2.最接近
▼20XX年1月19日 11:00 神奈川県相模原市のカフェ
「今日だっけ?」
突然かけられた声に、操作していたスマホの画面から顔を上げた長鍬重里は、美坂優子をキョトンと見つめた。
「え?……何の話?」
「ほら、小惑星が地球に最接近するの。確か、今日じゃなかった?」
「ああ――『1994 PC1』なら、今朝、地球の脇を通り過ぎて行ったよ」
「うそ?もう?……終わっちゃったの?」
重里は、プクンと頬を膨らます優子の姿に微笑ましいものを感じながら、苦笑いした。
長鍬重里は、相模原宇宙物理大学の大学院の助教をしている。専攻は小天体物理学だ。
太陽系の天体の分類は「恒星(太陽)」「惑星(地球型惑星、木星型惑星、天王星型惑星)」「準惑星(小惑星帯、冥王星型天体)」、そして「太陽系小天体(太陽系外縁天体、小惑星、彗星、惑星間塵)」の4つに分けられる。
重里が研究しているのは、その中の「小天体」で、特に小惑星と彗星を対象にしている。
付き合い始めて一年の彼女、美坂優子が聞いてきたのは、オーストラリアにある天文台で1994年に発見された、周回する小惑星「1994 PC1」のことだ。軌道要素が確定することで小惑星センターに登録される番号は「7482」だ。
「1994 PC1」は572日の周期で太陽の周りを公転していて、直径が1,052メートル(3280フィート)、「潜在的に地球に衝突する可能性のある危険な小惑星」として分類されている。昨年は、何度かニュースでも取り上げられていた。
今回は、月までの5.15倍となる地球から193万キロ離れた位置を、時速約7万キロ(秒速19.56キロ)で今朝通過したのだが、優子が膨れていたのは、晴れていれば通過するのが見えると思っていたかららしい。
「だから、前に教えただろ。肉眼では見えない小惑星だって」
「でも、すごく近くを通ったんでしょ?」
「そうだな……地球を優子の身長のサイズと仮定すると、東京駅に優子がいたら、静岡市のあたりを通過したことになるかな」
「え?それって、めちゃ遠くない?」
「話したことあるだろ。宇宙の基準は普通とは違うって」
「だって……」
そう、宇宙サイズで考えると、193万キロは地球の「ごく近所」と言える。
「例えばだけど、拳銃の弾を拳銃の弾で撃ち落とせると思う?」
「それは……無理でしょ」
「そう。偶然以外でそれができるとしたら、マンガの主人公だけだよ。でも、拳銃の弾の速度って、宇宙サイズで見ると、少し大げさに言えば、亀の歩みのようなものだからね」
「亀?拳銃の弾が?……それは大げさすぎるんじゃない?」
重里は小さくため息をつきながら優子に説明した。
拳銃の弾は時速1,000~1,200キロ程度で、音速前後の速度だ。
それに対して、地球の公転速度は時速10万8000キロ、今回の小惑星が時速約7万キロ。拳銃の弾の速度と比較すると、地球の方が約100倍、小惑星の方が約70倍。人類の現在の科学でも、その速度同士の衝突を意図的に起こすことは非常に難しいと言える。
それだけ宇宙サイズの現象は規模が大きいわけだが、逆に考えると、「近い遠い」も桁が違うことになる。
地球近傍小惑星の中でも、特に地球に衝突する可能性が大きく、なおかつ衝突時に地球に与える影響が大きいと考えられる小惑星を「潜在的に危険な小惑星(略称、PHA:Potentially Hazardous Asteroid)」と分類されている。
そして、その潜在的に「危険」とされる基準は、直径が110メートル以上で、地球との最接近距離(地球軌道との最小交差距離)が約748万キロ、となっている。
748万キロの距離から危険とされていることを考えると、今回の193万キロが、どれだけ「近かった」かということが分かるだろう。
宇宙サイズの規模について話すと、優子が聞いてきた。
「じゃあ、今まで地球の一番近くまで飛んできた危ない小惑星って、どれくらいの距離だったの?」
「観測史上で言うと、確か100年前ぐらいだったかな……えっと、あ、あった。これこれ」
重里はスマホに保存しているPDFを、検索をかけて調べた。
「PHA(潜在的に危険な小惑星)だと、一番最近なのが1973年1月17日で44,900キロだから――地球の3.5個分の距離を通ってる」
その距離が、どれだけ近いかは、優子にもイメージできた。
「大きさは122メートルだから、今回の「1994 PC1」の10分の1ぐらいだけど……1907年12月26日に、同じく44,900キロの位置をを通過したのが193メートルだね」
「今回のは直径1キロぐらいでしょ。100メートルとか200メートルぐらいだと小さく感じるけど、被害は出るのよね?」
「もちろん。大気圏突入の際、断熱圧縮の熱や衝撃で元の大きさを維持することはないけど、100メートルの小惑星が地球に衝突……そう、仮に東京駅に直撃したとすると、銀座から皇居、神田までの一円が深さ500メートルほどのクレーターとなって、横浜駅、大宮駅、千葉駅あたりの20~30キロ範囲の建物は全て被害を受けるよ。200メートルクラスだと、首都圏はほぼ全滅だね」
「100メートルほどの隕石で、そんな広範囲が影響受けるんだったら、今日の小惑星がもし衝突したら……」
「同じく直径1キロの小惑星が東京駅に直撃したら、名古屋から仙台ぐらいの範囲が壊滅、舞い上がった塵が太陽を遮るから、北半球で人類に適合した地域はかなり減ることになるかな」
「核戦争よりも、被害が大きいのね」
「衝撃とか直接の威力はね。核の場合、使用後の放射能の問題があるから、一概に比較はできないけど……」
優子は、小さくため息をついた。
「見れなかったのは残念だったけど……地球にぶつかったら大変なことになってたのね」
「大パニックだったのは間違いないね。ぶつかる前の被害も相当だったんじゃないかな」
人が疑心暗鬼なった際の行動は、情報過多の今だからこそ、怖いものがあるのは確かだろう。
重里は、何気なく空を見上げた。そこには、何の危険も感じられない冬の澄んだ青空が、どこまでも広がっていた。