⑱『昔、大切に保管していた封書の中身が書き換わったという話があって』
「いいのです、さあお先に。今日のために新しく靴を用意したのですけれど、履き慣れないのであまり急げないから、さあ」
先ほどのやりとりを、エーファは英断だったと内心で自分を褒め称えた。今日は大勢の子供達が参加している。ここは特別な場所なので、自分の屋敷や領地、若しくは子供達のために開かれている集まりとは違って、遅れている自分達への手厚い配慮は望めないかもしれない。ここはなるべく早く戻って、悪目立ちしないように立ち回らなくてはいけないだろう。
よくできたはず、という高揚感に近い気持ちは、しかし少しの時間しか持続しなかった。彼女達が申し訳なさそうに、木々や小道の向こうに遠ざかって、一人きりで取り残されると、自分で言い出したにも拘わらず、なんとも悲しい気持ちでいっぱいになってしまう。梢の高い場所を揺らす風の音が妙に大きく聞こえた。
だめだめ、とエーファは心細さに屈してしまいそうな自分に言い聞かせた。ここは領地や屋敷ではない。帰り着くまで、カステル伯爵家の名に恥ずかしくない振る舞う必要がある。
一瞬、靴を脱ぐ事も考えた。しかし裸足、正確には靴下だが、はしたない振る舞いとして数えられてしまうだろう。
とりあえず一歩、と踏み出してみたものの、じんじんとした違和感は、いくらも戻らないうちにぴりぴりとした痛みに変わっていて、結局立ち止まってしまうのだった。
母が亡くなってしまって、今は年齢の離れた姉のパトリシアが、代わりに色々な面倒を見てくれている。
姉が父を説き伏せて、今日のためにとびきり可愛い衣装一式を用意してくれた。靴も、早めに納品してもらって前日までに何度か履いておいた。靴擦れしないように慣らしておいたのだけれど、それは一般的な想定の範囲内である。まさか、このように広大な敷地を、手がかりの書いてある地図を頼りに歩き回るような事態を、屋敷の誰も想定していなかった。
今日はどんな予定が組まれているのか、あらかじめこの王城のどこかにいるであろう、ルイスに事前に問い合わせておけばよかったのかもしれない。しかし王城の仕事に関わる事は当たり前だが機密とされている。下手すればルイスが懲罰されるかもしれない。そこまで迷惑は掛けられない。
大体、懲罰があると思わなかった。これをもし、兄が自分に強要したら勝てるわけがないので拒否一択で、そもそも姉が止めに入るだろう。
オレリアン王太子殿下は、楽しい集まりを、主催してくださったのだと思っていた。あちらは楽しいと思って企画したのかもしれない。これが殿下によって匂わされた瞬間に、他の子達が緊張の中にも期待や楽しみは、全て吹き飛んでしまった。
自分達は招待された、と言っても決して客人ではない。主催を楽しませる側なのだ、と子供達は妙な緊張感を持っていた。どうやら会場近くの宝物は、男の子達が先を争うように見つけてしまったらしい。自分達が進む間に、ここはもう見つけたよ、頑張ってなどと二組ほど通りがかったが、自分達の組は愛想笑いを浮かべるのが精いっぱいだった。
宝物は見つけたのだ。それならば自分達は懲罰の対象からは外れた事になるだろう。けれど他の子が受けるのは、それはそれで、嫌な気分だった。どの子も可愛く綺麗に着飾って、わくわくした表情で待機していた。それなのにどうして、と思う。
「……いた」
声が聞こえたような気がした。お城の敷地内、どこなのかもよくわからない場所で立ち尽くしていたエーファは、聞き覚えのある声に振り返った。
少年とも青年とも呼べそうな年齢で、整った顔立ちと黒髪に青い瞳という珍しい組み合わせ。それから、耳だけ小麦色の白い猫。声の主は姉の婚約者である。どうやら、もう一人で心配する必要がなくなったのだと認識して、エーファは心の底からほっとした。立ち止まっていたのは、もう歩けなかったからだった。
ルイスは突っ立ったままの自分に近寄って来て、尋ねる前から靴擦れだと言い当てた。
「ごめんね、来るのが遅くって」
「ううん、じゃなかったごめんなさい。……いえ、平気です。この方が丁寧でいいですよね?」
ルイスは月に何度か屋敷を訪れる時とは服装が違う。黒を基調として、襟の詰まった近習の制服らしき恰好は、いつもの虫一匹殺さないような優しい笑みとは少し違う。いつもまっすぐに無造作な髪も、なにかでまとめて前髪が上がっていた。
それから帯剣している。細身の優美な飾りのついた鞘の意匠が、木々の間から差し込む光を受けて、静かに存在を主張している。
別人とまではいかないが、これが本来の侯爵家令息、というものなのかもしれない。優雅さと少しの威圧感とが同居する、自然と居住まいを正すべき相手なのだ。
けれど、屋敷での立ち位置を薄々理解しつつあるエーファにとって、安心できる相手に変わりはない。あのしっかり者の姉ですらそうなのだから、自分にとっても同じである。
彼が、姉パトリシアの精神の根幹部分を堅牢にしていた。多少、誰かに悪く言われたところで、姉が全く歯牙にもかけないのは、ルイスがいてくれるおかげなのだ。エーファが兄姉を頼りにしているように、多少寄りかかっても大丈夫な、頼りとしているのをそれとなく理解していた。
それからいつものように、白猫が何も言わずにかたわらに、影のように寄り添っている。尻尾がゆらりゆらりと、別の生き物のように動いている。猫さん、とエーファが呼びかけると鳴いた。
姉のパトリシアは彼女を可愛い猫、として捉えている。兄のリヒターは言葉や態度に出さないが、少々怖がっていた。
猫を仕事先に帯同するのは信じられない、と言う。ところが、ルイスが近習として王宮にいるのを知っているのに、猫を話題に出す者はいない。姉には聞こえないように、兄はそれがおかしいと常々呟いている。ルイスのところの使用人に問いかけてみたが、さあ? と笑って躱されたそうだ。
「……ずっと気になっていたのですけれど、こんなに可愛くて素敵な猫さんが一緒にお仕事をしているのに、誰も猫さんの話をしませんね。私だったらずっと猫さんに会えるのを楽しみにしているかも」
「みんな忙しいから、誰も猫を気に留めないよ」
エーファが疑問に思っていると、ルイスはなんとも皮肉気な笑み、姉がいる時にはあまり見せない笑い方をした。けれどそれが見えたのは一瞬で、彼はエーファの足元に身を屈めながら、制服の上着を脱いだ。抱きかかえつつ、器用に靴をそうっと脱がせて、上着で外からは見えないようにした。
「……血が出るところまではいっていないようだが、今日は安静にした方がいいね」
「わかりました。でもなんだか今日のルイスさん、知らない方みたい」
「一緒、一緒。ほらよく見てよ」
彼が立ち上がった時には、いつもの優し気な笑みを取り戻していた。歩き出したルイスはいくらもしないうちに、エーファが通った道を逸れた。足は王城の建物の方へ向かっている。
「強いて言えば、君やパティさんといる時と、仕事の時とは違うから、大目に見て」
それでね、とルイスは声を潜めた。見上げると、青と灰色とが複雑に入り混じった綺麗な色がよく見えた。
「頼みがある。くれぐれも約束して欲しい。ほとぼりが冷めるまで、ここで私と会った事を、決して口外しない。『靴擦れを起こして王宮の医務室で行って手当てを受け、たまたま行き会った私の配下に屋敷へ送ってもらった』、君が屋敷に帰って報告するのはこれだけだ」
はあ、とエーファは返事をしながら目を瞬いて、ルイスからの要請の意味を考え込んだ。ルイスの要請そのままでは、大事な情報が随分とそぎ落とされ過ぎていると思う。誰かにお世話になったら報告して正式にお礼を伝えなくてはいけない。逆に困った事になっても、きちんと説明して指示を仰ぐ取り決めになっている。それは親しいルイスとて例外ではない。
「難しく考えなくていい。つまり私が君を探しに来て、見つけたとか、そこをぼやかしておく」
「理由はうかがっても?」
なんで、どうして、という子供っぽい受け答えは控えた。それがね、とルイスは申し訳なさそうに苦笑を浮かべている。
「殿下は今日の召集を、それはそれは楽しみにしていてね。ところが皆に配った宝探しのための手がかりの内容が、事前に用意しておいた内容と変わっていたそうだ。誰かが悪意を以て台無しにしたのだと信じ込んで怒り狂っている。そしてなんと、今日の召集に表立って反対したのは私だけだ。つまり、真っ先に疑われる」
ルイスはお茶会を召集と呼んだ。それにしても殿下に疑われる、というのはとても恐ろしい事のように思えてしまう。けれどルイスは表情を崩さなかった。
「この後は査問確定だ。私が今日、いつどこで何をしていたのかを洗い出し、接触した者全てに説明を求めるに違いない。足が痛い上に心細い思いまでしたのに、私と会ったという理由だけで、再び召喚されたくはないだろう。私の不利になる証言を吐くまで、お屋敷に返してもらえないよ。お水やご飯が欲しかったら、まではしないかもしれないが保障できない。というわけで、この後は帰って知らない、私とは会っていないと突き通す。これから信用できる者に託して、医務室まで連れて行ってもらうから」
なるほど、とエーファは頷いたが、一つ気が付いてしまった。今この状況は王城に貴族階級の子供達を連れて来て、それで主催者の予定になかった事が起きている、らしい。
それはつまり、あの頼りになるルイスにとっても想定外の事態のはずだ。それなのにこの人は妙に冷静だった。近習として勤めているので真っ先に事態の収拾をはかるべきなのに、何故かこうして庭園のどこかで今は足をとめて、エーファの承諾を待っている。
行きの馬車の中で、兄に釘を刺されていた。ルイスに会えるだろうかとエーファが口にした時、向こうは仕事で忙しいんだから、と。
それなのに、彼は今、エーファのところにいる。この人はまるで、今日のお茶会が最初からこうなると見越していたかのようだった。
「私に難癖を付ける人があちこちにいてね。王子様のお気に入りになるために、適当な奴の悪口を引き込むのは簡単で効果的だ。それが、殿下がお気に召さない者だと効率がいい」
「姉さまにだけ、こっそり打ち明けるのも?」
「ほとぼりが冷めるまではだめ。後から、私が自分で説明するよ」
「……」
パトリシアから手紙が来た、とルイスが言った。王城でのお茶会に招待された兄と自分を気にかけてやって欲しい、と書いてあったらしい。だからこの状況で何かあったら、自分のせいだと言い出すかもしれないが、これは私の判断した事なので責任は自分だけにあるとルイスは説明した。
「君達を、こんなくだらない事に巻き込めない。頼むよ」
エーファはすぐに返事ができなかった。共謀するのである。姉が大事にしている、精神的な部分を深く揺さぶるのではないか、と危惧した。しかし屋敷の外で起きている事は、そう簡単には解決できない。相手が相手、である。
天秤はぐらぐら揺れた。姉に嘘はつきたくないが、期間を設ける条件が、結局エーファの妥協に繋がった。
「わかりました。ルイスさんの言うとおりにします。姉さまにも、ほとぼりが冷めるまでは秘密にしておきます。でも、一つだけ」
「うん?」
「……大いに不本意です」
「覚えておく。本当に申し訳ない」
「……エーファ、よくそんな口の利き方ができるな。あの人は次期侯爵だぞ!」
「ルイスさんだから言えるの。私だってそのくらいはわかる。姉さま、勘違いして欲しくないのは」
エーファは黙り込んでいるパトリシアに向き直って、大真面目な表情で見上げている。
「もちろんルイス様は好きですけど、一番好きなのは姉さまですから。確かに抱っこして運んでもらったのは事実ですけど、歩ける状態であれば断りました。姉さまを差し置いてそのような振る舞い、大いに不本意でしたがごめんなさい。だから姉さま、そんなに怖い顔しないで」
「……これが普通の顔です」
パティは顔が強張っている。エーファに嘘までつかせて、ルイスは何も教えてくれなかったという事実が今頃になって判明したためだ。
反対に、馬車の中で大騒ぎを始めたのは弟のリヒターだ。
「やっぱり! 僕の思った通り!」
「リヒター、静かにできないの?」
「あの人が僕に何て言ったと思う? 別荘で一緒に釣りをした時。殿下に疑われて大丈夫なのかって聞いたら、『証拠がないのに糾弾しても時間の無駄』だってさ! そんなの、あらぬ疑いを向けられて狼狽している時の台詞じゃないよ! 絶対あの人だ!」
「どうやって?」
しれっとした顔でエーファは首を傾げている。リヒターは苛立ちを抑えられないらしい。
「可愛いけどあの変な猫だよ! きっとあれはルイスさんと契約した悪魔か何かだ。夜な夜な子供を脅して追い掛け回してニタニタ笑っているに違いないよ!」
「兄さん、それ同い年の女の子達に言えるの?」
リヒターはしばらく妹を睨みつけた。
「……父上は論外で、姉さまとエーファはルイス様に目が曇っている。結局、大人になったらあの人の傘下に入って、僕もエーファみたいに訳の分からない命令をやらされるんだよ!」
「ちょっと、いつ私がルイス様に阿るあまり、あなたを蔑ろにしたと言うの? 具体的にあげなさいよ」
そうだそうだ、とエーファが同調して、馬車の中の言い争いは真っ二つであった。