⑭パトリシアのお見舞い
季節は、春から夏へと移り変わった。パトリシアは弟妹達と、主に屋敷でいつも通りの生活を送っていたが、周囲の空気はどこか騒々しい。
季節病なのか、主に年少者の間で、気鬱に似た症状があちこちで流行したのである。寝つきが数日にわたって悪くなるようで、そうすると日中への影響は避けられない。暑い日が続けば、体力を消耗して寝込んでしまう子供が出たようだ。集まりに参加できる人数は随分減ってしまって、中止の連絡が相次いだ。
それだけで憂鬱なのに、パトリシアはせっかくブランシュと仲良くなりかけたにも拘らず、途中で中断されてしまった。結局、あれ以来顔を会わせていない。手紙を送ってみようかとも思ったけれど、どうやらカステル家と彼女のシャリエ家は昔から張り合っているらしい。父がよく思わない可能性もあるので、まだ黙っていた。
そのような中での久しぶりの外出は、ルイスが学業の合間を縫って迎えに来てくれた。先日招待された先で早々と帰宅してしまった一件である。また、社交界の人気者として名高いコンラッド・フェネオン侯爵とも諍いに近いような事態になってしまった。
それから、ルイスの猫も勝手に上がり込んでいたようなので、迷惑を掛けてしまったと、一緒に話をしに来てくれたのだった。
ところが応対してくれたのは、屋敷の主人だけだった。いつもは夫婦そろって歓迎してくれるのに、とパトリシアは嫌な予感がした。それは当たっていて、夫人も体調を崩しているらしい。ルイスは遠慮し、女性であるパトリシアだけがお見舞いのため奥へ通される事になった。
「……とりあえず、手短に切り上げるようにね」
「ええ、心得ております」
ルイスは何故か歯切れ悪く、応接室でパトリシアを見送った。代わりに、同行していた薬師のニナが後ろをついて来て、夫人の部屋へと案内してもらう。
「……来てくれてありがとう。もう随分よくなったのだけど、主人が心配していて。あなた達は何ともない?」
彼女は努めて明るい口調を装っている。ルイスの飼い猫そっくりの可愛い猫が出て来る夢を見て以来、随分と改善しているのだと強調した。猫に会いたい、と彼女が強く希望するので、ルイスは先ほど遠慮していたが結局、花かごに入れられて猫さんもいる。
悠々とかごから姿を現し、彼女にしては珍しく愛想よく頭を撫でられていた。猫がシーツの上をゆっくりと動く回る音が、妙に部屋に響いている。
吉兆だといいですね、と夢には詳しくないパトリシアは、何でもない風を装って雑談に応じた。けれど、やはり母の時の事を思い出してしまって、平静を取り繕うのがやっとだった。忘れかけていた病人特有の気配にも似た何かが、記憶の辛い場所を先ほどから刺激してくるのに、平静を保つのがやっとだった。
ニナが早々に病状や好みの香りについての情報収集を始めたのが、かえってありがたい。戻ったら早速、効果のありそうな薬草を調合してくれるそうだ。
ニナと猫と一緒に戻って来ると、ルイスと屋敷の主人は真剣な顔で話し込んでいた。
「……なんだか警戒されてしまって。王城にも良く出入りしているそうだから、ルイス君からそれとなく理由を聞けないかな? 何もしていないのに、一体どうしたと言うのだろう?」
「……どうでしょうね、人間とは思えないものに遭遇したわけでもないでしょうに。個人的に親しいわけではないので、そもそも顔を合わせるかどうか。本人に、何か後ろ暗いところでもあるのでは?」
男同士で何か相談していたが、パトリシア達が戻ってくると話を切り上げる。病人もいらっしゃるから、と早々に一行は屋敷を辞した。
「気分は悪くない? パティさん」
「ええ、平気ですよ。早く良くなって下さるといいのですけれど」
馬車の中で、ルイスが心配そうに尋ねて来た。母の時を思い出して動揺しているのを、彼はお見通しなのかもしれない。けれどそれ以上は何も言わずに、馬車の中で用意されていた冷たい飲み物を、二人とも無言で補給する。
パトリシアはあの日起きた妙なやり取りを、ルイスには思い出せるだけの仔細を話してあった。けれど特に続報はなく、とにかく気をつけて、そして引き続き集まりへの参加は控える方針を確認し合った。流行り風邪をもらって、エーファやリヒターに移しても申し訳ない。表向きはそういう理由だったが、ルイスは何か思案している様子だった。
夏が本番を迎える少し前に、ルイスから話があった。何かわかったのかと思いきや、別件である。いつまでも屋敷にいても退屈であるし、軍学校は夏季休暇前の試験と、船上実習の間に少し休みがあるので保養地へ行こうと誘ってくれた。
進展はなくても、とりあえず悪い方向に向かっているわけではないらしい。妹のエーファも誘われている旨を伝えると大喜びである。嫌そうな顔をしているのは弟のリヒターだ。友達と先約が、と行かないつもりだったのに、先方から断られてしまったのである。友人の姉妹が体調を崩しているそうで、当たり前だが屋敷に招くのは遠慮されてしまったのだ。
弟は難しい顔をしている。パトリシアは侍女のソフィにも付き添いをお願いしつつ、リヒターに提案した。
「ルイス様に釣りを教えてもらえば? 湖のほとりの素敵なコテージだそうよ」
「……釣りは手が臭くなるからあまり好きじゃない」
弟は父に意見を仰いだ。あわよくば、行かなくてよろしいという発言を引き出したかったようだ。しかし、将来の付き合いを考えれば行くべきに決まっているとあっさりあしらわれたらしい。むすっとした表情で荷造りを進めている。人気の保養地だから、と打って変わって行かなければならない理由を懸命に作っていた。
「貸し切りなので部屋数は潤沢だ。女の子達は一緒がいいかな? リヒターはどうする?」
用意してくれた馬車の中で、ルイスが一番広くて展望も良い部屋を一緒にどうかと勧めたが、リヒターは全力で固辞した。婚約者はいつも以上に明るくて、どうやらこちらに気を遣ってくれているらしい。パトリシア達も賑やかに応じて、束の間の息抜きを楽しむ方針を固めた。
わいわいと歓談やカードゲームをしながら現地に到着すると、ルイスは何故か宿泊先のコテージを前にして足を止めていた。瀟洒な雰囲気の、白い壁と鮮やかな色の煉瓦の対比が美しい建物だが、彼はどこか不審そうな表情を浮かべている。
「……既視感がある」
「お気に入りのコテージなのでは?」
「そうとも。支配人とも知り合いだ。ただ以前の訪問の後、建物を改築してあるはず。新しくなってからは初めてなのにね」
しかし、暑いからいつまでも外にいられない。ルイスはそれ以上考え込むのを中断して、一行を中へと案内した。
出迎えてくれたのは壮年の管理人である。パトリシアは面識があって、二年ほど前まで遊学していたルイスへの手紙を運んでいた人だった。こちらの事も覚えていて、お元気そうで何よりだと挨拶してくれた。
管理人は明るく陽気な人で、たくさんの客人を迎えるのがとても楽しい日々だと、嬉しそうな様子である。重たそうな旧式の手風琴がいきなり登場して、明るい曲を演奏してくれた。
「くつろいでくださいね。王城からお客様が来ても、この私が完璧におもてなしして見せますから。お姫様になったつもりでお楽しみください」
お姫様、と人見知りなエーファはくすくす笑っている。ルイスはこの素敵な管理人が、隣国にいた頃にパトリシアや侯爵家からの手紙を届けてくれたのだと皆にわかりやすく紹介した。語学に堪能で、このように器用なので色々な場所にすぐ馴染むため、主家からの信頼も厚いらしい。
演奏の後、管理人は冷たい飲み物やお菓子を手際よく用意しながら、隣国の出来事を語ってくれた。ルイスはあちらでも釣り好きの人達と交流を深めた。その中には釣りのための道具の発明に勤しんでいる人がいて、随分と協力したのだそうだ。
詳しく尋ねてみると、水の中を見通す道具の研究を手伝ったらしい。確かに浴槽にこっそり潜ってみると、水中はぼんやりとしていて遠くまでは見通せない。魚を捕るために眼鏡のような装置の開発を試みていたそうだ。
「それで、完成したのですか?」
「私がいた頃には試作段階だったけれど、先日手紙で販売が始まると教えてくれたよ。パティさんにも、水中での景色を見せたかったな。綺麗で面白いよ」