第19話
ヴィクトアが、手当たり次第調香した堕胎効果のある魔香水を回収したミュラは、その一つを手に取って、ずいっとヴィクトアの顔の前に突きつける。
「こちらは、共同アトリエで管理して、必要なところに処方します。お嬢様の名前が出せない分、管理が面倒くさいので、お仕事以外の調香は!本当に!控えてください!」
「は、反省してます。ごめんなさい」
両手の人差し指をつんつんと合わせながら、謝ったヴィクトアにミュラは胡乱な目を向け「本当に、ほんっとーに!お願いしますね!」と念を押すように繰り返したあと、急に表情を変える。
「……あと、殿下はきちんと話を聞いてくださるはずですし、全てを受け入れます。だから、お嬢様。落ち着いてお話しするんですよ」
ヴィクトアの手を取り、ぎゅっと握ったミュラの声には真剣さが滲んでいる。
幼い頃からずっと良くしてくれているミュラ。自分にとって調香魔術師の師匠でもあり、仲間でもあり、姉のような存在だ。
心配してくれるその気持ちが嬉しくて、心が温かくなっていく。
気持ちを返すようにミュラの手を握り返したヴィクトアは、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう、ミュラ。殿下がお話を聞いてくれるのはわかっているから、落ち着いて話せると思うわ。……ふふ。人の体温や息遣いってあんなに安心するものなのね」
そう言って、へにゃりと表情を緩めたヴィクトア。
その顔を見たミュラは「ひぃえ!?」と素っ頓狂な悲鳴をあげて、握っていた手を振りほどくとヴィクトアの肩を掴んだ。
「ま、まま、まさか!?お嬢様こそ、これが必要なわけではありませんよね!?」
と、掴んだ肩をガクガクと揺さぶりながら叫ぶように言ったミュラにぐらぐらと視界の揺れるヴィクトアは、かっと顔を赤くする。
「な、ないない!ないないないない!」
上下に揺さぶられながら、首を左右に振って否定するヴィクトアの言葉に、ヴィクトアの肩から手を離したミュラは、ぐらりとよろめいて壁に寄りかかった。
「なんだ、もう。びっくりさせないでください。心臓が止まるかと思いました……」
「ご、ごめんなさい」
「まあ、殿下と仲が良いなら何よりです。でも、スキンシップもほどほどにしてくださいね。お嬢様の媚薬効果は高いんですから、殿下に我慢ばかりさせるのは可哀想です」
びしとミュラに指さされたヴィクトアは、再び顔を赤くして「スキンシップなんて、そんな…っ」と両手で顔を隠した。
その日の夜。
ベッドで課題の本を読んでいたヴィクトアは、窓から見える月が満月に近づいてることに気付く。
クラッドと会うと決まっているのが次の満月の日だ。
ベッドから降りたヴィクトアは、執務机に向かう。
執務机には、あの日からずっと黒いテディベアが飾られていた。
そっと手に取ると桃色の宝石で作られた目がキラキラと輝く。幼い頃、キャンディーのようだと思ったクラッドの瞳は、今も変わらず優しくて甘い。
何も知らずに受け取ったテディベアの意味。
あの日からと言った、クラッドの言葉。彼が望む、自分との婚約。
ヴィクトアは深呼吸するようにすぅっと空気を吸い込む。
魔香水で誤魔化していても、確かに媚薬効果を持つ甘い香りがする。
誰も気軽には入れない、自分の香りで満たされた部屋の中。
クラッドは、それを砂糖菓子みたいだと言った。
あの日あの時と同じように、砂糖菓子みたいな匂いがすると言ってくれた。そして、抱き締めてくれた。
自分がすべて香料になり得る人間だと知ったとき、自分の姿形がどろどろに溶けてしまうような気がした。
研究すればするほど、はっきりしていく香料としての効能効果に、魔香水のように香水瓶に入れないと、かたちを保てないような、そんな錯覚に囚われて、怖くて怖くて仕方がなかった。
クラッドに抱き締められて、彼の腕の中で。
自分はきちんと人間の形をしているんだと思った。
クラッドの体温、息遣い、心臓の音。
自分にも体温があって、呼吸していて、心臓が動いている。
あの日、ナイフを突き立てられたクラッドを見て、どんなことをしても助けたいと思った。父と母の言いつけなど、どうでもいいと思った。
ミュラの言うとおり、受け入れてくれるだろうか。
体臭が、汗が、涙が、媚薬効果を持つ自分を、彼は本当に受け入れてくれるだろうか。
『ヴィクトアのそばにいると、甘い匂いがして身体が熱くなる。なんだこれ、気持ち悪い』
耳に残る嫌悪感をあらわにした少年の声。
二人の冷たい瞳。忘れてしまいたい、思い出したくない記憶。
ヴィクトアは、ぎゅっと胸にテディベアを抱く。
じわりと目尻に浮かぶ涙に、甘い香りの濃度が上がる。
人の意識の混濁と体の弛緩を促す香り。
欲望を誘う、甘い甘い香り。
自分の体から立ち昇るものだ。
受け入れて欲しいと思うのは、我儘だろうか。
あの甘い瞳で、優しい声で、自分を受け入れて欲しい。
他の誰でもなく、クラッドに。
「クラッド殿下……」
ぽろりと溢れた呟きは、甘い香りとともに宵闇に溶けていった。