第5話
(どうしましょう、どうしましょう、どうしましょう)
馬車の中で、診療用の鞄を抱きかかえたヴィクトアは、だらだらと汗を流していた。
ヴィクトアの体臭との相乗効果で、頭がぐらぐらする程濃厚で甘い香りが立ち込めてしまっている。
御者が馬車内から漏れる香りに、首を傾げながらそわそわしていることなどヴィクトアが知る由もないのだが。
(し、診療する?診療しない?……四ヶ月前の診療記録の更新はしたい。けど、診療はミュラに……。でも、早い方が…う、うーん)
うーんうーんと、唸りながら鞄に頭をぐりぐり押し付ける。
(それに突然、自分が診療などしてクラッドに怪しまれないだろうか。でも、クラッドは自分に担当してもらうことを希望していると言うし、それなら診療しても……いや、しかし)
調香する際は、素晴らしい早さで回る頭も、対人となると途端に愚鈍になるヴィクトアだ。
貴族学院を卒業するまで、調香魔術師であることは秘密だ。危険は避けたい。
目を回すようにぐるぐると考えていたヴィクトアに、御者の声が到着を告げる。
「お嬢様、到着致しました。…お開けしてもよろしいでしょうか?」
「あ、あああ!待ってくださいっ!」
手早く汗を拭き取ったヴィクトアは魔香水を自分の体と馬車内に大量に吹きかけてから馬車を降りた。
通された応接室。
用意されたダージリンティーの香りに、ほうっと息を吐く。少しだけ落ち着きを取り戻したヴィクトアは、(ダージリンティーを使ってよかった)と表情を綻ばせ、紅茶を口に含んだ。
が、クラッドの登場に思わず吹き出しそうになった。
「ヴィクトア嬢、夜遅くにありがとう」
騎士のエドワードを伴って現れたクラッドは、そう言いながら向かいに腰掛ける。慌てて立ち上がり挨拶をしようとしたヴィクトアを抑え、人払いをするように手を振った。
(な、ぜ、人払い……っ!?)
焦ったヴィクトアは、給仕をしてくれていたメイドにオロオロと視線を送るが、そそくさと下がっていく。
目すら合わせてもらえない。
エドワードに視線を向ければ、にやりと微笑まれ、衝立の向こうに姿を隠した。
ぱたりと、静かな音を立てて扉が閉まる。
(ふ、二人っきりというわけでは、ないわ。うん。うん。エドワード様は衝立の向こうにいるわけだしっ)
表情は変わらないが、頭と心は大混乱のヴィクトア。
クラッドと向かい合って座る空間に、そわそわと視線を巡らせる。表情を伺い見ようと、クラッドの姿を視界に入れた。
(改めて見ると、本当に美しい方。王妃クローディア様にそっくりだわ。それに……優しげな雰囲気のまま成長されて……。あんなことがあったなんて、微塵も感じさせない)
細く息を吐き、少しだけ深く座り直すクラッド。
そのクラッドの顔色に、ほんのかすかな陰りを見つけた途端。
ヴィクトアの思考が、かちりと切り替わった。
「遅い時間になってしまって、申し訳ありません。クラッド殿下。今回の魔香水はこちらになります。どうぞ、お受け取りくださいませ」
鞄から取り出した香水瓶を差し出したヴィクトアは、クラッドが受け取るのを見て手を下げると、即座に診療用の鞄に手をかけた。
受け取った香水瓶を開け、香りを確かめるクラッドの表情よりも顔色が気になる。
がさがさ鞄を漁り、診療記録用紙と筆記具、診療用眼鏡を取り出したヴィクトアは、さっくりと告げた。
「それでは、脱いでくださいませ」
「……え?」
「診療を致しますので、脱いでくださいませ」
(顔色が随分と良くない気がするわ。あまり眠れてないのかしら……浄化作用の香石をもう少し多めに調香するべきだったわ)
クラッドが目を瞬いて驚いている様など、まったく目に入らないヴィクトア。
気になるのは、顔色の悪さのみ。
診療用の特殊な眼鏡を掛けると、用紙と筆記具を手に取った。
診療用として使う眼鏡は特殊な加工により、香りを視覚化できるようになっている。体調によって変わる体臭を見分けるために使われる。
(あら?……なぜ、脱いでくださらないのかしら?)
「殿下、脱いでくださらないと診療できませんわ。顔色があまり良くないように思いますが、睡眠不足ですか?」
「あ、はい。最近、あまり眠れて、い、ません」
思わず敬語を使うクラッドは、躊躇うようにシャツのボタンを弄る。
(眠れてないのであれば、申告してくださればいいのに……)
「殿下、シャツの前を開けてくださいませ」
「は、はいっ」
痺れを切らしたヴィクトアは、少し強めの口調になってしまったが、本人はまったく気付いていない。
眼鏡越しにクラッドを凝視しながら、手は忙しなく記録用紙に診療内容を書き付ける。
(ミュラの診療記録より痩せた気がするわ。食欲もないようね。体臭にも少々淀みが見えるし……。あら?体調不良というよりも、もしかして……悩み事があるかしら?)
やっとシャツを脱いだクラッドの裸体も、今のヴィクトアにとってはただの診療対象。クラッドの頬が、ほんのり赤く染まっている理由など考えることはない。
「睡眠不足に食欲不振。……何か悩み事でもございますか?……あら、殿下。もしかして、緊張していらっしゃるのですか?」
「あ、いや。それは……」
ヴィクトアの指摘に、赤い頬をますます赤く染めたクラッド。衝立の向こうから「ぶふっ!」と吹き出す声が聞こえる。
(診察中に!)と憤りを覚えたヴィクトアは、衝立の向こうに声を掛ける。
「エドワード様。診療中です、お静かになさいませ!」
エドワードの「失礼した」の声に、ふぅっと息を吐く。
向かいに座ったまま、固まっているクラッドをヴィクトアは真っ直ぐに見据えた。
「殿下。体調が優れない場合は、すぐにパルファグラン家にご申告をお願い致します。魔香水は、体調によって香りの合う合わないが如実に現れます。細かい診療が必要ですわ。それと……傷跡が残っていないようでとても安心致しました。ミュラから聞いてはおりましたが、実際に確認することができて嬉しく思います」
そう言って微笑んだヴィクトア。
その言葉に、クラッドは表情を綻ばせる。
六年前のあの日、ヴィクトアはクラッドと意図せず対面した。それからすぐ、ヴィクトアは調香魔術師として仕事をするようになり、その二年後には自らの希望でクラッドの調香を担当になった。
クラッドはぎゅっと手を握り、決心したように口を開きかけた。それには気付かず、筆記具を持ち直したヴィクトアは。
「それでは、殿下。下半身も診療致します。下も脱いでくださいませ」
と、言って診療用眼鏡の縁を左手で直した。
ふんわりと流れた雰囲気が一変。
「ヴィ、ヴィクトア嬢……っ!」
「はい、なんでございましょう?」
こてりと首を傾げたヴィクトア。
座っていたクラッドはシャツを掴んで立ち上がる。
「夜遅くに魔香水を届けてくれてありがとう。診療は改めてミュラ嬢にお願いするよ。気をつけて!」
一気に言い切ると、急ぎ足で衝立の向こうへ歩き出すクラッド。
「えっ!ちょっ、待っ!殿下っ!診療が終わってませんわっ!」
ヴィクトアの声は、ばたんと勢いよく閉められた扉に吸い込まれ、扉の向こうからエドワードの大きな笑い声が響いた。