⑮湖のほとりで
パトリシア達は、日差しが強い間は屋敷の中で過ごした。開け放した窓の外からは、水が近くにたくさんあるせいか、涼しい風が吹いてきている。
コテージには古いけれど、よく手入れされたピアノが設置されていて、子供達は順番に弾いて過ごした。ルイスも母君から厳しく指導された時期があったせいで、実はかなり弾けるのである。しかし披露するのは、教師が指導するような練習曲や有名な楽譜ではない。楽しい陽気な、自然と口ずさむような曲ばかりを即興で演奏してくれた。
それが終われば、夕刻前に早めの食事の後で付近を暗くなるまで散策する事になった。ルイスが連れて来た薬師のニナが、虫よけの煙を焚いてくれた。当たり前のように一緒に来ている猫さんが尻尾をぴんと立てながら先導して、エーファとリヒターがそれを追いかけた。
薄暮の空の美しい色の移り変わりに、一行は時折足を止めながらゆっくりと進んでいく。リヒターは翌朝に釣りをする形で、結局押し切られたらしい。場所を確認しておくのだと、ルイスが湖の周囲を案内してくれた。
目を楽しませてくれるのは、あちこちのお屋敷の生垣の緑や花々と、この時間は星ではなく夕焼けである。段々と色が移り変わる様子は美しかった。湖に空の様子が映る様子には、思わず目を奪われてしまう。ここが人気の保養地であるのも頷けた。
「……そういえば、学友の方々はお元気ですか」
「ああ、もちろん。この間、家に泊めてもらったよ。ダンの生家は森番をしているそうで、仕事ぶりを見学させてもらった。鉈を貸してもらって使い方を習ったら、筋が良いと褒めてくれたよ」
薪を割ったのだと彼は得意そうに教えてくれた。パトリシアはせっせと作業する婚約者を想像してみたけれど、それにしても似合わない道具である。
同室の皆や他の友人達も一緒に訪問し、一晩泊まったのだと言う。翌日は早朝から釣りに出かけ、森番の見学や力仕事を手伝って過ごしていたらしい。
「なかなか興味深い作業だった。それから山の中にも入って足元にハチの巣があるから気を付けろ、と忠告されても素人にはわからなくて。踏んだらハチの群れが一斉に襲い掛かって来る、とんでもない事になるのだと脅されて」
危ない事は控えてください、とパティは思わず頼んだ。一か所でも刺されて不運で死んでしまう話もあるのに、と思わず身震いした。ルイスもわかっているよ、と神妙な顔つきで口にした。
「薪を割る以外にも、鉈で周囲を切り開いて、人が草を踏み分けて通った跡が少しずつ道を作り始めるわけだ。原理は獣道と大差ないのだけれど、青い草の匂いが強くて不思議な気分だった。最初の人は何を思いながら、当てのない道を作って行ったのだろう」
彼の口調はどこかしんみりとしている。パトリシアが応じようとした時、近くの屋敷の庭先に、人がいるのが見えた。
「……こんばんは。良い夜ですね」
ルイスが愛想よく声を掛けた。生垣の向こうにいる相手は同い年くらいだろうか、と様子を窺う。白い傘の中にちらりと見えたのは知り合いだった。まさか、と思ったが間違いない。
先日、仲良くなりかけたブランシュ嬢である。
向こうも少し驚いた気配で、パトリシア以外の顔を順番に視線を走らせた後、小さく目礼のみだった。集まりが次々中止になったので、退屈を紛らわせているのかもしれない。彼女はそれだけで屋敷の方へと引っ込んでしまった。
いつものように堂々と何か言いに来るのかと思いきや、そんな対応だったのでどうしたのかとパトリシアは心配してしまう。代わりに一緒にいた家庭教師らしい女性が口を開いた。
「お嬢様のご友人とお見受けします。僭越ながら今は体調が優れず。また元気になりましたら、お声がけくださいまし」
「さようでしたか。失礼いたしました、どうかお大事にしてください」
それでは、と静かに別れた。では、と一行は先に進んで、角を曲がって声が聞こえないくらいの距離が離れた途端、弟が声を上げた。
「今の方、ルイスさんだと気が付きませんでしたね。髪が黒で青い瞳だったら、目印になるのに」
「……暗くなってきたからね。まあ、滞在すると大々的に宣伝したわけではないから、こんなものだよ。私は見守りの使用人だろうとでも思ったのではないかな」
ルイスの説明に、リヒターははあ、と歯切れの悪い返事をしている。直接顔には出さなかったが、使用人扱いで腹を立てないとは信じられないな、と顔に書いてあった。
この口ぶりでは、弟は彼が学校で同室達と気兼ねせず仲良くやっていると知ったら、ひっくり返るかもしれない。
猫と四人は釣りの場所を確認しつつ、一回りしてコテージへと戻った。デザートを出してもらいながら、先ほどのブランシュ嬢の話になった。では、とルイスに向かって声を上げたのはそばで聞いていた薬師のニナである。様子を見てきます、と続けた。
「暗いから、明日でも構わないが」
「いえ、大丈夫ですよ。心が弱っている時にはお花と薬草が役に立ちますから」
ルイスは薬師に何が、などとは聞き返さなかった。つまりブランシュの滞在先に探りを入れさせるのは確定であるらしい。
ニナはお任せください、とこちらに片目を閉じて合図してから、勇んで出る準備をしている。通りがかった庭師に同行して欲しい、と声を掛けているのが聞こえた。
「す、すごいですね」
そのてきぱきとした段取りに、伯爵家から一緒に来てくれた侍女のソフィは目を丸くしている。一通りお喋りをして、明日は釣りに行くので早いルイスとリヒターに気を遣って、早めに部屋へと引っ込んだ。
ふかふか、と妹が寝台の寝心地にうっとりしていると、おもむろにソフィが口を開いた。
「いかがでしょう、お嬢様。私は最近、マッサージなどにこだわっているのですが」
「何を張り合っているのよ、ソフィ」
今まで一度も言った覚えのない台詞である。指摘すると彼女はだって、と抗議した。薬師のニナや、この別荘の管理人の仕事ぶりに随分と感心してしまったらしい。
自信を失くしてしまう、などとまで言い出すので、パトリシアとエーファは慌てて彼女の日頃の仕事ぶりを褒め称えた。
その流れで結局マッサージとやらも頼んでみると、なかなか上手だった。教会にいた頃に詳しい人がいて、手ほどきをしてもらったらしい。
エーファも巻き込んでしばらくは楽しくおしゃべりである。それからソフィの手先にも、お礼を兼ねてニナから購入したクリームをこれでもかと擦り込んでおいた。そのおかげか、寝る時にはうっすらと良い匂いがした。
暑い季節の釣りは早朝が狙い目らしい。パトリシアとエーファがのんびり起き出す頃にルイスとリヒターも帰って来て、遅めの朝食である。その時に、ニナが戻って来た。
「シャリエ伯の別邸だそうで。毎年、静かに過ごすそうですよ。滞在は家族だけで、友人を招く事はないそうです。ブランシュ嬢は子供の頃は物静かで、大人しいお嬢様だそうですね。どうやら出歩かないで、本当に療養中のご様子。流行りの気鬱でしょうか、なんだか心配ですね」
集まりに行く度に言い争いが起きるので、ブランシュが大人しい、という情報に関しては怪しいとパトリシアは思ってしまう。ただ、元気がないのは確かであるらしい。やり合う元気はないようだ。
「姉さまもお見舞いしてあげたら?」
「元気がない時に、かえって気を遣わせる事にならないといいのだけれど」
そうは言いつつも、何もしないのもどうかと思い、結局花束を作ってもらう事にした。お見舞いなので華美なものは避けつつ、陰鬱な印象もよろしくない。妙な捉え方をされないように、と親切な管理人も気を遣ってくれた。まとめるリボンはエーファが、こちらの考えをわかってくれているようで、一つ素敵なものを選び出した。ここぞとばかり、選定が上手になったとせっせと褒め称えておく。
どうでしょう、とルイスにリボンでまとめる前に見せると、とても良いと褒めてくれた。それで、友人だと自信を持てない間柄でも、贈る勇気が持てた。猫さんもほら、とルイスはかがんで何かの形式のように、リボンをひらひらと猫の前で振って見せた。彼はくせなのか何なのか、よく猫に何かを見せてから行う習慣がある。
「手紙はいいの? パティさん」
「……ええ。弱っている人に気を遣わせるのもどうかと思いまして」
ルイスは聞いてくれたけれど、名前は結局書かなかった。わからないならそれで構わないし、家族に何か言われるのも可哀そうである。それでも彼女の勘が働けば、なんとなく察するに違いない。その上でどうするかは、向こうが判断してくれるはずだ。
弟はそれなり釣りが楽しかったようで、大きいのを釣り上げた自慢話を、延々と披露している。残りの時間を、妹や管理人と一緒に傾聴して過ごした。