第8話
談話室のテーブルの中心にちょこんとテディベアが置かれている。
覗き込むと上目遣いでこちらを見ているようでとても可愛らしい……のだけれども。
「知らなかったのです。知らなかったのです。知らなかったのですっ!テディベアにそんな意味があるなんて!こんなことなら受け取らずに……っ!」
顔を両手で覆い頭を振るヴィクトア。
混乱しているヴィクトアの肩を装具をつけたアヴァンが抱く。
「受け取ろうが受け取るまいが、殿下のお気持ちはお前にあるということだ」
「そうね、ヴィクトア。落ち着きなさい」
同じく装具をつけたグレースが、ヴィクトアの手を取って撫でた。
ヴィクトアを挟むようにアヴァンとグレースが、その向かいには装具をつけたルカスとアダムが腰掛けている。
ヴィクトアはだらだらと汗を掻き、涙で頬を濡らしていた。
装具をつけないと近付けない程、談話室は濃厚な香りで満たされている。
何も知らない人間が、何もせずにこの部屋に入ったら、のぼせて倒れることだろう。
「あの噂は、本当だったということですね……」
唐突に、そう言ったアダム。
噂とは?と全員の目がアダムに向けられる。
アダムは人差し指をピンと立てると、「実はですね」と話し始めた。
「僕は実際に見たわけではないんです。入学して一ヶ月、中級生と関わることなどありませんからね」
そう前置きしたアダムは、テーブルの真ん中に置いてあるテディベアに目を向けた。小さいはずのそれは、妙な存在感を醸し出している。
「先に確認しておきたいことがあります。……母上。」
「ええ。なにかしら?」
「社交界では、夫婦間でお互いの髪や瞳と同じ色の物を身に付けますよね?」
「……ええ。そうね。マナーのひとつに数えてもいいと思うわ」
グレースは、慎重にこくりと頷きながら、アダムの言葉に同意する。
「貴族学院の生徒達は、恋人同士で同じことをしています。社交界に出る前の予行練習のように。かくいう僕も、リーリア嬢の瞳と同じ色の宝石を使ったピアスをつけているのですが……」
一度言葉を切ったアダムは、ヴィクトアに目を向けて、ふぅと息を吐いた。
「それを誰か姉上に教えていますか?」
アヴァンとグレースははっとした表情で顔を見合わせた後、そろそろとルカスを見た。
視線を向けられたルカスは、ぶるぶると首を振る。
そして三人は、額に手を当て溜息を吐き、思い悩むような表情のままがっくりと項垂れた。
「……殿下は、ヴィクトアの髪と同じ水色やら瞳と同じ藍色やらの物を身につけてるってことか?」
「僕も今まではまさかと思っていたのですが、このテディベアを見たら、まあ、もう……間違いないな、と」
アヴァン、グレース、ルカスが盛大に溜息を吐く。
「殿下のピアスは藍色、ノートや筆記用具はすべて水色に揃えられているそうです。学院内での式典の際は、黒地に水色の刺繍を添えたものか、藍色地に桃色の刺繍を添えたものを着用されていると聞いてます。……ああ。そういえば、入学式典では、黒地に水色の刺繍だったような気がしますね。ちなみに初級の頃からだそうなので一年以上、殿下は姉上に懸想していることになります」
「おま……っ!ヴィクトア!全く気付かなかったのか!?」
頭を抱え、眉尻を思いっきり下げたルカスが、ヴィクトアに詰め寄る。
ヴィクトアは「だって、だって」と繰り返しながらぼたぼた涙を零していて。
「ちなみに姉上は殿下のアピールを物ともせず媚びることなく自分を貫く孤高の令嬢として、学院中の令嬢が憧れているそうですよ」
アダムの言葉に、家族全員が再び溜息を吐くと。
「だって!だって、だって!なんにも、知らなかったんだもぉんんっ!」
とヴィクトアは泣き崩れた。
わんわん泣くヴィクトアが落ち着きを取り戻すまで、アヴァンもグレースもルカスもアダムも根気強く待った。
やっと、ヴィクトアの泣き声が小さくなり、冷静さを取り戻し始めたところを見計らって、グレースが言った。
「とにかく、返礼をどうするか、だわ」
すかさず、アヴァンとルカスが同意する。
神妙に頷き合う三人を見て、ヴィクトアは目を瞬いて、再び湧いた嫌な予感を抱えながら恐る恐る口を開く。
「ま、魔香水を届けたお礼だと殿下は仰ってて……」
「何も返さないわけにはいかないでしょう?せめて手紙くらい」
「そうですね。手紙は書いた方がいいと思います。しかし、問題は内容ですよね。姉上は殿下のお気持ちにお応えするつもりはないのでしょう?婚約の打診に繋がらないよう上手く回避する必要がありますが……」
アダムの声を聞きながら「うっ…うう……」と先ほどを越える量の涙を流し始めたヴィクトア。
その場、全員の顔が嫌な予感に行き当たり、ヴィクトアを凝視しながら顔色を青く変えていく。
ヴィクトアに限っては、青を越えて真っ白である。
「姉上……」
「ヴィクトア、貴女」
「ヴィクトア、お前……」
アダム、グレース、アヴァンの声が続き。
「ヴィクトア……手紙、書いたんだな」
ルカスが掠れた声でヴィクトアに問い掛ける。
アヴァンとグレースの顔には「否定してくれ!」と書いてある。
「うっ、ふぐっぅ……っずびっ!……書きました。ごめんなさいいいいっ!」
ぶわっと涙を溢れさせ、再び泣き崩れたヴィクトア。
その数日後、120cm程もある特大サイズのテディベアとともにアヴァン・パルファグラン公爵の元へクラッドとヴィクトアの婚約の打診が入った。