張飛は文官になりたい!
「三娘! オイラ文官になる!」
「はぁ!?」
唐突に変な会話でゴメンナサイね。私は三娘。劉備一家にその人ありといわれた張飛益徳の嫁ですわ!
私の実家は劉備さまの敵対勢力である曹操さまの腹心の夏侯家でありまして父は名将夏侯淵伯父さまとは兄弟で、曹操さまや夏侯惇族父さまとは従兄弟の間柄。私は夏侯一族の末っ子ということで、大変におじさまたちには可愛がられました。
そんな私はなんの因果か、張益徳に惚れまして、二十歳も歳上の旦那を追いかけてこうして荊州に落ち着いて子どもも四人恵まれております。
先の赤壁の戦いによって、劉備一家は荊州を一応の拠点としましたが、呉からは魏と一戦したのは我々で、荊州は我々のものだ。と領土問題も起きておりますが、なんとかはぐらかしながら平和を保っています。
これから夫婦ともども頑張っていかなくちゃなぁと言ってる矢先に、旦那の益徳さんのこれです。私は頭を押さえました。なんで武官のあなたが文官にならなくちゃいけないわけ?
「益徳さんは劉備一家の中では最頂点の武官でしょ? 急にどうしたの?」
「そこよ三娘。お前知ってるか?」
「なにを?」
「えー、国のお話を致します」
始まった。また頭のいい人に言いくるめられて、何かを吹き込まれたに違いないわ。おそらく孔明先生ね。私はやれやれと思いながら聞くことにした。
「国には大事なものがあります。それは“兵”と“食”と“信”です。三娘はこの中で一番最初に失くすとしたらなんだと思う? なんだと思う?」
「……兵でしょ」
「せーかーい。お前さんはスゴいね」
「だって知ってるもの。儒教の教えよ」
「まあ聞きな。次に失うとしたらなんだと思う?」
「食ね」
「う……。そこは信と言ってくれ」
「これは論語にある子貢問政ね。兵や食を失っても人は信頼がなくては生きてはいけないってことよ。大方、朝政の帰りに孔明先生に言われたんでしょ? 『張飛将軍少しお待ちを』『なんですぅ、先生』『将軍は自分の腕を頼りになすってますが、国に大事なのは“兵、食、信”。ここで失うとしたらどれだと思います?』みたいな感じで。だから政治に力を入れましょうってことでしょ?」
それに旦那は感嘆の声をあげた。
「ほーう。やっぱり三娘は分かってるね。その通りだよ」
「当たり前よ。何年夫婦やってると思うのよ」
「だからよ。一番大事なのは政治だ。それをやるのは文官だ。だろ? それに文官は武官よりも位が上だ」
「だからって、向き不向きがあるわよ。あなたはそんな筋肉もってるんだから、四十も過ぎて文官になりたいはないでしょ?」
「それがあるんだから驚きで」
「どうやってなるのよ」
「だからよ。そこはお前も考えてだなぁ」
「結局私を頼りにしてるじゃない。だったら、昔から付き合いのある縻竺さん、孫乾さん、簡雍さんに教えてもらえば? 文官でしょ?」
すると旦那は憑き物が取れたようにニッコリと笑った。
「そうだな! お前の言う通りだな! 早速手紙を書いてくれよ。オイラが届けるからよ」
「……やっぱり私が書くのね」
「あたぼうだよ。オイラ、字も満足じゃねぇからな」
どうしてこれで文官になりたいのやら。
私は仕方なく旦那に子供の世話を任せて三人に手紙を書いた。旦那はそれを持って三人のお屋敷に届けに行った。意味が分からない。じゃ直接話せばいいんじゃなかろうか?
やがて数日が経つと、縻竺さんと孫乾さんが二人してやってきた。二人は旦那とは徐州時代からのお友達だ。武はからきしだけど、政治に明るい。
孫乾さんは手に大きな鯉。縻竺さんは下僕に荷車を引かせて、お酒を四樽も持ってきたのだ。さすが大金持ち。
「やぁ三娘さん。張飛は在宅かな?」
「おります、おります」
「よい鯉が入ったので持ってきた。つまみに出してくれ」
「あらぁ助かります。お好みのお料理はございます? 煮込みかしら?」
「いやぁ、肉団子にして野菜と炒めてくれ」
「あら美味しそう!」
そこに大金持ちの縻竺さんも参加してきた。この人の金持ち度は普通とは格が違うから持ってきたものについ顔がほころぶ。
「私は美酒を持参いたした。張飛ならこちらが好みだろう」
「ああん、すいません。いただきますぅ」
「ついでに荷車も下僕もあげようね」
でたーーー! さすが富豪。兄者さんが徐州に行ったときに下僕五千人を渡した男! たかだか家に遊びに来ただけなのに荷車と下僕をくれるなんて……。こっそり荷車には筵にくるんだ何かがある。きっとお金だわ! これで下僕を養いなさいってことね。くぅ~。畑仕事が楽になるわぁ。
私はあからさまに笑顔になって屋敷の中に二人を案内し、旦那を呼んだ。
「ささ、お二人ともこちらにいらして。益徳さぁ~ん。孫乾さんと縻竺さんが来られたわよぉ~」
すると旦那は足をドスドスならしながらやってきた。
「おう。孫乾。縻竺。よく来たな」
「益徳さん。お二人とも進物を持ってきてくだすったのよ」
「おおそうかい。二人ともありがとな。さ、上がった。上がった!」
二人を楽しそうに客間に案内し、なにやら話し始めたみたいなので私は使用人に命じてお酒と食事の用意をさせ、その監督に。
できたものを抱えて客間に行くと、なんと益徳さんはテーブルに突っ伏して寝ており、そこに孫乾さんが自分の上着をかけているところでした。おおぅ……これは。
「おお、三娘さん。張飛は寝てしまったので勉強会はまた今度にしよう」
「こ、これは失礼を……。ど、どうして寝てしまいましたの」
「いえ、まずは勉強の心得を話しておりましたらいつの間にか寝てしまいましてな」
いやいや、どんな難しい話を?
うちの旦那には孔明先生みたいに子どもに話すように言ってくれないと。この二人真面目だからなぁ。
旦那はというと、かなりの熟睡。こりゃ酒どころじゃないわ。
「三娘さん。主役が寝てしまったので我々はここで失礼しよう」
「あ、あのう。お食事をして泊まっていってくださいな」
「そういうわけにもいかん。まだ日も高いし、明日も政務があるからな。では」
そういって二人は帰り支度を始めたので、私は旦那に自分の上着をかけて、孫乾さんに上着を返した。
ん、もう! なにやってるのよ~。益徳さんはぁ~。
益徳さんが目を覚ましたのは夕刻で、鯉のお団子が入った野菜炒めで一杯やりだしていた。もうすでに今日のことを忘れている……。そんなんでいいの?
それから数日が経って、また朝政の後に目をキラキラさせながら帰ってきた。私は天を仰いだ。
「三娘。お前知ってるかい?」
「多分知ってるわ……」
「まぁ聞きなよ」
「なによ」
「えー、“兵は国の大事”です」
「話し方まで変わってるわよ。どうせ孔明先生に言われたんでしょ? それは孫子の冒頭だわ」
「いやオイラはそう思うね。お前アレだよ。戦争なんてむやみにしてはいけません。それだけで国は疲弊いたします。戦わずして勝つやり方を考えないと。張飛将軍は軍略はできるのですから、戦いを避けるやり方も考えられるはずです」
「いやいや途中で“張飛将軍”っていっちゃってるしね。先生が言ったってバレバレでしょ」
「ともかくよ、今日は簡雍が来て勉強を教えてくれるから。お前猪肉でも買ってきて焼いてくれよ」
「あら簡雍さんが。それじゃお酒もいるわね」
「バカやろう。勉強するのに酒がいるかよ」
「いらないの?」
「いる」
いやいるんか~い。まったく、可愛い人。簡雍さんは、旦那と兄者さんとは同郷。旦那とは同い年で親友同士。孫乾さん。縻竺さんとは違って砕けた人。ミニチュアな兄者さんって感じ。
まあだからデリカシーがないってとこもあるのよね。構えなくていいからいいけど。
私は使用人に命じて肉と魚を買って、軽く食べれるものを作らせていると、夕刻に酒瓶を抱えた簡雍さんだった。
「おう。益徳はいるかい?」
「よ。三娘。いつも綺麗だね」
いやいやいや。一人増えてる。なんで兄者さんまでいるの! つかこの同郷三人組が一緒になるなんて……。
すると益徳さんが小窓から顔を出して二人を見てニッコリ。おそらく兄者さんの声が聞こえたからテンション高くなってるんだわ。
「よお! 兄者! 簡雍お! 入っておくんな! ええい、三娘なにしてやがる。さっさと二人を客間に通しな!」
くぅ~。ムカつく! なによ。二人を出迎えたのは私なんですからね! しかも兄者さんが来たのはイレギュラーだわ。簡雍さんめ。主婦の苦労なんてちっともわかってないんだから!
私は愛想よく二人を客間に通すと、益徳さんはウキウキしながらやってきた。オイオイ勉強は? しかも今日は忙しくなりそうだわ。使用人たちはお料理を二人分作るものだと思ってるから追加をしないと。
私は息子の苞を呼んで、使用人の子どもたちと鶉を五羽買ってくるように命じた。元気に棒を振り回しながら出ていったわ。鶉が来たらこれを丸焼きにさせてと……。
ご主君が来たのだから草魚の姿蒸しで大皿でも作らないと格好がつかないでしょ。これは人がいないから私が買いにいかないと。ああ。主婦は大変。男なんて~。
なんとかおもてなしのお料理を出して一息。でも主婦は給仕にもいかないと。
私は急いで客間に向かい、中に入っていいかお伺いをたてると、兄者さんが気軽に「いっいよ~」の声。腹立つ。でも笑顔で酒瓶を持って客間に入った。
案の定、勉強なんてやってなかった。テーブルをよけて地べたに座ってる。燕の人はいつもこうだわ。
そして器を箸で叩き、兄者さんは椅子を鼓にして楽しそう。
「おい、別嬪! オイラの愛しい三娘ちゃん。ちょっとこっちにいらっしゃい」
なーぬー。私は空気なんだよ! なんで酒宴に参加しねぇといけねぇんだよ!
仕方なく旦那の隣に侍り、男たちの杯に酒を供じた。兄者さんはテンション高めでベタベタしてきた。うう~。
「もう。こんなに飲んで朝政は大丈夫ですの?」
「ああ、休み休み」
うぇい。兄者さん軽口。でもそれでいいのかしら?
「休みって大丈夫ですの?」
「それがよ、明日っから孔明が荊州の治安維持のために各地を巡察出張するんでな、その前に前倒しでいろんなことやりまくったからひと月くらい休みなのよ」
頭痛い……。孔明先生も大変だわ。きっと自分の出張のためにひと月分の仕事をまとめてやったのね……。あの人、早死にするんじゃなかろうか?
「それより三娘、知ってるかい? この益徳のヤツめ」
あら! 旦那が何かしたのかしら?
「なんでも文官になりたいんだとよぉぉぉおおおーーー! こりゃめちゃ笑えるよなぁぁぁーーー! ぷす。ぷすす。ぷすすすすす!」
オイオイ、バカにするなよな、ウチの旦那をよぉ! 軍略は直感だけど。字は満足に書けないけど。自分が笑われてるのに笑顔でうなずいてるけど。
「益徳先生ぇって呼ばれてぇのかなぁ。孔明に憧れちゃった? オイオイ、益徳よぉ」
兄者さんに煽られてるのに、旦那は笑顔でうなずいてる。こりゃ“もうなにやっても楽しいモード”に突入したわね。ウケる。
もう三人してキャッキャウフフとおお盛り上がり。
すると今度は簡雍さんが歌が聞きたいと来た。私はあなたたちの慰み物じゃないんですからね。
夏侯家で女の教育を受けてきたのが裏目に出たわ。
私は愛想笑いをし、胡弓を取って歌うことにした。
「青青陵上柏。磊磊礀中石。
人生天地間。忽如遠行客。
斗酒相娛樂。聊厚不為薄。
驅車策駑馬。遊戲宛與洛。
洛中何鬱鬱。冠帶自相索。
長衢羅夾巷。王侯多第宅。
兩宮遙相望。雙闕百餘尺。
極宴娛心意。戚戚何所迫」
後半から三人とも立ち上がってドタドタ音を立てて踊り出しやがった。
聞け! 私の歌をよぉー!
そのうちに兄者さんがゴロリ。簡雍さんもその胸を枕にしてゴロン。益徳さんはしゃっくりしながら手酌でお酒を一杯仰ぐと、テーブルに向かって竹簡になにやら書き留めていた。
そのうちにイスごとひっくり返ってイビキをかきながら寝てしまった。やれやれ。
なにを書いていたかと思って覗いてみた。
「何かしらコレ? “ちよひのがんばりけいかくしや”? “張飛の頑張り計画書”ね。ふふ。益徳さんらしいわ」
一、みやこにせめる。
二、かつ。
三、そうそうとか かこうえんとかとなかよくくらす。
私はそれを見たままただ沈黙。
たったそれだけのたどたどしい文字だったが涙が出た。
この人はこの人なりに人々の幸せを考えている。そして、私の親族と仲良くすることを夢見て、酔いながらもその目標に向かって書き留めたのだわ。
きっと夢の中では、都で政治家になって、曹操さまや淵伯父様と政治談議をしているのかもしれないわね。
私は寝ている三人に毛布をかけ、そっと客間を出ていった。
◇
それから数日が経つと、益徳さんは兄者さんに来るように言われて出ていった。しばらく休みだと言っていたのに。
役所にいくと兄者さんは旦那を笑顔で手招き。旦那も近づいて話を聞く。
「益徳。お前ぇ文官になりたいっていってたな」
「うん」
「じゃあお前ぇに文官の仕事をやろう」
「え、兄者、本当ですか?」
「ああ。最近、來陽県に県令を派遣したんだが、これがとんでもない腐れ儒者でな。仕事もしないで遊んでばかりいると県民から苦情がきてるんだ。お前ぇ、來陽県に行ってこの県令の仕事ぶりを監察してこいや」
「は、はい!」
「役名はあれだ。うーんと“御史”? 役人を監察する仕事だな」
「御史!!」
それを聞いて、益徳さんはすっ飛んで帰ってきました。もう大喜びで出張の準備です。
「益徳さん、どうしたの? いくさ?」
「違う違う。オイラは御史だ。文官の役を仰せつかったのよぉ」
「あらま! ホントに?」
「本当なんだよゥ。なんでもナントカって県の県令がどうしようもなく仕事が出来ねぇから見てそれを正してこいとこう来たもんだ!」
「ナントカ県……って、県名を忘れちゃダメじゃない」
「う。そこはナントカなるだろう」
「來陽県だ。バカもの」
声のほうを見ると、孫乾さんが朝服を着て部屋の中に入ってきたのだ。
「あら孫乾さん」
「孫乾じゃねぇか。どうした? オイラは今から仕事で出張だ。飲んではいられねぇぞ」
「違う。お前さんが御史に任じられたであろう? そこでワシはお前さんの副官を命じられたのだ」
ぶ。これは実質は孫乾さんが副どころか主ってことだわ。兄者さんったら急に心配になって大ベテランをくっつけて来たァ!
益徳さんを見ると、そうかそうかとうなずいてる。いやいや、分かれよ。アンタはお飾りなんだよぉ~。
いや、兄者さんはやっぱり弟思いなんだわね。やりたい仕事をやらしてやろうって気持ちなんだわ。だからこそのベテラン孫乾さん。兄弟愛に泣ける。
私はバタバタと奥に引っ込んで桐箱を抱えてきた。
「益徳さん、ハイ!」
「なんでぇ、これは」
「こんなこともあろうかと、朝服を新調してたのよ。初の文官のお仕事ですもの。これを着て頑張って」
箱を開ければ、益徳さんの好きな赤い色の朝服。益徳さんは袖を通してクルクル回っていた。可愛い。
でも孫乾さんは冷めた目で見てた。
◇
やがて二人は馬に跨がって赴任先の來陽県へと向かっていきました。
県の役所に行くと出迎えたのは、役人たちで県令はおりません。肝心の県令がいないので、益徳さんは彼の屋敷を聞きまして、そちらに向かいます。
「孫乾よ。話は本当だな」
「うむ。しかし張飛よ。すぐに殴ったり、勢い余って殺してはならんぞ?」
「分かってらい」
屋敷に向かう途中、今度は県民たちが益徳さんの回りに群がりました。
「張将軍! 張将軍!」
「なんでぇ、なんでぇ。オイラは御史だい。張御史と呼んでくれ」
得意気な益徳さんだけど、回りはポカーンですわ。ですが一万の兵に匹敵する力を持つ益徳さんを恐れて言い直しです。
「ち、張御史。聞いてください」
「なんだね? 民草諸君」
「ここの県令は、惰眠を貪り、昼間から酒を食らう毎日であります。我々の声を聞いてくれません」
「酒かぁ。そこは多めに見ても、声を聞かないのはいけないな。よろしい。この張御史に靖んじて任せておけい!」
「さすが頼もしい! 張将軍!」
「「「将軍! 将軍!」」」
民の声援に手を上げて答える益徳さん。いや将軍って呼ばれてるけど?
やがて県令の屋敷について、益徳さんは馬に跨がりながら高い背を伸ばして塀の上から屋敷を覗くと、窓を開けて酒を飲んでいる県令の姿が見えたらしいのです。
仕事もしないでと歯をギリリンと噛み締める益徳さんに、孫乾さんはその袖を引きました。
「怒らない。殴らない。殺さない」
「分かってる、分かってる」
県令のお屋敷へと入り、使用人を呼び「県令はおるか」というと果たして「只今体調が悪くて臥せっております」との返答に、益徳さんの眉はつりあがります。
「張飛! 怒らない。殴らない。殺さない」
「う、うむ! しかし我々は官吏を見る仕事である。臥せってるとあらばお見舞いいたそう。入るぞ!」
とうまくいいまして、使用人が止めるのをあしらい先ほどの部屋にズイズイと入っていくと、県令は楽しそうに酒を飲んでおりました。
「張飛。分かっているな。怒るなよ」
「お、おう」
するとその県令は振り返って、益徳さんに向かって大胆不敵にも杯を上げました。
「ほー。お前さまが張飛さんかい」
の言葉に面食らって、益徳さんも孫乾さんも口をあんぐりと開けております。
「そしてそちらは徐州の孫乾どのか。劉備一家の軍閥一位と政やらせりゃ五指に入るおかたが、こんな一県令の屋敷にくるたぁご苦労なこった」
と言うことも普通の人ではございません。二人とも呆然。しかしさすが戦場で命のやり取りをしていた益徳さんです。すぐに意識を取り戻して県令に詰め寄ります。
「貴様、病気と偽り我らの来訪を断っておいて、なんだその言いぐさは!」
と怒鳴ったところで孫乾さん。
「張飛!」
「怒らない!」
「そう! いいぞ!」
ですが二人して県令の態度と仕事振りを問いただします。
「県令よ。そなたは赴任して以来、仕事を省みずに屋敷に籠っては酒浸りだそうだな。職務が出来ないのであれば印綬を返し、早々に郷里に帰るべきではないか?」
「そう。オイラもそう言おうと思ってた」
「先ほど県庁を見てきたが、県令がやるべき決裁は山と積まれ、陳情書も滞ったままだ。君はこれに対してどう申し開きする?」
「そうそう」
さすが有能な御史。の副官。見事なお仕事ぶり。それに県令は、酔った目をとろんとさせて答えます。
「なぁに。あんな仕事一日もあれば終わりますわい」
「なに!!?」
「孫乾、怒らない!」
「そ、そうであった」
そのやりとりに口を押さえて笑う県令。孫乾さんは眉を引き締めて言いました。
「で、では明日一日猶予をやろう。その仕事振りを監察させてもらう」
「結構でございます。ところで張飛将軍」
「なんじゃい」
「どうです。一緒に飲みませぬか?」
それに益徳さんは舌なめずりをしましたが、孫乾さんに袖を引かれてハッと気づきました。
「い、いや遠慮いたそう。今は職務中だ。では明日!」
「なるほど。“遠慮無きもの近憂有り”ですな。ではまた今度呑みましょう」
「お、おう」
孫乾さんは腹を立てていたものの、最後のこのやり取りはなぜか益徳さんには憎からず思えたようで、二人の今後に繋がったのかもしれません。
益徳さんと孫乾さんは庁舎で役人たちに接待され、その日はそこで休みましたが、朝、鶏がなく前に益徳さんは目を覚まして県庁に向かいました。
県令が仕事をするのを見てやろうという腹だったのでしょう。それが益徳さんに与えられた仕事だから真面目にやろうとしたんでしょうね。
県庁につくと、誰もいません。それはそうでしょう。しかし県令の執務室はごそごそ音がするのでいってみると、顔を洗い、髪を整えた県令が、なにやら決裁書に目を通して判を捺しているようでした。
「こ、これ。県令!」
「ん? おお、張御史どのが。今仕事を始めたところです。こちらが終わった決裁で、こちらは今からのもの」
見ると終わったほうが多いので、益徳さんは驚きました。
「む。貴様、仕事をさっさと終えようと盲判を捺したな?」
「まさか。ちゃんと覚えておりますぞ。農道の拡張、河川の治水、山の植林、商業への支援。こちらは決裁でございます。ただ、繁華街を作るは否決ですな。民がもう少し裕福になればそれもいいですが、それをやってしまえば今ある酒場も共倒れします。経済が安定するまで延期ですな」
「ほ、ほう」
「さて。話している間に決裁は終わりました。次は民の陳情書を読みましょう」
県令は出仕してきた役人たちに命じて、陳情してきたものを呼び出し、陳情者だけでなく、相手の意見も聞き、時には役人の意見も交えてそのほとんどを解決して行きました。
その頃になると孫乾さんも県庁に来て、県令の裁きに息を飲んでおりました。
県令は最後の陳情書を取って、益徳さんのほうを向きました。
「この陳情は県令の仕事には余りますが、中央の役人である張飛将軍がおられるなら解決できます」
「な、なに? どんな陳情だ?」
「山賊が山に砦を築き、要塞を作っております。これが出来れば來陽県は外界とは遮断され、山賊に県を奪われましょう」
「な、なんと。ではオイラに山賊を討伐せよということか?」
「左様でございますが、県としても兵を二十出しましょう。そして私も随行いたします」
「な、なるほど。そなたが来るのも役目である。随行を許そう」
「ありがとうございます。孫乾どのも軍目付としてどうです。一緒に参りませんか?」
「お、おう。いいだろう」
こうして益徳さん、孫乾さん、県令の三人は歩兵二十を連れて山賊の要塞に向かいました。
時刻は夕刻となり、山賊たちは要塞を作る仕事を終えて、食事を始めようとして油断しておりました。
そこに歩兵たちに火矢を射たせると、要塞の中は大混乱。
「さ。張飛将軍。今でござる」
「今オイラが行ってどうする」
「要塞の主に勝負を挑んでください。山賊の長は、張飛将軍が朝服を着てることを知らずに油断しており、軽視して誘いに乗るので、それを討ち果たした後に“俺様は燕人張飛である”とおっしゃれば、他の山賊は恐れて降伏するので、治水工事の労役に出します」
「ふふ。面白い。ではそのようにいたそう」
益徳さんは、県令の策にのりました。すでに決裁や陳情の裁きに感心していたので、あっさりとそれをやろうと思ったようです。
混乱中の要塞に馬を歩ませ、一声轟音!
「やい! 要塞の主に勝負を所望!」
とやると、混乱しているので、すぐさま山賊の長は襲ってきました。
そこを益徳さんは、借りた槍で一閃!
山賊は貫かれて地面に倒れました。益徳さんは、息を思い切り吸い込んで叫びます
「俺は燕人張飛だ! 武器を捨て投降すれば殺しはしない!」
それをいうと、みんな恐れて平伏しお縄につきました。山賊五十人をあっという間に降伏させたことに、益徳さんは県令を尊敬しました。
「いやぁ見事。まるで孔明先生のようだ。お前さんはすごい。県令の仕事などお前さんに取っては軽すぎるわい。そりゃ酒浸りにもなるだろう」
「いえいえ。このくらいで感心されては面映ゆいです」
「よろしい。ではこの前の誘いに応じ、お前さんの屋敷に行こう」
とこうなったのです。県令は酒を出し、益徳さんと孫乾さんはそれに応じます。
孫乾さんも、この県令はどうやらただ者ではないと思ったようでした。
「まさか天下の張飛将軍と同じ席につけるとは思いませんでした」
「いやぁ、それよりもお前さんの政治学、軍学はすごい。オイラは文官になりたいんだ。今度、オイラの屋敷に来てご教示願いたいもんだ」
「左様で。では参りましょう」
ということで酒宴を開き、次の日には県令の能力の高さを兄者さんに報告したようなのです。
それを聞いて兄者さんは、もうすぐ孔明先生が戻るから、相談してどうするか決めるとのことなので、益徳さんは県令を連れてウチに来たわけです。
それは相当な惚れ込みようで、敷地内にある屋敷を彼に貸して、寝泊まりするよういい、その夜は酒宴をしようと私に命じたので、私はさっそく肉や魚を買い込んで使用人に用意をさせました。
酒宴の中では、益徳さんは楽しそうに県令さんと肩を組み、大声で話して楽しそうです。
私は県令に聞きました。
「ところで、県令さんのお名前は?」
それに益徳さんは酒で顔を赤くして答えます。
「こいつはねー、姓は“県”、字を“令”っていうんだよ。ヒック」
「ウソおっしゃい!」
私はだらしなく酔う、益徳さんの膝を叩きました。すると県令さんは笑い出します。
「ははははは。ウワサ通り仲が良いですな、夏侯の姫君。私は襄陽の産まれで、姓を龐、名を統、字を士元と申す、書生であります。貴女のご主人は腕っぷしは強いし、面白いし、これからも懇意にしたいです」
「は……龐士元さま……?」
どこかで聞いたような……。
「貴女のご主人は文官になりたいそうですが、そんなことはせずともよろしい。ご主人の武は天下に二人とおりません。そこに私の拙い軍略を加えますれば、魏も呉もたちどころに攻略できるでしょう」
「なーにを大きいことを言ってやがんでい。県令! だがオイラの武が天下に二人といないは気に入った! 飲め。さぁぐーっと飲め!」
「いただきます。大将軍」
「かーっかっかっかっか!」
調子がいいわね。でもなんか憎めない。不思議な人だわ。ふーん……。
それから数日が経って、益徳さんは兄者さんに呼び出されてさっそく出掛けて行きますと、大変に兄者さんは慌てております。
「益徳! 大変だ!」
「どうしたんです、兄者」
「呉の魯粛からの手紙だよ、例の來陽県の県令はな、天下の大賢人、鳳の雛と呼ばれた龐統なんだよ!」
「え? 大賢人?」
「そうだよ! アイツ、今県令の席にもいないし、屋敷にもいない! どっかに行っちまったんだァ! どうしよう」
とやってるところへ、孔明先生が出張から帰ってきたようです。手には羽扇を持って涼しい顔をしております。
「我が君。孔明、只今戻りました」
「お、お、お、孔明。俺は大変なことをしてしまった」
「と、おっしゃいますと?」
「天下の大賢人、龐統を在野に放ってしまった。今頃他国で仕官しているかもしれん」
「おやおや、それはそれは。困りましたね。士元どのは私の義兄です。我が君に仕官するよう紹介状を渡しておいたのですが」
「それは、俺は貰っておらぬ」
「ふむぅ。では紹介状なしに己の才能を我が君に見破って欲しかったのかもしれませんね」
悩んでるお二人に益徳さんはにこやかに話かけました。
「兄者、先生。その龐統先生はウチの屋敷にいるぜ!」
「なに?」
「本当ですか?」
「おう。今連れてくるから、待ってておくんな!」
そう言って益徳さんは、龐統さんを連れて、もう一度兄者さんのもとへと戻りました。
そこで兄者さんは、龐統さんを孔明先生と同じ軍師中郎将としたのでした。
「やったな、龐統」
「いえいえ、これも張飛将軍のお陰で」
「お前さんは、俺に軍略を授けてくれるんだよな。そしたら俺は無敵だ!」
「ええ、私もですよ。この鳳凰の雛も、張飛将軍を得て、いよいよ翼を広げられそうです」
「はっはっは! まるで兄者と孔明先生の水魚の交わりだ!」
「ええ、まさにその通りです。私は人物評を良くするのですが、張飛将軍はこの劉備一家にとって瑞祥なお方です」
「そりゃ本当かよ」
「ええ。これから劉備一家は益州を取ることになるでしょう」
「嬉しいことを言うね、お前さんは。そりゃ孔明先生の策にもあったな。取れるのかい?」
「もちろん。張飛将軍の字は益を徳るですから」
「そりゃいいや! はっはっは! 龐統。これからよろしく頼む」
「こちらこそ」
◇
さて。益徳さんは、兄者さんのように得難い軍師と友達になれました。
この後、龐統さんの計略で劉備一家は益州に攻め入ることになります。
そこで益州を取ることが出来るのですが、今回はここで終わりといたしましょう。