⑯助言
ではおやすみなさい、とルイス達はコテージにあるそれぞれの部屋へ引き上げた。自分が選んだ部屋は、家族揃って案内されるような広い部屋だった。寝台がいくつもあるが、一緒に使うのは猫だけだった。
身支度を一人で済ませた後、ルイスは眠る時でも肌身離さず持ち歩く、特別な銀時計を取り出す。
「猫さん、クリストフに会っておきたいのだけれど。今夜、お願いできるかな」
飼い猫は、過ごしやすい保養地を当たり前のように堪能していた。こちらの求めに応じるように鳴く。
ルイスは窓近くの寝台を選んで横になった。猫は出窓に設置した絹の敷布に、食パンみたいに手足を折りたたんだ座り方をしている。部屋を暗くすると、窓からの月明かりを悠々と浴びていた。三角耳のシルエットだけで猫だとわかるのを面白く感じつつ、ルイスは目を閉じた。
初めてクリストフと会った日から時折、ルイスは彼に会いに行っていた。猫の機嫌の良さそうな日を見計らって、お伺いを立てている。
それ以外にも、猫さんはどうやら目に見えるものを操る能力があるらしかった。領地にいる父が詳細を話してくれないので、推定でしかないが、おそらく間違いではない。ルイスが黒髪に青い瞳、という目立つ容姿を持ちつつも、他の生徒達に露見せずに変な転校生扱いで学び舎にいられるのも、そのおかげである。
気が付くと猫はルイスの目の前にちょこんと佇んでいた。満更でもなさそうに尻尾をぴんと立てて、ゆっくりと歩き出す。
しばらく、彼女の先導に従って進んだ。どこともしれない、景色の移り変わりを横目に歩いていると、遠くに人影が見えた。近づくにつれて、式典用の本格的な装飾や階級章、身分証を付けた軍装姿だとわかる。それから何か、大きなものを片腕に抱えているのが見えた。
「……クリストフ? どうしたの、その子」
「やあルイス、久しぶりだね。この子は迷子になっているのを見つけたのだ。安全な場所まで送って来る」
じゃあ、とルイスは彼の後に続いた。抱えられている女の子は五歳くらいだろうか、きらきらとした金の髪だが、今はクリストフの肩に顔を埋めていて顔立ちはわからない。怖い目にでも遭ったのか、時折すすり泣く声が聞こえるだけだ。
「……では、私が今から我が屋敷の可愛い飼い猫、仕事関係の話、もしくは私の家族について話をしよう。ルイス、どれがいいかな?」
唐突にクリストフが提案した。本当は仕事の面白そうな話が良かったけれど、ルイスはまだ泣いている女の子に気を遣って、奥さんとの馴れ初め話が知りたい、と頼んでみた。彼がその手の話題をどのように扱うのか、興味もある。
「いいだろう。私が初めて妻と出会った時、私はまだ五歳かそこらだった。池のほとりでうっかり蛇と遭遇して……」
クリストフは詳細に語り始める。口ぶりからして、その場しのぎの即興ではないらしかった。ルイスはパトリシアから借りて読んだ、少女向けの恋愛小説みたいな内容が耳にくすぐったくて、話の半分くらいしか頭に入らなかった。
異性の話、特に学校で同い年の少年達とやり取りする類は、とても婚約者の耳には入れられるような内容ではない。先日、同室達とうっかり遭遇した際の展開次第では、彼らを池に投げ込むのも止むなしであった。しかし一応、彼らはルイスの冷たい目に気が付いたようで、気を遣ってくれたようだった。
クリストフが口にするのは、学び舎で耳にするのはもちろん、父やその名代として出かける先で耳にするのとも異なっている。あくまで穏やかに落ちついた口調なのだけれど、声に熱がこもっているように聞こえてしまう。
ルイスはその女性の顔も何も知らないけれど、きっと彼は結婚した相手を大切にしているらしい。声色や表情から、十分に察する事ができた。
照れくさいルイスは、軍事史で習った内容を頭の中で復唱している。それとは対照的に、すすり泣いていた女の子は目を丸くして聞いていた。
誰かの優しい声は、根拠がなくとも、耳にした相手を落ち着かせるものだと思う。クリストフはそれをよく理解しているのだろう。
池にはまったクリストフ少年を、泥だらけになりつつも助け出した女性と、後に結婚したらしい。相手に会いに行くたびに浮かれて、十代半ばの時にようやく背丈を越せたのが嬉しかった、などと語っている。
ルイスは少し先を歩く自分の飼い猫、そのぴんと立てられた尻尾を見物しながら後に続いた。
やがて、クリストフが安全と判断できる場所へとたどり着いたらしい。周囲は背の高い囲いがあって、内側ではゆっくりと馬を駆る青年が見える。女の子が誰かの名前を嬉しそうに叫ぶと、青年が驚いた様子で馬の脚を止めて降り立った。馬と一緒に、こちらへ走って来るのが見える。
「お二方、どうもありがとう。それから猫ちゃんも」
またね、と彼女もクリストフの腕から地面に下りた。スカートの裾を摘まんで、こちらに可愛らしいお別れの挨拶をしてくれた。
「……君のように、冒険心の強い少年ならいいのだが。女の子が来ると、私のように大きい男はどうしても委縮させてしまうのが悩みの種で。そのような場合、私が家で妻に全く頭が上がらず、常に骨抜きにされているような情けない男であると打ち明けると、途端に警戒心を緩めて、馴れ初め話を迫る始末さ。いつもそうしている」
「実際のところ、骨抜きにされているの?」
そうだよ、とクリストフは苦笑しながら投げやりに答えた。彼がよく語ってくる奥方の存在は大いに気になったけれど、あれこれとしつこく聞き回るのは恥ずかしい。
それでね、とルイスは話を切り出した。
「あのさ、すごく失礼な質問だけど。クリストフって死んでいる人ではないよね?」
ルイスの、相手の機嫌を損ねないようにとおそるおそるの問いかけに、彼はしばらく笑った。
飼い猫に導かれ、彼と初めて会ってから随分と時間が経ってしまっている。しかし未だに、起きている時間にクリストフの正体を突き止められていなかった。珍しい名前ではないので、あちこちで彼と同じ名前の相手と知り合うと期待が高まるのだが、一致した事はない。
その上、彼は時間が経っても容姿に全く変化が見られないのである。これはどう考えて奇妙だった。
「予想を外して申し訳ないな。私も仕事は忙しいが、結婚したからこれでも夫で父親、元から兄がいるので弟、そしてもちろん誰かの息子でもある。それから今は、君の相談役も務めているつもりだ」
彼は誇らしげに語った。彼が夫や父親、をしている時はなんとなく思い浮かぶけれど、弟や息子、という関係性でいる時にどんな風にふるまうのかは、想像が難しい。
そのうちに、クリストフがいつも待機している瀟洒な別荘のような場所へ、二人は戻って来た。
「私が夢の中でする仕事は、単なる代理だ。屋敷にいるのは、妻の実家の猫だと言っただろう? 悪夢と接触する可能性があるのなら、夫としては断じてさせられない。そこで私がつなぎとして代行するのを提案して、妥協してもらったわけだ」
「どうして? 大変じゃないか、こっちは毎晩のように悪夢退治に付き合わされているのに」
「『あなたのような美しい人、夢の中でどこの誰とも知れない者に懸想されては困る』とね。これで妻の説得に成功した。私なら、多少の事態はなんとかなる。熊に襲われた程度なら迎え撃ってみせよう」
クリストフが大袈裟に、芝居がかった口調で奥方を説得した時の口調を披露したので、ルイスも笑ってしまう。彼は自らの屋敷の中で、親しみやすい夫や父親としてふるまっているらしい。
「クリストフ、もう一つ質問してもいい? ここがあなたの夢の中だとして、目に見えているこの場所は、想像なの? それとも何か思い出がある? ほとんど同じ景色の場所を見つけたから」
ルイスは問いかけた。現在、侯爵家が所有するコテージに滞在中なのだが、建物の外観や内装が、いつもクリストフが待機している場所に酷似している。こちらの質問に、相手はゆっくりと言葉を選んでから、短く答えた。
「ああ、そうとも。子供の頃に遊びに行った場所だよ。兄と一緒に行って、とてもよくしてもらった」
「……そう」
それが真実だとしたら、管理人に聞き出せば、彼のおおよその正体は見当がつくだろう。けれど、ルイスは結局質問できなかった。
このクリストフと、起きている時に会って話をしてみたい。けれどこの曖昧なままで、ルイスと飼い猫だけの特別な秘密でいて欲しいとも思う。
彼はその微妙な心の機微を理解してくれたらしい。
「まあ、男は秘密がある方が魅力的だからね。ちなみにこれは妻の受け売りだが。私が何者なのかは、そのうち露見することだ。今日はそれだけかい?」
ルイスは首を横に振った。話を切り上げて、本題へと移る。パトリシアが知り合いの屋敷へ出かけた際、声を掛けて来た男がいたらしい。相手はルイスの王城での仕事の件を持ち出して、彼女に取り入ろうとするような言動をとった。
コンラッド・フェネオン侯爵。領主としても優秀で、容姿も優れているためか、現在の社交界でもひときわ目立つ人物である。おまけに独身で、婚約者もいないらしい。直接面識はないが、王城にいた頃の上司、つまり王太子オレリアン殿下が彼を気に入って、頻繁に招いているそうだ。
「それから、猫さんが勝手な真似をしたらしい。どうしてそんな変な事ばかりするのだろう?」
パトリシアは推測に自信がなさそうだったけれど、ルイスには確信があった。飼い猫は屋敷の主人に化けて、コンラッドを追い出したのだ。相手はまだ未成年が集まる場所に入り込み、綺麗な品物を見せて回ったり、銀の魔除けは時代遅れなどと喧伝したりしていたらしい。
「恐喝となりすましは犯罪だよ、猫さん」
ルイスは事実をかいつまんでクリストフに説明した。状況を加味すれば、パトリシアの窮地を救ったようにも思える。ちらりと猫を見やったが、彼女はいつもどおりのふてぶてしいまなざしで見返してきた。猫としては善意のつもりだったに違いない。
そして、その気になればこの程度の事は造作もないのだろう。学校ではルイスの素性を隠し通し、かつては複数の施錠と屋敷にいた人間の目を欺いて、ルイスに銀時計を触らせた件からもよくわかる。
困った猫さんでしょう、とクリストフに訴えた。何とか大人しくさせる方法の手がかりだけでもないかと尋ねようとした。しかし彼は口を噤み、少し考え込むようにしている。
「銀が嫌いで、古くて綺麗なもの。ルイス、その男を警戒しておいた方がいいかもしれない。猫さんが感づいているのなら、尚更だ」
「……やっぱり? 僕はよく知らないけれど、まだ成人前の女の子達の集まりに顔を出す不審者なのは、そうだよね」
薬師を遣ってあちこち探らせてみると、積極的に様々な集まりに顔を出しているらしい。侯爵という身分のために、どこへ行っても歓迎されているようだ。舶来の珍しい品を見せて回っているが、商談とも違うらしい。
そして、パトリシアにわざわざ声を掛けた理由は不明である。
ルイスが苦々しく思っていると、クリストフが真剣なまなざしでこちらを見た。いいかい、とゆっくりと口を開く。
「悪夢という存在は、古くて綺麗な舶来もの。これと強い関連があるらしい。海の向こうから一緒に持ち込まれたのだという説がある。つまり、その男は悪夢について、何か知っているかもしれない」
「猫さんはこれだよ、僕の家の銀時計」
「そうだ。この猫さんが何者なのかはっきりした答えはないが、百年単位で人の側で暮らす事を選んでいて、友好的で残忍性も低い。彼女は特別だ」
はあ、とルイスは飼い猫をじろじろと観察した。散々夢の中でよくわからない目に遭わされているので、クリストフの説明とはかけ離れているように感じてしまう。けれど彼は、まだ真面目な表情で話を続けた。
「悪夢が子供を捕まえたら、身体を乗っ取って悪さをする場合ともう一つ、自分から悪夢と手を結ぶという場合がある。私が見聞きした中では、とある楽師が主家の屋敷で、その家の子供を襲った事件があった。幸い未遂だったけれど、罪状的には重い罰が下るとなった時」
クリストフの眼差しに、何か冷たいものが浮かんだ。
楽師は何も覚えていない、と言い出したらしい。詳しく調べてみると、一年前までは繁華街にある酒場で歌を披露し、日銭を稼いで暮らしていた。何人かの交際相手に養ってもらっていた証言も複数出てきた。それがいきなり上流階級の人間の目に留まるような素晴らしい歌声を手に入れ、あっという間に社交場に出入りするようになった。
本人は覚えがないというが、罪状的に釈放もできない。一度その男と話したが、嘘をついているようには見えなかった。けれど結局、その男は次の冬を越せなかった。老人や病人のように内臓が脆くなっていて、風邪をこじらせてあっさりと命を落としてしまった。
「大勢に優れていると認めさせた音楽の才が、何を対価にして与えられたのか、想像がつくだろう」
クリストフは淡々と説明し、ルイスは思わず猫を見ていた。父によれば、ルイスの家は誰かが猫を養うという契約を交わしているらしい。自分なりに真面目に世話しているつもりだが、なんだか恐ろしい話を聞いてしまったような気がした。
早死にしたくない、と訴えるルイスを見て、クリストフは少し笑う。
「この猫さんはそんな事はしない、それは私が保障する。とにかくルイス、その男の事はもう少し調べた方がいい。それが君の大切な婚約者殿に接触した、という事実も含めてだ」
彼の指摘に、ひやりとした感覚が走った。何が起きているのか定かではないが、パトリシアがこれ以上危険な目に遭うのだけは避けなければならない。
私も気をつけてみよう、とクリストフが付け加えた。