第3話
ルカスは部隊を率いる部隊長として犯罪の摘発やら内乱の制圧やら、国内を忙しく駆け回っている。会うのは、実に二年ぶりだ。
近況報告から昔話まで、話題は尽きない。
学院からパルファグラン家の屋敷まで一時間ほどの道のりはあっという間で、そろそろ屋敷が見えてくる頃。
そういえば、とヴィクトアは問いかけた。
「ルカスお兄様。お父様とわたくしにお願い事とは、一体なんでしょう?」
「ん?…ああ。そうだった。父上には許可をもらっている」
すっかり忘れていたような顔をしたルカスは、座席の横に置いた鞄から装具を取り出す。
ヴィクトアも見慣れたもので、香りの強い香料を使って調香する際に、香りの影響を受けないよう鼻や口を保護する物だ。
特殊な布とガラスで出来ていて、重みがあるし、長時間つけていると苦しくなるので、ヴィクトアが使う頻度は限りなく低い。
「……えっと、お、兄様?」
首を傾げたヴィクトア。
微笑みを向けたルカスは、手早く装具を装着すると「実の妹に欲情してたまるか」とヴィクトアに手を伸ばす。
そして。
がしっと捕まえたヴィクトアを思いっきり。
擽りはじめた。
「っ!?ん〜〜っ!や、めっ!」
がっしり抱き込まれ、逃げられず。
「んふっ!ふ…っ!ふふふ!あは、あははっ!」
ルカスの大きな手でわしわしと擽られるヴィクトア。
じわじわと目尻に涙が溜まり始める。
「おに、さ…まっ!ふふっ!あはっ!……は、ふっ!」
逃げ出そうと身を捩っても繰り返される擽りに、息も絶え絶え、とうとう涙がぽたりと溢れた。
ルカスはそれを、すかさずガラスの小瓶に受け止める。
きゅっと蓋を閉めて、満足そうに頷いた。
「はあ、も…っ!おにいさ、ま……っひど、いっ」
はあはあと苦しそうに荒い息を吐きつつヴィクトアは抗議の声を上げる。呼吸を整えようと激しく動く胸に手を当て、落ち着かせるように撫でた。
「ははっ!父上からの許可はもらっているからな。キャリエナが二人目を欲しがってるんだ。だから、まあ、許せ!」
ヴィクトアはなんとか息を整え「まったく…」と言いながら座席に座り直す。
「……ちゃんと言ってくだされば、ご用意致しますのに」
「久しぶりに、お前と戯れるのも楽しいものだ」
「装具を外してから言ってくださいませっ!」
装具越しのくぐもった声に、思いっきり抗議の視線を向けたヴィクトアは、今度は怒りを滲ませて「まったくっ!」と言うと、深呼吸をしてゆっくり頭を下げる。
「……出産のときは、お手伝いさせてくださいませ。お兄様」
ヴィクトアの態度に目を瞬いたルカスは「気が早い」と照れたように笑った。
馬車の中をよく換気するよう御者に言い含め、父の執務室に向かうルカスと別れたヴィクトアは、着替えるために自室へと向かう。
(少し急がなくては…っ)
ルカスと話し足りない気持ちはあれど、クラッドの魔香水の調香をしなければならない。今日中に届けることになってるため、ヴィクトアは急くように早足になった。
自室にて、手早く着替えたヴィクトアは、ローブを羽織りながら大きな本棚の前に立つ。
鍵を開け、背表紙を確認しながら、クラッドの魔術調香録を探す。
魔術調香録は、依頼主毎の調香内容と診療内容を記録したもの。
ヴィクトアが調香魔術師として仕事をするようになったのが、10歳。クラッドの担当になったのが12歳。
それからずっと、クラッドの調香をこなすのはヴィクトアだった。
ヴィクトアは、特殊な体質のため、物心ついてすぐに自分の体の研究をするしかなかった。
そうしなければ、外に出ることが出来なかったからだ。
幼い子供にとって部屋に閉じ込められ、限られた人としか関われないのは寂しく辛いものだ。
わけも分からぬまま、外に出たい一心で研究に没頭した。
ーーパルファグラン家の秘術の子供。
ヴィクトアの体は、全てが香料となる素材だった。
一族の血を色濃く継いだヴィクトアが才能を開花させるのは早かった。
信じられない早さで調香魔術の基礎を覚えたヴィクトアは、自らの髪、爪、肌、血液に、唾液、汗、涙など、思いつく限り全ての香りを記憶し、構成成分を解明し、効能効果を把握した。
幼いヴィクトアが一生懸命、研究する姿を見守る両親は、ヴィクトアの持つ効能効果に頭を抱えた。
……どう伝えたものか。
幼いヴィクトアに意味がわかるとは思えない。二人は悩んだが、それを伝えないわけにはいかなかった。
部屋に閉じ込める理由だったからだ。
ヴィクトアの体臭、汗、涙は媚薬としての効能効果を持っていた。
特に涙には非常に高い催淫効果が含まれ、さらに三つの香りの相性が良かったために、相乗効果を発揮してしまう。
決心した両親は媚薬について詳細に書かれた本を持ってヴィクトアの部屋を訪れた。
本を開いて説明を重ねる母、少し離れたところでそれを見ている父。
分からなかった意味を、少しずつ理解していくヴィクトアの顔には熱が上がってくる。頬を真っ赤に染める頃には、じわじわ涙が浮かび、恥ずかしさに体が熱くなり、汗を掻いた。
ヴィクトアが大声で泣き出してすぐに、父は焦るように部屋から出て、母は、肌を染め、瞳を潤ませながら、装具を着けて大泣きするヴィクトアをあやした。
幼いヴィクトアは絶望に近い衝撃を受けたが、嘆いている暇はなかった。効能効果を抑えるための香料を探し、外に出るため、必死に研究を重ねた。
ヴィクトアが、自らの体に合わせた香料の組み合わせを見つける頃には、知識も技術も一流の調香魔術師と言えるものになっていた。
魔術調香録をぱらぱらと捲りながら、顎に指を添えたヴィクトアは少し難しい顔をした。
(診療記録が四ヶ月前から更新されていないわ……)
魔香水の調香は、依頼主の体調によって微妙に変化する。
前回は問題なくとも、それが今回も合うとは限らない。
(……特に季節の変わり目は、体調も崩れやすいし。ああ。早く学院を卒業してしまいたい)
王立貴族学院の学生であるうちは、調香魔術師として仕事をしていることを隠している。
クラッドを含め、国内の要人の多数を担当しているからだ。公表してしまえば、ヴィクトアを利用しようとする人間が何処で接触を謀るかわからない。
隠すことはヴィクトアの身を守ることど同義だった。
そのため、ヴィクトアはいつも診療をする際、同じ調香魔術師のミュラに代役をお願いしていたが。
(この間の診察の日、ミュラは休暇を取っていたのだったわ)
仕方なく、四ヶ月前の診療記録で調香することにしたヴィクトア。近々、ミュラに診療に行ってもらうよう予定を考えながら、自室の扉を開けた。