⑫パトリシアの外交
パトリシアは少しの時間だけ息抜きをするつもりで、会場を抜け出した。未成年向けの集まりに積極的に顔を出しているのには目的がある。一人でも多く、同世代の友人を必要としているためだ。
母がいない今、女性の視点や目線がカステル伯爵家にはない。あれもこれもルイス頼み、というのも気が引ける。侍女のソフィが頼りになるのは嬉しいけれど、やはり家を運営するにあたっての長期的な目線や、相談に乗ってくれる相手が欲しい。
それなのに今日は、と歩いていると先客がいた。相手は先ほどのブランシュ嬢である。いつの間に抜け出したのか、窓の外に見える景色に気を取られている様子だ。見惚れているらしく、こちらが声を掛けるとはっとした様子で顔を上げた。
「……ここは景色が綺麗ですよね。私、今日は庭園を見せてもらうのが楽しみで足を運んだのです。ブランシュさん、よかったら少し一緒に見ても構いませんか?」
「……今日は初めてで、友人にこの屋敷はお花がきれいだと誘われたのです。それなのにみんな、今日の賓客とやらに夢中になって。大体、自分の婚約者そっちのけで見惚れていた、などと言い立てられては困ります」
パトリシアはなるべく穏便に社交辞令としてお誘いしたつもりなのだけれど、ブランシュは面食らっている。そんなに嫌わなくても良いではないか、と思った。
彼女はこちらを意味深な目つきで見つめながら、ここへ足を運んだ経緯を説明した。パトリシアがブランシュについて、何か噂を流した覚えはない。しかし本人には、間違って認識されているのかもしれない。
「なるほど。婚約者様はどのような御方なのかしら、私、噂には疎くて。素敵なお話を教えてくださると助かります」
では先攻で、とパトリシアは相手に有無を言わさず会話に引き込んだ。今日の外出において、何の成果もないのは面白くない。
「ルイス様はもちろん私にも、それから妹も弟の事も気にかけてくださる、大変お優しい方なのです。このペンダントはおそろいで……」
「わ、わたくしの婚約者だって」
ブランシュは熱心に張り合い始めた。彼女の素敵な婚約相手は、引退した軍馬を引き取って訓練し、その馬の現役時代の頃とは違う、穏やかな一面を見せてくれるようになるまで根気よく慣らしたそうだ。
今ではブランシュも乗せてもらい、遠くまで出かける事もあるらしい。彼女の真剣な口調は、もし婚約者殿が耳にしたら嬉しく思うに違いない。
途切れさせないように次々話題を振ると、まるで沈黙は負けという決まりでもあるかのように、相手もすかさず会話を続けていく。話は意外なほどに弾んだ。今年の流行りの色について熱く語り合って一呼吸ついた時、ちらりと彼女の様子を窺った。すると目が合って、彼女もはっとした表情を浮かべている。
このまま押し切れそう、とパトリシアは判断して畳みかけた。
「私達、面倒なしがらみさえなければ、ひょっとしたらお友達になれるのかもしれませんね」
「な、……」
趣味の方向性は一致しているようなので、友人になってくれればこの先も心強いのは確かである。どうなの、というこちらの真摯な眼差し彼女はしばらく狼狽えて、それから挑戦的な態度が揺らいだ。パトリシアの考えが正しければ肯定してくれるような返事をしてくれると思っていたのに、そこへ割って入った声があった。
「……おやおやお嬢さん方。また喧嘩とはあまり感心しないけれど。特にあなたの方は、主催も手を焼いているそうですね」
振り返ると、先ほど皆の中心にいたはずの侯爵がこちらへ、朗らかに歩み寄って来るところだった。他の人間も来るのかと思いきや、彼一人である。
二人は言い合いを一時中断し、失礼にならないように礼儀正しく挨拶の口上を述べた。せっかく良いところだったのに、と正直に言えば残念である。
コンラッドは同じように口を噤んだブランシュに向かって、まるで欠点を指摘するかのような口ぶりだ。彼女は恥じ入ったように俯いてしまう。
「……そう受け取られてしまいましたか? 私たちは何かとしがらみが多い間柄ですけれど、実際は御覧のとおり。御心配には及びません」
パトリシアはすかさずブランシュと距離を詰めた。ちょっと、と彼女に肘でつつかれたが敢えて無視である。こうなれば、実は友人であるという既成事実を作ってしまうしかない。すぐに戻ります、という意を込めてほほ笑んで見せた。
しかし向こうは、まるで最初からこちらに用があって追いかけて来たかのように、引き下がらなかった。それどころか好都合だと言わんばかりの笑みを一瞬だけ浮かべたのを、パトリシアは見逃さなかった。いかにも親切心からという口調で、相手はこちらに向き直る。
「そう、パトリシア嬢。あなたと話をしておこうと思って。王城での一件は私の耳にも入ってきている。実は、私は殿下と親しくさせてもらっている身でね。世間の厳しさが身に沁みて、焦る心情は察するにあまりあるよ。ヴァンティークの令息は、王城で随分と評判を落として、株を下げてしまったようだ。もし力になれるような事があれば協力はやぶさかでは……」
「お心遣いありがとうございます、閣下。……ルイスに伝えておくように致しますので」
パトリシアはできるだけ短く端的に切り上げた。それは相手が期待していたような受け答えとは違ったらしい。明らかに気に障った様子である。ブランシュに再び肘でつつかれたが、パトリシアは一顧だにしない。この男を付け入らせてはいけない、と直感した。
王城に出入りして、ルイスと親しいなら出仕期間を満了して辞した経緯を知っているはずだ。大体、父にもルイスにも紹介されていない相手が、理由もなく特別に親切にしてくれるのだろうか。最低でも協力関係にでもない限り、わざわざ便宜をはかる意図がわからない。
そもそも婚約者を通り越してパトリシアに声を掛けて来たのは、こちらの方が御しやすいと思っているだけなのではないだろうか。今の侯爵の話が単なる社交辞令でないとすれば、わざわざ自分をここまで追いかけて来てこの話をしている。
実態はともかく、傍目では仲良く話している間にわざわざ割って入って声を掛けて来るあたり、何かあるのだろう。
「おや、こんなところで」
パトリシアが声の方向に振り向くと、そこにいたのはこの屋敷の主人だったために安堵した。目の前の相手と違い、確実に味方と言って良い間柄である。先ほど屋敷の夫人は帰宅時間までは明言しなかったが、ちょうど戻って来たところのようだった。
「パトリシア嬢、今日も美しいですね! あのルイスにはもったいないと、私は常々思っておりますよ!」
彼はこちらに片目を閉じて合図しながら、随分と大げさな口調である。ああよかった、と安堵していたパトリシアは思わず面食らってしまう。普段は物静かで上品な紳士で、随分とルイスを気に入っている。いつもとは違う言葉の選び方に困惑した。
しかし味方であるという事実には間違いがないようで、彼は大股で歩み寄って、パトリシア達とコンラッドの間に立つ。相手もさすがに警戒するような表情を浮かべた。
「お客人、素敵なお嬢さん方の魅力にあてられてしまいましたか? しかしまだ大人の頭数に入っていないひな鳥と、個人的な話をする許可をした覚えはありません。ましてや私の屋敷で、怪しげな品を見せびらかすような真似も同様に」
館の主人は、教師が教え子を諭す時のように、指先を軽く振って見せる。そこに引っ掛けられてくるくると回るのは、先ほどコンラッドが招待客に見せて回っていたティアラである。
今、この屋敷の主人がどの方向からやって来たのかを考えるよりも先に、彼はそれを無造作に放り投げた。慌てた侯爵が床に落ちないように掴まえて態勢を崩す間に、主人は覆いかぶさらんばかりの距離まで詰めた。
「もう遅いですよ。このように物が死んでしまったら、がらくたほどの価値もない」
「……あまりにも無礼ではありませんか?」
「さあ? だがここは私の館だ。全てはこの手に委ねられている。素行の悪い招待客の一人や二人、なんとでも誤魔化せますのでね」
コンラッドは怒りに震えているが、屋敷の主人は涼しい顔でこちらを振り返った。
「さあ馬車まで送りましょう、お嬢さん達。今日はもうおかえりなさい。悪い虫がついたりしたら妻から叱られてしまう。さあさあ、さあさあ! そちらの御仁も、私が戻るまでに居座るようなら……」
屋敷の主人は、コンラッドを入念に脅しつけた。パトリシアとブランシュは半ば追い立てられるように、招待客の馬車が並ぶ一画へと護衛される。お礼や、今のやり取りは大丈夫なのか尋ねる余裕もない。
先にブランシュが、待機していたらしい使用人に引き渡された。困惑した表情のまま、頭痛がするとかなんとか言っている。
「ねえ、パトリシアさん。私達は……」
「私はいつでも、お友達になってくれる方は歓迎していますから」
また今度、とパトリシアは慌てて声を掛け、あちらも訳が分かっていないような、とぎれとぎれの返事が聞こえた。
そのまま伯爵家所有の停めてあった馬車へと近づくと、うたた寝していたらしい御者が何事かと立ち上がった。空気を入れ替えるためか、後ろの扉が開け放たれている。侍女の姿はなかった。
「ソフィは?」
「あれ、お会いになりませんでしたか? 様子を見て来ると言ってここを離れましたが」
おかしいな、と御者と周囲を見回すと、ソフィが慌てて戻って来た。
「すみません、お嬢様。もうおかえり……何かありましたか、面食らったようなお顔ですけれど」
「えっと……」
パトリシアはどう説明したものかと、言葉に詰まった。とりあえずここまで連れ添ってくれた屋敷の主人を振り返ったのだが、そこには誰の姿もない。すると、馬車の後ろから数人の従者を伴って顔を出した。
「……お久しぶりです、パトリシア嬢。急いで帰途についたのに、もうおかえりですか? おや、可愛い客人はルイス殿ではなくパトリシア嬢と一緒とは。まるで姫を忠実に守る騎士……。いや、猫さんも女の子だったかな。あれ、どうだっただろう?」
「ね、猫さん!?」
パトリシアは間の抜けた声を上げた。居合わせた人々の視線の先に佇んでいたのは、ルイスの飼い猫である。耳だけが小麦色で、真っ白な毛並みの美しい猫だ。
彼女はいつも通りの取り澄ました顔で、早く帰るとでも言いたそうに、カステル家の馬車の出入り口の前まで移動して鳴いている。
「……」
パトリシアは何が起きているのかわからなくなってきた。周囲には、どうやら疲れてしまったと映ったようだ。御者とソフィは馬車を出す準備にてきぱきと取り掛かっている。
妻には報告するので今日はゆっくり休むといいでしょう、と屋敷の主人は鷹揚に送り出してくれた。今度はルイス殿も一緒に、といつもの物静かな紳士らしい口調に戻っている。
「お嬢様、いかがなされました?」
「……今日はもう、猫さんを送ったら早めに横にならせて……」
パトリシアは混乱しながら馬車へ乗り込んだ。座席の下からまだ使っていない手触りの良い絹布を敷いて居場所を整える。すると、頭の良い白猫はその上の横たわって満足そうな表情を浮かべた。
位置的にはルイスがいる軍の学校よりも、侯爵邸の方が近い。そちらで勘弁してもらう他ないだろう。
ソフィに頼んで書くものを用意してもらい、馬車の揺れで字がぐらぐらするのは書面で謝罪しつつ、自分の婚約者へ経緯を報告する走り書きを試みた。しかし、途中で手が止まる。
何か意図がありそうな社交界の人気者の奇妙な申し出。それから屋敷の主人の、まるで別人のような態度と振る舞い。何より直後に現れたルイスの飼い猫。そこまで書いて、結局パトリシアは便せんを一枚、破って丸めてしまった。要旨のわかりにくい、支離滅裂な内容だったためである。
結局、猫さんを途中で拾ったのでお届けします、と無難な内容を書きつけ、後は二言三言の言及にしておいた。ルイスの屋敷の人間に渡すようにソフィに頼んで、パトリシアはぐったりと座席にもたれて、そのまま眠ってしまった。