9.誤差
「どうした?」
重里は、ドリップしたコーヒーをカップに入れると、研二のデスクに向かった。
「これです」
モニターには、黒をバックにして細く短い赤い線が複数映っていた。これはドイツの気象衛星が搭載している宇宙環境監視システムが捉えた映像を解析した画像だ。
宇宙環境監視システムでは、静止衛星からX線、荷電粒子、磁力、陽子などの放射線を観測、測定し、地球上の電離層擾乱を調べている。欧州で、このシステムを搭載している気象衛星を持つのはドイツだけだ。
モニターに表示されているのは、黒の背景が宇宙で、細く短い線が観測された放射線だ。放射線の種類は線の色で分類され、モニターの右下に、白がX線、緑が磁力といった具合にそのラベルが示されている。
そして、赤いラベルの説明は「unknown」だった。
「ちょうど事故発生時刻ジャストに撮影された画像です」
「ステーションとの距離は?」
「待ってください」
研二はそう言うと、パソコンを操作して、いくつかの指標を取りだした。
「えっと、撮影位置は、静止衛星ですから高度は3万6千キロで、ステーションとは真逆の地点を撮影していますので――ざっと計算すると、ステーションとの距離はだいたい40万キロ地点、というところですね」
ステーションと同時刻に撮影された40万キロ離れた地点の画像。普通ならば、それだけ離れたところにある何かがステーションに影響を与えた可能性はゼロだ。何の関係性も見出すことはできない。
もちろん、放射線ならば40万キロ程度の距離は一瞬だ。しかし、放射線がステーションの機器に影響を与えたとしても、墜落はあり得るだろうが、ステーションを粉々にするエネルギーは持たない。
確かに、ステーションには軌道修正用の動力が備わっており、燃料も搭載している。しかし、これまでの検証からステーションは内部から破壊されたのではなく、外部からの衝撃を起因としていることが分かっている。
ステーションを外部から破壊するだけのエネルギーを与えられる物質が40万キロを一瞬で踏破するには光速に近い速度が必要だ。理論上は、もちろんあり得るが、観測史上質量を有する物質では確認されていない。
人工物体で最速のものは、NASAの太陽探査機「パーカー・ソーラー・プローブ」で時速69万キロ。観測された史上最高速度が高温準矮星「US 708」で時速420万キロだ。いずれも時速だから、秒速換算では200キロ~1200キロに過ぎない。
だが……
重里には、この画面に映る赤い線が、どうしても気になっていた。
「研二、すまないが、DLRに生データを申請してもらえないか?こちらで、独自にスペクトル分析にかけてみたいんだ」
「分かりました。すぐに申請します。おそらく今なら二日ほどで送られてくると思いますよ」
重里には、ある仮説が思い浮かんでいた。仮説の検証には多くのデータが必要だ。デスクに戻った重里は、すぐにパソコンを操作し始めた。今週末の優子との食事はキャンセルするしかないだろう。
◆◇◆◇
▼20XX年1月27日 19:00 ハワイ大学天文学研究所
発見された「C/20XXJ1」は、「スレット」とコードネームがつけられた。同時に、アトラスの全メンバーは、スレット対策室に組み込まれた。
あまりにも事が重大なため、全員が外部との接触を遮断された。もちろん、アトラスに加入する際、一時拘束への許諾について「危機管理の誓約書」に署名していたが、このプランが実行されたのは初めてであり、家族からシリアスクライシスが発生していることが漏れることは避けられないだろう。
だが、残る日数を考えれば、万全の態勢を敷く猶予などない。いち早く、彗星に対して、何らかのカウンターを与える方法を見つけ出す必要がある。
スタッフ全員の意識は高く、残る日数を不休で取りくむことを否とする者は誰もいなかった。
もちろん、アトラスメンバーがカウンターの手段を考えるのは完全な畑違いだ。だが、仮にミサイルなどで彗星を攻撃するにも、正確な軌道計算は必須だった。
「どう。誤差は縮まったかしら?」
ソフィアと公彦のチームは、今、合同で「スレット」の軌道計算を行っている。その他、地球との公転軌道の交差地点の計算を行うチーム、「スレット」の組成分析を行うチームなど、分担して計算や分析を行っている。
「スレット」は、すでに土星の公転軌道からは離れつつある。
「まだダメだ。スピードが速すぎる。近日点までの加速度の推移がまだ確定できていない」
彗星とは、太陽系を構成する小惑星の一つであり、公転軌道を描いている。周期彗星は200年以上の長周期と、200年以下の短周期に分かれる。有名な彗星では、ハレー彗星の周期は75.3年、エンケ彗星が3.3年だ。
軌道計算が確定しないとその周期も確定できないが、「スレット」の現時点での周期推定は2,000年以上。超長周期の彗星と考えられていて、当然だが過去に観測された彗星ではない。
その軌道は極端に縦長と推測されていた。
太陽からもっとも離れた地点(遠日点)と、もっとも近い点(近日点)では、太陽から受ける引力の影響などが異なるため、速度も大きく違ってくる。ハレー彗星の近日点では、遠日点の66倍の速度となる。
「スレット」も近日点における速度は、現在よりも速まるものと考えられていた。
遠日点が分からないと、近日点における速度計算が正しくできない。速度計算ができないと、正しい軌道も導き出せない。さらに、「スレット」は、木星の重力にも影響を受けている様子が見てとれた。その影響による加速度の増減は、プラスマイナス0.0001%未満程度だが、その0.0001%未満の違いが、地球まで飛来したときには大きな違いを生むことになる。
過去に類をみないスピードで飛来する彗星は、いろいろな因子の影響を受けているようで、ケプラーの法則に沿った計算式では、実測した数値との誤差が生じていたのだ。
問題は、現時点における軌道計算では、「スレット」の公転軌道が、地球の公転軌道と重なっている部分があることだ。
もし、地球と点で交差するだけならば、衝突するタイミングの時間は一瞬しかない。地球も時速10万キロ以上で公転している。時速200万キロと時速10万キロの物体が、縦と横の軌道で交わる場合には、物体の大きさが1:400であっても、交差する時間は1秒未満だ。
だが……今回は不幸なことに、お互いの公転軌道が重なっている位置でインパクトを迎える恐れが高かった。点ではなくて線で交差するのだ。相対速度の関係もあるが、おそらく実時間で20秒近く、軌道は交差することになる。多少の計算誤差では、この20秒を「乗り越える」ことができない。
これが、インパクトの確率が90%を越える理由であり、不明な因子による軌道への影響による誤差が、かろうじてその確率を99.9%にすることを防いでいた。
公彦たちは、希望の芽となるこの「誤差」を探していたといってよいだろう。
何か、わずかな影響が「スレット」に与えられていたら……その影響は、交差する軌道をわずかにずらしてくれるかもしれない。あるいは速度が想定よりも早く、あるいは遅くなれば、交差する時間が異なる時間に変わるかもしれない。
「でも、近日点は、ちょうど太陽の向こう側で迎えることになるわけでしょう?」
「おそらく。ただ、未知の彗星だから、そもそも太陽の引力下にない可能性もわずかだが残されているし、そのことも考慮が必要じゃないかな」
太陽系を通過する彗星は本来、太陽の重力の「支配下」にある。太陽の重力の範囲は広い。その距離は15兆キロ。太陽から最も遠い惑星である海王星までの距離が45億キロだから、その影響範囲の広さが分かる。
しかし、太陽系を通過する彗星が、必ず太陽の公転軌道を持つとは限らない。たまたま太陽系を通過しているだけで、他の恒星の重力下にある可能性もわずかだがあるからだ。
こうしたことが、軌道計算をより難しくさせていた。
「スレットのこと、いつまで秘匿できるかしら?」
そう。大きな問題の一つは、この彗星のことがいつ、世間に知られるか、ということだ。
現在の「スレット」を個人がキャッチすることは、まだ難しい段階だ。光学的にも、わずか30キロの彗星を、しかもテールがまだ現れていない状態で、その軌道を含めて察知することは極めて困難だ。VOプロジェクトのような組織だった観測機関でないと、観測上のダストかそうでないかの区別はつきづらい。
しかし、その猶予期間も長くはない。
火星の軌道に近づければ、彗星の特徴であるテールが出現する。そうなれば、さほど倍率が高くない望遠鏡でも、その姿を捉えることが可能になり、簡単な軌道計算のソフトは山のようにあるから、隠しておくことは困難になる。
その最遅のタイムリミットは、あと20日ほどと考えられていた。そして、火星の軌道を越えれば、「スレット」の速度を考えれば、インパクトまでの時間は3日を切る。
実際には、VOプロジェクトに所属しない国家や、設備を持った教育機関などが察知することになるだろう。シミュレーション結果では、ネット上で情報が出始めるのが1週間後、おそらく2週間後には周知されることになり、アトラスもデータの開示を求められることは避けられないだろう。
衝突のエネルギーや被害予測は、これだけ情報過多の時代、さして難しくはない。小学生でも、専用のサイトを利用すれば、ほんの数分で計算できる。そこで訪れるのは、終末期のパニックだ。
正しい情報も正しくない情報も、そのパニックに拍車をかける恐れがあり、またそうしたパニックに便乗しようと言う輩はいつの時代でもいる。もっとも、衝突が避けられない場合、パニックを起こして享受できる利益など存在しないことを誰もが知ることになるわけだが。
いずれにしても、アトラスではデータ開示の準備を同時に進めることになっていた。データ開示の目標は2週間後。それまでに、できる限りの解析を行っておきたかった。
「今回は、普通の危機とはレベルが異なるから、内部からのリークは避けられないんじゃないかな。シミュレーション結果の2週間後よりも早く、情報開示が求められると思う」
「そう。私も同意見よ」
「それにしても、なぜ、こんなに分析が安定しないのだろう?」
「分からない。今の計算式に与えていない因子があるのは確かだけれど……」
昼夜を問わず行われている軌道計算だが、計算上の「スレット」の位置と実位置がほんのわずかにズレている。それも、観測のたびにだ。
もっとも、時速200万キロの軌道を描く彗星など観測されたこともないから、初めて経験することが多すぎるのは確かだ。だから手探りで行うしかない。
「与えていない因子か……」
「一度、最近の学説も検索してみる?」
「そうだな……学説と言えば、「質量中心」はどうだろう?ほら、昨年、JAXAから発表された……」
「えーっと確か、太陽系の質量的な中心は太陽の位置ではない、というやつね」
「そう。木星の影響を受けて、太陽も質量中心を軸に動いていているから。この質量中心をパラメーターで与えてみたらどうかな?」
「うん。面白いかも。早速、演算してみましょうか?」
「ああ」
不確実な中から、意外な真実が見つかることはある。今は、思いつくものは何でも試してみるべきだ。
二人は、すぐに行動を始めた。
次話「10.露見」、来週火曜日の投稿予定です。