①大事なお願いの前には
「嵐の向こうの夜明けを胸に! お父様負けないで!」
わあああ、と三人にいる子供の歌声が、夜半をとうに過ぎた屋敷に響いている。侯爵邸で暮らす上の二人の娘と末息子は、シーツを帆に見立てているらしい。長女を頂点としてそれぞれ端を摘まんで、縦に大きく広げた。船に激しくぶつかる暴風雨を表現しているつもりのようだ。もうすぐ眠る時間にも拘わらず、ばたばたとはためかせて、まだ賑やかに遊んでいた。昼間は習い事や外遊びに忙しかったというのに、元気である。
パトリシアは侍女に髪の手入れを手伝ってもらいながら、そんな様子を横目で眺めていた。楽しそうな息子と、弟の年齢に合わせた遊びをしている優しい二人の娘に、自然と口元を綻ばせた。
今日、パトリシアが領主館へ仕事に向かう前、三人の子供達は大真面目な顔つきで額を突き合わせ、分厚い事典を広げていた。素敵で印象的な単語を集めた後はパトリシアの義母、つまり子供達の祖母にも協力を求め、着々と編曲が進んでいたらしい。そうして、嵐に挑む勇敢な船乗りの歌が完成したようだ。
一方、眠る時間ではないのか、と言わんばかりの迷惑そうな顔を浮かべるのは屋敷の飼い猫だ。白く美しい毛並みで、耳だけが茶色い彼女の正確な生まれは定かではないが、身体つきからはまだ若い猫に見える。
つんと取り澄ました顔のまま、子供達と身支度を進めているこちらに視線を巡らせている。やがて、出窓に設置された専用の丸い小さな花かごへと移動した。居心地を確かめるように何度か身体の向きを変えた後、静かに中で丸くなった。
「宝の地図を胸に抱き、今こそ!」
わあああ、と子供達は再び歓声を上げた。今度は寝台と水平にシーツの端を揺らし、絶え間なく押し寄せる荒波を表現しているらしい。
「……さあ、そろそろ寝る時間ですよ、一番遅い子は誰かしら」
身支度を終えたパトリシアが軽く手を叩いて、勇敢な船員達に合図を送る。すると末っ子が姉二人をせかしつつ、撤収と寝支度を始めた。
最近は自室で眠る長女がおやすみのキスをして部屋を辞し、残った二人はお行儀よく並んで横になった。次女の私室からはお気に入りの、猫のぬいぐるみが連れて来られた。屋敷にいる本物と同じ、白地に耳だけが茶色の特注品であるらしい。お気に入りのぬいぐるみを抱いて、侍女にお礼を伝えている。
パトリシアは使用人達に下がってよろしいと目線で合図をしてから、手元の明かりを消した。おやすみなさいませ、ありがとう、と暗い部屋の中で扉が閉まる音、遠ざかる足音を聞いた。
「……悪夢は来ませんよね、お母様」
「ええ、もちろん。こんなに良い子達なのですから」
確認するような息子の声がすぐ隣から聞こえた。悪夢、というのはいつまでも寝ない子供を、夢の奥へと閉じ込める魔物であるとされている。明かりの消えた寝台ではごそごそと身動きの音がまだ聞こえていた。ぬいぐるみの位置調整でもしているのだろう。
「それでね、お母様。ぼく、実は内緒のお願いがあるんです。次の春が来たら、初めて王都へ行くんですよね? 嵐がおさまったって、お父様からの手紙に書いてありました。そうしたらその時に、どうしても行ってみたい場所があって」
「あら、気の早い事ですね。まだまだ先ではありませんか」
今は夏の初めである。日中は窓を開け放しつつ、夜にはまだ涼しい風が吹く季節なのだ。お願い、と内容を明かす前から末息子は熱心である。すると、そのすぐ横にいる娘が口を挟んだ。
「ねえエリック。私、お父様がお屋敷を発たれる際に、『大事なお願い事の前準備』を教えてもらいました」
「え、そうなの? なになに?」
「……お願い事は、必ず相手の前に美味しいご飯と飲み物を並べて、楽しいお話でたくさん笑わせてから、お腹いっぱいで気分が良くなった後で始めるの。そうすると簡単に『いいよ』って言ってくれるんだって」
「そうなんだ! ああでも、今から寝るんだからもうそれは使えないよ! そういう時はどうしたらいいの」
「……え? そこまでは教えてくださらなかったけど」
娘の言い方は、屋敷を留守にしている当主、つまりパトリシアの夫そっくりである。そんな、と息子の嘆く声に、思わず笑ってしまった。
「……それでは、私は夢の中でたくさん美味しいものをいただきますから、遠慮せずにどうぞ。今はクレープが食べたい気分です」
パトリシアが取り成すと、子供達は思いつく限りの美味しそうな食べ方を考えてくれた。たっぷりのふわふわなクリーム、甘酸っぱい木苺やチョコレートを添えて。もちろんお気に入りの紅茶に、楽しいお話も忘れないように。
耳元をくすぐる可愛い声を聞きながら目を閉じて、パトリシアはいつの間にかぐっすりと眠りこんでいた。
「……やあ、お疲れだったかな」
パトリシアは、気が付かないうちに眠り込んでしまっていたらしかった。何度か瞬きをして、つい先ほどまで見ていたらしい夢の中のやり取りを振り切った。馬車の移動に伴う揺れと夫から掛けられた声で、ようやく今の状況を把握した。
王都郊外の都会屋敷から、馬車はゆっくりと街の中心へと走っている。パトリシアは居心地の良い座席に腰かけながら、楽しく幸せな夢を見ていた気がした。けれど残念ながら、大半は既に思い出す事はできなくなりつつある。
少し切ないような気持ちを、まるで慰めるかのように飼い猫が鳴いた。向かいの座席に置かれた花かごには、白い猫が収まっている。その水色の美しい瞳が、眠たげにこちらへと向けられていた。
現在、パトリシアは王都を久しぶりに訪れている。三人の子供達は領地で留守番だけれど、もう少しでこちらに呼ぶ予定になっていた。最後に横にいて頭を預けていた夫の存在を思い出した。これから大事な場所へ赴くというのに、当主の妻にあるまじき失態である。
「久しぶりに会う顔も多かったからね、気疲れしているんだよ」
「……大丈夫です」
確かに指摘された通り、領地からこちらへ出て来て数日、親戚や友人と次々に顔を合わせる日々だった。弟や妹、それから昔からの大切な友人。
ほんの少し、休んでいただけ。パトリシアの取り澄ました返答に、夫のルイスは苦笑を浮かべている。こっそり横目で盗み見ると、見慣れたくせのないまっすぐな黒髪と、少し灰色がかった青い瞳が目を引き付ける。この特徴は、この国では大変珍しい組み合わせだった。実年齢より若く見える顔立ちは整っていて、虫一匹殺さないような優しい笑みを常に浮かべていた。
「こちらも、話に聞いていたより賑やかですね」
「まあね。何といっても新しい国王陛下の戴冠式だ。それからもうすぐ、隣国からいらっしゃる美しい王妃陛下のお披露目だから。今が一番楽しい時だよね」
現王太子、次期国王ジルベール陛下は長く続いた不安定な情勢下で才覚を発揮し、政争に打ち勝った手腕の持ち主である。不遇な幼少期を経験した逸話もあり、市井では非常に人気のある方でもあった。
人々は彼の、これから始まる新しい治世に希望を抱いていた。今はまだ冬の初めだけれど、新しい時代が始まる次の春を心待ちにしている。街に漂う空気や人々の表情に、希望は明るく輝いていた。
「そちらは滞りなく進んでいくでしょうから。私はそれより、こちらに顔を出さない間に流布していた素敵な噂話が気になるのですけれど。人気者の新しい陛下や隣国から来る美しい姫君と同じくらい、みんな貴方の話をしていました」
「そうなの? それは知らなかったな……」
パトリシアは夫をねめつけた。ルイスはさらりと話題を流そうとして、こちらの剣呑な眼差しを前に肩を竦めている。
パトリシアが嫁いだ侯爵家は港の交易と、領地の治水事業に力を入れて大きく発展させた先代、先々代は傑物と評されていた。それに比べれば当代のルイスは随分と大人しい領主とされている。
豊かさと平穏を堅実に維持していくのに支障はない、いかにも温和な貴族青年である。虫一匹殺せないような顔でいて、平時は趣味の釣りかとぼけた話しか口にしない。かいがいしく飼い猫に釣った魚を手ずから食べやすく加工して与えるけれど、猫は別に好きではないと言い張る妙なところにこだわりがある。
そんなルイスが当主となってまもなくの頃、王都にて不穏な噂が広がり、当代は一介の領主以上の役目を果たさなければならなくなった。王城には国王オレリアンの二人の腹違いの息子がいて、どちらが正式な後継となるのかについて、長く不明な時期が続いたのである。慣例に則れば第一王子ジルベール殿下だが、母親は元々身分の低い女官に過ぎず、産褥の時期に亡くなってしまい、後ろ盾もなく孤立していた。
そのような情勢において、ルイスは王城に馳せ参じ、混乱を治めるべく奔走していた。時折領地へ戻っては自分の子供に追い掛け回され、時には追い掛け回す合間に仕事を片付けては、また王城へ呼び戻される。そのような生活を長い間余儀なくされていた。領地に関しては、パトリシアが名代として領地の切り盛りを行う、という異例の体制がとられた。子供達を育てながら領内の陳情や催事を滞りなく進め続けて、気が付けば随分と時間が過ぎていた。
そしてようやくルイスがこちらに顔を出すように、パトリシアへと要請したのである。久方ぶりに王都に出てみれば、ルイスには妙な二つ名が贈られていた。『釣り堀侯爵』である。
「手が魚臭くなるから女性に推奨はしないけれど、私個人としては釣りが好きだよ」
「あの大混乱の大嵐の中、あれだけ粉骨砕身しておきながら、得たのはその二つ名だけだったんですか」
「……何か欲しかった?」
「……たとえば王城の明るい部屋に肖像画、庭園の日当たりのいい場所に銅像くらい設置させてもらうとか。綺麗な植物の新たな品種に名前をいただくのはいかがでしょう。もしくは記念硬貨にその整ったお顔立ちを彫ってもらっても罰は当たらないと思いますけれどね、私は」
「……すごいね、パティさん。なんと夢のある話なんだ。ところで銅像と言えば、私が隣国に留学していた頃に、街に有名な劇作家の像があってね。頭部を触ると良い事があるって人が押しかけたら、その部分だけツルツルになった笑い話があって」
だから銅像は遠慮したいね、とルイスは世界一下らない意見を述べた。煙に巻こうとしているのが明白である。追及を緩めるつもりはなかったが、着いたようだ、といかにもわざとらしくルイスが呟いた。間もなくして、馬車の外から合図があって小窓が開けられる。
「旦那様、奥様。間もなく到着ですが、お迎えの方がいらっしゃっております。どうかお気をつけて」
「だ、そうだ。……さあ、準備はできたかな?」
ルイスがこちらの様子を窺うように目を細めた。パトリシアも真面目な表情を浮かべつつ、頷く。
「話の続きは屋敷に戻ってゆっくりと、で構わないだろうか?」
「ええ、ではそのように。私はいつでも準備は整っています」
寒くないかな、と案じてくれる声にええ、とできるだけ余裕のあるように返事をした。公式の場ではないが、特別な場所に招かれている以上、気を引き締めないわけにはいかなかった。ルイスとパトリシア、侯爵夫妻は王城へと招かれている。
「さあ、ココちゃんも」
ルイスは連れて来た飼い猫に声を掛けた。猫は花かごに収まって、当たり前のように連れて来られている。従者に抱えられ、これについても誰一人何か口を挟むものはいない。
侯爵家所有の馬車は郊外にある都会屋敷から王都を通り抜け、中心にある王城へとやって来た。夫の手を借りて降り立った外はすっかり日も暮れて、けれど決して真っ暗闇ではない。目の前の建物がうっすらと、まるで途方もなく大きな山のように見える。
その麓で、こちらへ掛けられた声があった。数人の護衛を背後に引き連れて、十五、六歳の青年が溌剌とした笑みを浮かべている。
「お二方、お久しぶりです。寒い中恐縮ですが、一刻も早くお会いしたくて」