようがない。あの日何が起きていたのかに関して、貴女だけに隠し通したかったわけではなくて、完璧にできるとも思わない。ただ、今は話せる状況ではない、もう少し待っていてくれないか」
相手は、こちらが思った以上に落ち着いている。声を荒げたり、話題を逸らしたり、誤魔化すような事はしなかった。
「あの出来事を利用して、上に取り入ろうと画策した者がいる。あろうことか、現にまだ未成年の貴女にまで、わざわざ接触を目論んだ。それは上手くいかなかったが、完全に諦めたのかどうかはわからない」
ルイスが持ち出したのは、夏前の一件である。確かに、ルイスが王城で評判を落としたなどと言い、わざわざパトリシアに話をしに来た者がいた。他の大人達の目がない場所まで追いかけて来た、あの侯爵の言動は確かに奇妙だった。
それがこの件に波及して来るのは予想外だったので、パトリシアは言葉に詰まった。その間にも、ルイスは努めて落ち着いた声で先を続ける。
「『リヒターとエーファが王城に招かれているから、手間でない範囲で気にかけて欲しい』、と貴女が手紙を寄こした。万が一、私が咎を受けた時、自分にも責があるなどと言い出しかねないと思った。それは、貴女が思う以上に悪手になってしまう。だから話せなかった」
ルイスと自分では、相手の方が年齢は上である。家同士の間には確固とした上下関係が存在し、彼は既に先に社会に出ているという経験もある。その重みは言葉の端々に確かに感じ取る事ができた。
今までルイスと、このように張りつめた空気でやり取りはしていない。いつも、気を遣って優しくしてくれていたのだと今さらながらに理解した。
彼の口調は弟妹に、理がないと弁えなさい、と自分が言い聞かせるのと少し似ている。昔はそうでもなかったけれど、最近は随分と知恵や反論を試みるようになってきたから、随分と大変になってきている。けれどどちらも好きだから、手間や煩わしいとは感じない。
では、ルイスはどうだったのだろうか、と思う。婚約を無下にはできない以上、ルイスもこちらに随分と気を遣い、定期的に顔を出す分で、自分自身が使える時間は目減りしたはずだ。今まで、煩わしさを感じた事はなかったのだろうか。
「……話せる範囲での説明で、もう他の者から情報を得ていたとしたら申し訳ないが」
ルイスは改めて、あの日何が起きたのかを説明し始めた。
そもそも、子供達の教育の進度や家での立場は異なる。まだ家から出て、何かあった場合に問題になりかねない王族相手にやりとりするべきではない、とルイスは考えていた。
王太子殿下の発案で、子供達を王城に招く場が設けられた。お茶とお菓子を提供して、自慢の楽団に手配して演奏を披露する程度なら、そこまで大きな混乱は起きないだろうと予想された。この時点では国王夫妻も大きな反対はしなかった。
ところが蓋を開けてみれば、庭園全体を使った遊びが計画されていた。その上、一番勝った一組だけを優遇するならともかく、逆の決まりがあるらしいと初めてわかったのである。
それは初めて会う相手、身分の違う相手と行うべきではないとルイスは進言した。しかし聞き入れられず遠ざけられ、当日は全く別の面倒な仕事を言い渡された。
「そう、こちらの諫言を聞き入れて下さる気はなさそうだった。それで私に一定の信用を向けて下さっていた王妃陛下に、密かに事の次第を説明した。それで、極力穏便に治める方向で話がまとまって、私はそれに従って動いた。……方法は想像に任せるけれど」
パトリシアがブランシュや弟妹から聞かされた話に、ルイス自身しか知らない情報が加えられた。彼は常に余裕をもって仕事に臨んでいたばかりではなかったようだ。
はい、とパトリシアは納得したような返事をした。これで話を終わりにしなければならない。しかし王城での経緯を耳にして、もう一つの疑念が浮かんできた。
「あの、私には別にもう一つ、伺いたい事があって」
これはもう少し前の話になる。彼が仕官している時、パトリシアは提案してみた事があった。自分も行儀見習いとして、王宮に上がるのはどうだろうか、と。
集まりに出かけた際に耳にした話で、王城に行儀見習いとして上がっていた女性が教えてくれた。とても良い経験になって、かなり良い縁談が舞い込んで来たらしい。多くの少女達が彼女の話に聞き入って、パトリシアも例外ではなかった。
王宮という華やかに思える場所に少し憧れたのもあった。母親がいなくなってしまった分の不安を補ってくれるのではないかという期待もあった。
どう思われますか、とパトリシアはルイスに真っ先に相談した。すると、個人的な意見だと前置きしてから、彼が言った。
『どちらかと言えば、私は領地に早く来てくれるほうが助かる。一緒に過ごす時間が増えて、ちょっとしたやり取りもしやすい。それに私の個人的な理由で、……その方が嬉しい』
あの時、ルイスは少しはにかんだような笑みを浮かべながら、他の誰にも聞こえないように声を落として囁いた。パトリシアは嬉しかったので、その台詞をまるまる真実だと捉えた。
しかし今、ルイスが口にする事と、意図が必ずしも一致しないという事実が判明した今。その台詞は引っかかって、この場ではっきりさせずにはいられなかった。
「……あの時におっしゃっていたのは」
「最初から、王宮に行かせる気がなかったのは認める。……けれど」
あれも嘘、もしくは別の意図があっての発言だったのか、とパトリシアが口に出す前に、ルイスが遮った。
いつもの虫一匹殺さないような、穏やかで余裕をたたえた表情ではなかった。パトリシアの一挙一動に自らの命運が委ねられているかのような、切羽詰まった表情である。
しかし後から考えれば、母親が既に亡くなってしまい、当主としては申し分なくても、パトリシア個人にとっての父があまり頼りにならないカステル家の現状がある。誰がエーファとリヒターの面倒を見るのか、という点について実現の可能性は低かった。
自分で言い出して相談しておきながら、軽率だったとパトリシアは反省した記憶がある。仮に話が進んでから無理でした、となればあまりに失礼で、大失態でもある。
「貴女の考えとして、おそらく伝手や人脈や、教養を身に着けるのが目的だったと想定した。その気概や、責任を果たそうとする姿は好ましいと思う。ただ、今の王宮でそれは現実的ではない。王族同士の争いに巻き込まれて、下手を打てば破滅しかねない。私との婚約だけでは、守るどころか余計な敵意を招きかねない状況だ。だから行かせる気がなかった、という結論にはなる」
そんなはずがないじゃないか、と慌てて否定してくれるのを、パトリシアは期待していた。けれど、ルイスの返答は全く違うものだった。
「だがそれを、煩わしいからだという的外れな推測に押し込まれるのは大いに不本意だ、パトリシア。貴女が今も、これからもできる限り楽しい暮らしであって欲しいと願っている。押しつけがましかろうが、私は貴女だけは危険な目に遭って欲しくないだけだ」
沈黙が下りた。他には、とルイスはいつもの優しい笑みをほとんど取り戻して、顔に貼りつけていた。一方のパトリシアはあれこれと聞き回ったのに、まだどこか納得はいかない。しかしこれ以上続けても、自分はただの我が儘な子供だと嫌悪するだけの時間になってしまうだけなのだろう。
「……申し訳ありませんでした、忙しいのに、お手間をお掛けして」
「手間だと思ってはいない、貴女は何も悪くないのだから。それだけはどうかわかって。ここへ来るのは、私の楽しみで、安心して息をつける時間だった。
次に会う時はもう少し楽しい話をできるように。二人は互いに約束をした。それでも、パトリシアには、どうすればそれが実現できるのか、全く想像できないままだった。