9
クッキーを喉に詰まらせそうになり、あわてて紅茶で流し込む。ヤスミンはといえば、レディの微笑みを崩すことはなかったが、開いた扇子で仰ぐ、その動きがいつもより速い。
それでも4、5回仰いだところで我に返ったのはさすがだ。
「どこでその名前を聞いたの?」
コレット様はショックを受けた顔になる。
「やっぱり本当だったのね! クロードが愛しているのはその方なんでしょう!!」
突っ伏してからの号泣。ハンカチはもうないからナプキンをと思ったんだけど、腕の隙間から差し込むこともできない。
「コレット、私、うれしいわ」
思わず顔を上げるコレット様。ヤスミンは穏やかな声音で続ける。
「いつのまにか、お兄様をそんなに好きになってくれていたのね。お兄様の片想いだとばかり思っていたから、二人が両想いってわかってうれしい」
「両想いなんかじゃない。だって、ベアトリーチェって」
「お兄様はベアトリーチェのことをそういう意味では好いていなかったわ。もちろん、家族としてとても愛していたけれど。それに、ベアトリーチェはもうこの世には……」
悲し気に顔を伏せるヤスミン。猫だということは回避して話している。さすが。
はっと息を吸い込んだコレット様。両手の先で口を押さえる。亡くした家族を思い出させるようなことを言った自分を責めているのだろう。
あいにく、ヤスミンとベアトリーチェはそれほど親しくもなく、ただ一緒の家にいるというに過ぎなかったので、思い出してもどうということはないのだが。
「ごめんなさい! 私、知らなくて。たまたま聞いてしまっただけなの。クロード様はベアトリーチェ様のことをとても愛していたから、って」
「まあ、誰が言っていたのかしら」
コレット様から犯人の特徴を聞き出す。メイドのモナとマリアンだ。あとでヤスミンからこってりしぼられるだろう。かわいそうに。
「聞いてもいいかしら。ベアトリーチェ様ってどんな方だったの?」
「そうね。そこに写真があるわ。お兄様と一緒に写っている緑の目の」
コレット様は立ち上がって、マントルピースの上の写真を見ていた。いくつかの写真立てにはもちろん、ベアトリーチェを抱いたお兄様の写真もある。
あら、コレット様の立っている位置がそこじゃないような。
「かわいらしい方だったのね」
「そうね。お兄様はとても甘やかしていた。だから彼女もお兄様にはひどく懐いていて。私たち家族にとってベアトリーチェのことは今でも辛いの。お兄様にはとくに。その名前はあまり出さないでくれると助かるわ」
「私、なんてことを。ヤスミン、どうしよう。クロードはほかに好きな方がいるのだと思って、彼に辛くあたってしまったの。……また、そうなのかと思って」
リリアーヌ嬢のために婚約破棄されたコレット様。私はそっとコレット様の肩に手をそえる。
「大丈夫、お兄様は気にしていないと思う」
だって、あんな気分屋のベアトリーチェにつきあっていられたんだから。
「でも、会ったとき優しくしてあげたら、すごく喜ぶんじゃないかしら」
実際、お兄様はコレット様がちょっと優しくしただけで舞い上がるだろう。
「お兄様が帰ってくるまでいるでしょう、コレット。まずはお化粧を直しましょう」
侍女を呼んでコレット様のお化粧を急いで直させる。なんでかって、コレット様には夕方って言ったけど、本当の帰宅予定はもっと早いのだ。つまり、こうしている間にも帰ってくる可能性が高い。
実際、執事がお兄様の帰宅を知らせてきたのは、それからすぐだった。コレット様の身だしなみが整っていてよかった。
そう思ったのに、それからしばらくしてもお兄様が部屋に来ることはなかった。
家に入ったらコレット様が来ていることを伝えるように、執事に言っておいたのに。
コレット様の目がまたうるうるしてくる。
「私が辛くあたったから。いつもならすぐ部屋にきて」
コレット様の横に満面の笑みを浮かべて座るのに。
ヤスミンが席を立った。
「様子を見てくるわ」
「待って!」
コレット様がヤスミンの手をつかむ。
「私も行く。行ってあやまる」
「あ、じゃあ、私も」
コレット様があやまっても、お兄様はなんのことかわからないかもしれない。そのときはヤスミンと一緒にごまかそう。
三人で玄関まで向かう。
執事が玄関に控えていたけれど、お兄様はいなかった。
「クロード様は門の前にいらっしゃいます」
それを聞くなり、コレット様は令嬢として恥ずかしくないぎりぎりの速さで歩いていってしまう。私はあわてて追いかける。後ろでヤスミンが「そんなところで何をしているの?」と言うのが聞こえた。
門が近くなるとお兄様がいるのが見える。お兄様ともう一人、それは。
止めようとしたときにはもう、コレット様は走っていた。令嬢としてはありえない、いつものコレット様なら絶対にない速さで。
「コレット!」
自分の胸に飛び込んできたコレット様をお兄様はうれしそうに抱きとめる。
「どうしたんだい? 何かあったの?」
お兄様の胸に顔をうずめたままのコレット様は横にいるのが誰か、きっと気づいていない。お兄様を見つけて、まっすぐ向かって、お兄様しか見ていない。
そんなお兄様とコレット様をおもしろそうに見ているのは、コレット様の元婚約者のジョエル様。
「クロード、俺、帰るな」
「あ、ああ、また」
ジョエル様は私にも軽く手を振って、帰っていく。
「あいかわらずだわね、あいつは。コレットの前で自分とはまったく関係ないって顔がよくできるわ」
やっと追いついたヤスミンはそう言い放ってから、今度はお兄様に向かって「往来でコレットを抱きしめないでください」と言ったけど、これはお兄様のせいとは言えないから濡れ衣だ。でももちろん、お兄様はそんなことはまったく気にしていなかった。
それから。
コレットはどうしたのか、というお兄様の問いにヤスミンが「お兄様がなかなか帰ってこないからよ。コレットはずっと待っていたのに」と雑なごまかし方をして、お兄様がコレット様に何度もあやまることになり、コレット様の謝罪はうやむやになって。
お兄様に甘やかされたコレット様は笑顔を取り戻して帰っていった。
ヤスミンも明日早いから(また婚約者とデートだ)と部屋に戻り、居間に残ったのは私とお兄様。
「ジョエルのこと、もうなんとも思ってないのかな」
ソファに座ったお兄様は手にした写真立てをぼんやりと見ながら言う。
「ないわよ。コレット様、今日まったくジョエル様のこと見てなかったじゃない」
「そうだよな! 僕のとこに来たよな!」
「そうそう。ヨカッタワネー」
「お前、兄に対してなんだ」
「幸せなんだから、それくらいいいでしょ」
ああ、やだやだ。まんざらでもない風に、にやにやしちゃって。
お兄様が手にしているのは、マントルピースの上に置いてあった写真立てのうちのひとつ。
お兄様がベアトリーチェを抱いている写真だ。
昼間、コレット様が立っていた位置にあったのは、小さいころのお兄様と従姉の写真。
従姉は緑の目で、わりとかわいらしい顔をしている。お兄様より年上で去年隣国にお嫁に行ってしまったから、今後コレット様が会うことはないと思う。
お兄様はまたぼんやりと手元の写真を見ている。私の視線に気がつくと、お兄様はぼそりと言った。
「コレットは、ベアトリーチェじゃないんだな」
「それは……お兄様?」
「ベアトリーチェだったら、長いこと待たせたら、ぷんぷん怒って鳴くか、どこかに隠れてる」
「……うん」
「わかってたんだけどさ、わかってたんだけど」
「そうね」
「生きててほしかったんだよな。ずっと一緒にいたかったんだよ」
「うん」
「あ、コレットがその代わりってわけじゃないぞ。コレットのことはちゃんと好きだ」
「それは見てればわかる」
だから、にやにやするなって。
「コレットとベアトリーチェと一緒に暮らしたかったな。両手に花だ」
「ベアトリーチェはそういうの許さないタイプだったよ?」
「だよなあ」
お兄様の横に座り、一緒に写真を見る。笑顔のお兄様とその腕の中で満足そうな顔のベアトリーチェ。
生まれ変わっても、何度生まれ変わっても幸せでいて、ベアトリーチェ。
私たちも幸せになるから。