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ベアトリーチェが死んでしまったとき、お兄様も死んでしまうのではないかと思った。
それくらいお兄様は憔悴していた。彼女が長く生きられないことはわかっていたはずなのに。
あれから、一年。
今、見ているものは何かしら?
「ベアトリーチェの生まれ変わりを見つけたんだ……。やっと僕の願いが叶ったんだよ」
全身喜びであふれたお兄様のとんでも発言に私とヤスミンは顔を見合わせた。
おそるおそる聞き返す。聞き間違いよね、うん。お兄様の頭がおかしくなったわけじゃない。そうよ、決して悲しみすぎておかしくなったなんて、そんなことは。
「あの、お兄様。ベアトリーチェの生まれ変わりって? ごめんなさい、聞き間違えたみたいで」
「コレット・フォールだよ。一晩考えたが間違いない。あの緑の瞳、髪もだ。ベアトリーチェと同じ色じゃないか」
もちろん、コレット様のことは知っている。同じ学園で、お兄様より一つ下、ヤスミンと同級生、私より一つ上。
つまり、一年前に死んだベアトリーチェの生まれ変わりでは絶対ない。
「あの、お兄様、ありえない」
そこまで言いかけたところで、脇腹に衝撃が走った。ヤスミンに肘鉄をされたのだ。痛い。
「お兄様、私もアガタもすごく気になっているのですけれど、コレットのことは以前からご存知でしたでしょう? なぜ、今、それがわかりましたの?」
それは昨夜にさかのぼる。
お兄様はベアトリーチェの死によって一時は危ぶまれたものの無事学園を卒業し、私はお兄様のパートナーとして卒業パーティに出席した。
ちなみにヤスミンも婚約者が卒業したので、パートナーとして出席している。
そのパーティで事件が起こった。
発端は、王太子殿下がある令嬢を小脇に抱え、自身の婚約者の公爵令嬢に言いがかりをつけたことだ。
「リリアーヌに嫌がらせをしていたのは知っている! お前のような女を王太子妃にするわけにはいかない。婚約は破棄する!」
それで王太子殿下が抱えている令嬢が誰かわかった。リリアーヌ嬢だ。
学年が違うから顔は知らなかったけれど、噂は聞いている。
某男爵が農家の娘に手をつけてできた庶子で、平民として育ち、男爵家に引き取られて貴族となり学園に転入してきた。
そして、あろうことか、次々に人望高い方々に色目を使ったのだという。
学園の生徒の中には平民を軽んじて自分を高く思いたい方もいるので、そういったリリアーヌ嬢の噂も話半分に聞いていたのだけれど、信じざるを得ないような状況が目の前にある。
「たしかに私はその子に意見をしました。でも、それがいけないことなのですか?」
王太子の婚約者の公爵令嬢は緊張を帯びた声で返す。
リリアーヌ嬢と幾人かの令嬢の間には確執があった。まあ、そりゃそうだわ。自分の婚約者に手を出されたら私だってムカつくと思うもん。
それでも公爵令嬢はそこまでひどいことはしていないはず。
二人が居合わせたところを見かけたことがあるけれど、公爵令嬢がリリアーヌ嬢に言っていたのは「婚約者のいる男性に不用意に話しかけると、あなたも誤解されるのよ」だった。あんまりじろじろ見るのはどうかと思ってすぐ通り過ぎちゃったから、それしか聞いてないけど。
公爵令嬢より、むしろ、ほかの令嬢たちのほうがひどかったような、とか考えてたら、公爵令嬢が出て行っちゃって。
そちらをちらりとも見ず、王太子殿下が「私はリリアーヌと結婚する!」と宣言して、で、宰相令息と騎士団長令息と魔導士長令息が彼女の前でひざまずいて「あなたが結婚しても私たちはあなたのために力を尽くします!」と誓った。
そして、彼らは自分たちも婚約を破棄する、と会場に向かって言い放ったのだ。
会場にはもちろん、宰相令息の婚約者も騎士団長令息の婚約者も来ていた。二人とも寝耳に水という顔をしている。
さらに会場内を目で探ると、魔導士長令息の婚約者のコレット様も見つけた。こわばった顔をして、もう今にも倒れそう。
その近くでヤスミンがコレット様を見ている。
言いたいことは言ったとばかりに、王太子殿下とリリアーヌ嬢と令息方がその場を立ち去ると、かしこくも宰相令息と騎士団長令息の婚約者の令嬢方も姿を消す。
このままここにいても、好奇に満ち溢れた人々に取り囲まれるだけだ。
一歩出遅れたコレット様はおろおろとして、周りに人が近づいてきたのを見て、慌てて外に出て行った。さすがにそれを追うほど礼儀知らずになれる者はいない。
私も、たぶんヤスミンもコレット様に近づくことはあえてしなかった。私たちが行くと、ほかの人たちが近づくきっかけになってしまう。それは避けたかった。
会場のざわめきは続いていたが、主役クラスがいなくなるとそれもだんだん収まっていく。気の抜けたパーティはうやむやのうちに終わりになり、いつの間にかヤスミンとその婚約者の姿も消えていた。
私ももっと早く帰るんだった。今、ちょうど帰りの馬車が混みあってるころだろうなあ。
お兄様はどこに行ったのかしら? うちの馬車を呼ばないと。
人がまばらになった会場を回ったけど、どこにもいない。置いて帰っちゃおうかしら。
バルコニーにも顔を出す。そこにもお兄様はいなかった。
薔薇の濃い甘い香りがする。遠くで猫の鳴き声。もしやと思いバルコニーから庭園を見下ろす。
庭園の、バルコニーの位置より少し離れたところに兄はいた。
ベンチに座っている令嬢に近寄っていく。
「ため息なんてついてどうしたの?」
声をかけられて遠目にも明らかにびくついている令嬢。
「なんでもありませんわ」
コレット様?
お兄様も顔を上げたコレット様を見て、さっきの騒ぎの主要人物だということがわかったらしい。
「君か。災難だったね。僕もジョエルの友人なのに知らなかった。止められなくて申し訳ない。まあ、知っていても止める自信もなかったけど」
魔導士長令息ジョエル様は兄の友人だが、あまりいい性格ではない。うちの兄は妹の私が言うのもなんだが、辛抱強いというか割と物事を気にしないというか、そういうところがあるのでうまくやっていけるのだと思う。それはベアトリーチェも同じだけど。
はっきり言ってベアトリーチェは見た目はきれいだが、性格は微妙だった。何年も一緒に暮らしたのに私にもヤスミンにもひどい態度。そのくせお兄様の前だと品を作ってさ。
「お気になさらずに。私、失礼しますわ」
コレット様が立ち上がる。建物の中から灯りが届いているとはいえ、夜の庭に男性と二人きりなんて、お堅いコレット様には耐えられないんだろうな。
立ち上がって、コレット様は一瞬止まる。
外に出ていくにはお兄様の横を通らなきゃいけない。
意を決して敢然とお兄様の横を通り過ぎようとするコレット様。できるだけ素早く通りすぎるつもりらしくマナーぎりぎりの速足だ。
「あれ、君の髪」
ん? お兄様、今ごろコレット様の髪に気づいたのかしら? 結構有名なのに。
コレット様は振り返らずに、そのまま立ち去った。
それを茫然と見送ってからお兄様はベンチに目をやり、置き忘れられていたハンカチを手に取る。ドレスが汚れないようにコレット様が敷いていたのだろう。あわてて帰るときにそのままにしてしまったのに違いない。
お兄様はハンカチをたたみ、そっと口元に押し当てた、って、おーい。
だめでしょ、それ。
お兄様は顔がいい。身長も高い。家柄も悪くない。一時期は成績が落ちたが普段は優等生だ。
何より、女性に対する気のつかい方がすごい。これは私を含め、女ばかりの兄弟のただ一人の男子であるためで、そのせいで女性の友人も非常に多い。
だから、大抵の女性は自分が忘れたハンカチにお兄様が口づけていても、そんなに悪い気持ちはしないのではないかという気はするのだが、コレット様はどう見ても少数派だ。お尻の下に敷いたハンカチに口づけされたいとは思わないだろう。
そもそもなんでお兄様はそんなことしてるの?
眉間にシワがよってしまった。いけない。
指でシワをのばす。お母様がシワには若いころから注意しなさいって言ってた。
息を深く吸う。
いかにも今気がついたみたいに声を張りあげる。
「お兄様! そんなところにいらしたのね。帰りましょう」
呼びかけるとお兄様はハンカチから顔を離し、こちらを見上げた。
「猫の声がしたから来たんだ。見つけたんだよ」
「ああ、さっき鳴き声がしましたわね」
「そうじゃなくて、いや、そうなんだけれど」
「どっち? ああ、それは馬車で聞きます。早く帰りましょう。もう残ってる方はほとんどいないんですから」
ポケットにハンカチをしまって歩き出すお兄様を見届け、私も出口に向かった。