第21話 クラッド
開いた応接室の扉。
その先で、俯いて腰掛けている人は、深い藍色のローブで顔を隠していた。
ゆっくり立ち上がったその人は、胸元のブローチをシャラシャラと揺らしながら、自分の前に歩いてくる。
音を立てるブローチは一眼で調香魔術師の証だとわかった。
自分よりもいくらか低い位置にある頭から、天鵞絨のフードが滑り落ちる。
見えたのは、涼しげな水色の髪。
焦がれた、あの色の髪。
跪いた彼女から、柔らかくも凛とした声が聞こえてくる。
微かに震える声が止み、彼女は緩やかに顔を上げる。
クラッドは、嬉しさのあまり表情が崩れないように意識しながら微笑みを作って、そっと手を差し出した。
向かいに座る彼女を見ているだけで、クラッドは心臓がぎゅうと音を立てる気がする。
嬉しくて、苦しい。
学院にいるときとは違う髪型。纏められた水色の髪には藍色の宝石を使った髪飾りが揺れる。
瞳と同じ色のドレスにローブ。耳飾りも首飾りも全て同じ色で揃えられていて、流れて落ちる髪色がとても映える。
白い肌に、思慮深い藍色の瞳。
縁取る長い睫毛が、窓から入る陽射しでキラキラ輝いているように見えた。
謝った日から、昼食を一緒に食べられるようになった。
それだけでも胸がいっぱいで。
今日どんな話を聞くことになるのか。
ヴィクトアは全てを聞いたうえで婚約のことを考えて欲しいと言った。
クラッドは、ヴィクトアにどんな事情があっても構わないと思っている。
ヴィクトアの血液が持つ治癒効果。
パルファグラン公爵家では、そういう子供が生まれることがあると知っている。
調香魔術師のローブに証であるブローチ。
彼女が公の場で、身に付けているところを見たことはない。
幼いあの日に、あれだけの調香をした彼女がそうじゃないことがそもそもおかしいとさえ思っていた。
調香魔術師として仕事をこなしているのだ。
ならば……自分のことも担当してはもらえないだろうか。
今は一体、誰を担当しているのか。
知っている人だろうか。
クラッドは、じりっと焼け付くように痛んだ胸を落ち着けるように、ふっと息を吐く。
「今日は、来てくれてありがとう」
「いえ。お招きいただきありがとうございます、殿下」
首を傾げ、ぎこちなく微笑んだヴィクトア。
水色の髪がふわりと揺れる。
それにしても。
……ヴィクトアは綺麗だ。
すらりと高い背。ほっそりとした首筋。
抱き締めたとき、細くて折れてしまいそうだと思った。
今日はコルセットのせいか、ますます細い。
柔らかく膨らむ胸元に、緩やかな曲線を描く腰元。
肌は白く、いつも艶々と瑞々しい。
間近で見た唇は、ふっくらしていて柔らかそうだった。
触れたら、どんな感触がするのだろうか。
そして、あの甘い、砂糖菓子のような香り。
今日も部屋に入った瞬間から、ヴィクトアがいつもつけているスペアミントやペパーミントの魔香水とともにほんのりとあの甘い香りがしている。
なんていう香料なのだろうか。
ヴィクトアのそば以外では、嗅いだことのないものだ。
腕の中に閉じ込めて、いつまでも確かめたいような、そんな気持ちになるヴィクトアの甘い甘い香り。
幼い頃の記憶を呼び覚ます、香り。
クラッドは、ぼうっとヴィクトアを眺めながら、思考回路を遠いところへと飛ばしていた。
「……でんか。クラッド殿下、っクラッド殿下っ!」
何度目かの自分を呼ぶヴィクトアの声に、クラッドは、はっと意識を取り戻す。
「あ、えっと。すまない。……ぼうっとしてしまって」
「……いえ。大丈夫です。執務が忙しいと聞いています。……体調を崩されてはいませんか?」
「執務が忙しいのはいつもだから、大丈夫だよ。先日届けてもらった魔香水が良かったのか、睡眠不足にもなってない。ミュラ嬢に礼を伝えて欲しい」
ヴィクトアに魔香水を届けてもらったのが嬉しかったクラッドは、眠る前に芳香浴をしていた。
爽やかながら少し甘さのある香りは、睡眠導入にもぴったりなようだった。
「ヴィクトア嬢は、調香魔術師の資格を有しているんだね。ローブもブローチもとても良く似合ってる」
「……はい。わたくしの秘密のひとつになります。10歳の時に調香魔術師の資格を取得いたしました」
ヴィクトアは躊躇うように伏し目がちだ。
10歳で調香魔術師になるなんて喜ばしいことのはずで、気まずそうな雰囲気を醸し出すヴィクトアに、クラッドは首を傾げる。
「私が政務に関わるようになったのは12歳のときだ。それより二年も早く仕事をしているヴィクトア嬢のことを素直にすごいと思うよ。それに……調香魔術師の資格を取るのは大変だと聞いてる。たくさん勉強したんだね」
「殿下……」
「私は、ヴィクトア嬢のことを尊敬する。でも、誰を担当してるのかは気になってしまうな。正直、妬けるよ」
クラッドは眉尻を下げて、少しだけ困ったように微笑む。照れ隠しに頬を掻く仕草はクラッドの癖だ。
クラッドの言葉に顔を上げたヴィクトアは、はっとした表情とともにすぐに俯く。
ぎゅっと手を握って黙るヴィクトアに、クラッドは何も言うことが出来ず、ほんの少しだけ静かな時間が流れた。
「あの……」
「ん?なんだい」
しんっとした沈黙を破ったのは、ヴィクトアの小さな声。
「で、殿下の調香は……その、12歳のときから……わ、たくしが、し、て…おりますの、で……」
途切れ途切れ話すヴィクトアの耳と首がじわっと赤く染まる。俯いているせいで顔は見えない。
ヴィクトアの言葉と、恥ずかしそうに見える彼女の仕草に、クラッドは思わず笑みを深める。
自分は、ずっとヴィクトアが調香していた魔香水を纏っていたのだ。
こんなに嬉しいことがあるだろうか。
「なら、さっきのお礼はヴィクトア嬢に。いつも、いい香りの魔香水をありがとう」
「……はい」
俯いたまま両手で顔を覆ったヴィクトアは、こくりと頷く。その耳は、依然赤い。
(ヴィクトア嬢は、こんなに可愛らしい人だったんだな)
照れるような仕草が、あまりにも可愛い。今、どんな表情をしているのだろうか。両手を解いて、その顔を思いっきり見たい。
ふっとクラッドの鼻に甘い香りが届く。ヴィクトアが赤くなってから、部屋に充満する甘い香りが少し濃くなったような気がした。
「で…殿下もご存知の通り、わたくしの血液には香料としての効能効果がございます」
「うん。治癒効果だよね。あのときは、助けてくれてありがとう。ヴィクトア嬢がいなかったら、私はきっと助からなかった」
あの日、目が覚めたらパルファグラン公爵家の人間は誰一人王宮には残っていなかった。
父は自分がいくら聞いても、前日のうちに帰ったとしらを切り、娘などいないとまで言い切った。
泣く自分を抱き締めてくれた甘い香りの少女。
自分を助けてくれた水色の髪の少女。
刺され、意識が朦朧としていても、彼女のことは視界に入っていたし、詠唱する声は確かに耳に残っていた。
忘れるはずがない。忘れられるはずがないのだ。
「血液以外にも、わたくしの身体には、様々な効能効果がございます」
ゆっくりと噛みしめるように言ったヴィクトアは、顔を上げて真剣な瞳でクラッドを見据える。
クラッドの好きな強い意志を湛えた真っ直ぐな瞳。
思慮深い藍色が、燃えるように輝く。
「パルファグラン公爵家に、そういう子供が生まれることは知っているよ。ヴィクトア嬢なんだね」
「はい。……わたくしの体質は少々厄介で、幼い頃は部屋から出してもらうことができませんでした」
「それは……」
部屋から出してもらえないとは、どういうことだろうか。
王国は一年のほとんどが温暖で過ごしやすい環境にある。特にパルファグラン公爵家は、調香魔術に必要なこともあり大きな植物園や農園を有する親族が多いと聞くし、外で過ごす機会も多いように思うのだが。
「わたくしが部屋から出られるようになったのは、自らの体臭に合わせた魔香水を調香できるようになってからです。殿下もご存知のペパーミントやスペアミントを調香したものです」
「ああ、うん。ヴィクトア嬢はいつもすっきりした香りの魔香水をつけているよね。このあいだの少し甘めの香りも素敵だったけれど」
「それで、その……」
真っ直ぐこちらを見ていたヴィクトアの視線が少しずつ下がっていく。
そのまま再び俯いてしまった彼女は、両手で顔を覆ったかと思うと、ぶるぶると頭を振って、顔を上げた。
その様子を黙って見るクラッドは、ヴィクトアの瞳が不安に揺れていることに気付く。
「ヴィクトア嬢。私はずっと君のことが好きなんだ。どんなことでも受け入れるから……」
言いかけた言葉では、ヴィクトアを安心させるのには足りないかもしれない。そう思ったクラッドは、立ち上がって向かいに座るヴィクトアのそばに寄った。
黙ったまま目を見開いて、自分を見ているヴィクトアの隣に腰掛けたクラッドは、彼女の手を取る。
びくりと体を震わせたヴィクトアの手は、緊張のせいか冷えて、しっとりと湿っていた。
温めるように両手でその手をぎゅっと握ったクラッドは、ヴィクトアと目を合わせるように覗き込む。
「どうか、話してほしい」
瞬間、晒されたヴィクトアの視線は、握られた手に向けられ、ふっと息を吐く音とともに、再び視線が交わる。
「殿下は……その、あの……、び、媚薬についてどのようにお考えですか?」
ヴィクトアの柔らかそうな唇から紡がれた言葉に、クラッドは、ただ目を見開いた。




