第18話
手当たり次第やっても、納得できる魔香水が調香できるはずもなく。
それでも、調香しないという選択肢のないヴィクトアに、アトリエに入ってきたミュラは救世主にしか、見えなかった。
「一体、何を、しでかしたんですかっ!」
エドワードとエリノアの魔術調香録を貸してくれと宣ったヴィクトアに、話を聞くから落ち着けと声をかけたミュラは、蹴り飛ばすようにヴィクトアをソファーに向かわせた。
「えっと……」
「エドワード様は、まあ、殿下の騎士ですし?わからなくもないですが、なんでそこに婚約者のエリノア様が出てくるんです?」
休憩用に使うソファーに腰掛けたヴィクトアは、手近にあった椅子を掴んで向かいに座ったミュラの様子を俯きながらチラッ、チラッとうかがう。
小柄なミュラはヴィクトア用の椅子に座ると両足が床につかない。普段なら可愛らしさにほんわか癒される姿も、腕を組んで座るミュラから怒りが見え隠れしていて、正直怖い。
こう詰め寄られると、自分の失態を口に出しにくくなるのは、何故だろうか。
意味もなく利き手の親指の付け根をもにもにと揉んだ。
「エドワード様もエリノア様もパルファグランのアトリエで承っているので、魔術調香録はあります。でも、担当はわたしじゃないので、きちんと理由がないとお貸しできません。……わかりますよね、ヴィクトアお嬢様?」
「……はい」
「はい。それでは、どうぞ」
そう言って右手を差し出したミュラに、べそっと表情を歪ませたヴィクトアは、もそもそ話し始めた。
「今日、殿下と、エドワード様とエリノア様と、昼食を食べたの。……それで、その、えっと…、い、いろいろっ!いろいろあったの。だから、わたくし、とても汗をかいてしまって……」
「はい、それで?」
ヴィクトアは、だんだんミュラの顔が見れなくなり、俯いてぼそぼそ話を続ける。
「それで、ね。は、はじめは、エリノア様が甘い匂いがするって仰ってたの。デザートが楽しみだって。で、でも、穏やかに食事は終えたのよ。お話も出来たし、し、失言もしてないと、思う。うん。大丈夫。……ただ、食後のお茶を飲んでいたときなのだけど……。エドワード様が妙に暑そうで、制服を緩めていたの。若干、汗ばんでいたと思うわ。それに……エリノア様のことをすごく熱っぽい目で見てらして。え、エリノア様も、ずっとエドワード様に熱い視線を向けていて、あれは…その、たぶん、きっと……わたくしの媚薬効果だと思うの。そ、それで……それでね。個室を出る際に、わたくし、エドワード様から殿下と一緒に教室に戻るように言われたの。エリノア様と話があるから、自分が戻るまで、殿下といて欲しいって。それで、わたくしと殿下が出たら、エドワード様とエリノア様は個室で二人っきりになって……も、もしっ、二人が、二人があ……ふぐぅっ」
ヴィクトアの握り締めた手の甲に、ぼたぼたっと涙が零れ落ち、泣き出したのがわかったミュラは、隠しもせず溜息を吐く。
ヴィクトアが泣き出したことで、部屋の濃度がさらに高まった。
「で。二人が、なんですか?」
「ふ、二人が、もしも、個室で……もし、妊娠なんてしちゃったら、に、妊娠なんてしちゃったら……っ!!うわああんっ!」
両手で口元を覆ったかと思えば、頭を振って、ぐしゃあとソファーに頽れたヴィクトア。
「……はあ、まったく。大丈夫です。婚約者同士なんですし、なんとでもなります」
ミュラの慰めの言葉にヴィクトアは「でも、でも…っ!」と言いながらソファーに蹲り、ぐすぐす泣き続ける。
「……それよりも、お嬢様。わたしはお聞きしたいのです。一体どんな魔香水を調香するおつもりですか?」
泣き崩れていたヴィクトアは、ミュラの声音から見え隠れしていた怒りが、はっきりとそれに変わったことに気付く。
「え…っと、ミュラ?」
「はい、お嬢様。さあ、お答えください」
恐る恐る顔を上げたヴィクトア。先程まで止まることなく流れていた涙がぴたりと止まる。
「え…っと、」
「もう一度お聞きしますね。エドワード様と、エリノア様が、妊娠の可能性があると思ったお嬢様は、一体どんな魔香水を、調香するおつもりなのですか?」
一言一句、丁寧に発音するミュラ。
耳に届く単語を、ゆっくり噛み砕いたヴィクトアは、ざあっと顔を蒼褪めさせる。
「あ、ああ。あの…、わたく、し、は、その……」
「意味が、理解できましたか?ヴィクトアお嬢様?」
深緑の髪をふわりと揺らして首を傾げたミュラは、にっこり微笑み、人差し指をぴしりとヴィクトアに向けた。そして、その指でゆっくりと床を指差す。
かたかた震え始めたヴィクトアは、すくっと立ちあがりソファーを降りると、床にぴしりと正座をして。
「わ、わたくしの失態は、汗をかいたことでも、媚薬効果を発揮して、お二人をそういう気分にさせてしまったことでもありません」
「はい、そうですね。では、ヴィクトアのお嬢様。貴女の失態はなんですか?」
「じ、17歳という少女に、堕胎効果のある魔香水を処方しようとしたことですっ!ご、ごめんなさいいいい!」
ガタッと椅子から飛び降りたミュラは、ヴィクトアを見下ろすように真正面に立ち。
「この大馬鹿者おおおっ!」
と、叫んだ。
救世主だったはずのミュラは鬼と化し、調香魔術師にとって当たり前の知識と正論でヴィクトアを叩き潰す。
動揺により、正しい判断ができなくなっていたヴィクトアは、自らの不甲斐なさを猛省した。
ミュラにでんっと積み上げられた課題。
ヴィクトアは、そそくさと自ら三冊の本を重ねる。
それをちらりと横目で見ていたミュラは、ふっと息を吐いた。
「お嬢様のそういうところ、尊敬してます」
流石に多すぎるかとミュラが弾いた三冊を、自ら選び取り追加できるのは向上心の表れだ。
「反省してるの」
ヴィクトアは困ったように眉尻を下げて、一冊の本を手に取る。
ぱら、ぱらと紙をめくる音だけが静か室内の空気を震わせる。
その様子をぼんやり眺めていたミュラが、ゆっくりと口を開いた。
「普段なら、間違えるはずのないことです。……殿下と何かあったのですか?」
「……わたくしは、殿下を守る調香魔術師になりたかったの」
「知っています。……口癖でしたからね」
「婚約なんて、考えたことなかったわ。……ねぇ、ミュラ」
ヴィクトアは持っていた本をぱたんと閉じるとぎゅっと胸に抱く。幼い頃から何度も読み返した本。
調香魔術師として必要な知識の詰まった本だ。
クラッドを守れるような調香魔術師に、そう誓った日から何冊も何冊も、本を読んだ。
「クラッド殿下は、わたくしの体質を受け入れてくださるかしら?」
ミュラは思う。
クラッドは、あの日からずっとヴィクトアを想っている。ヴィクトアがどんな体質であれ、受け入れないなんてことがあるはずがない。
ヴィクトアは、あの日からずっとクラッドを守りたいと努力を続けてきた。あのことがあって、自ら人と関わることを避けるようになってしまった。でも、きっと。
クラッドがその傷を癒すのだろう。
「殿下は受け入れます。10歳からお嬢様のことを想っているのですから」
ふっと息を吐いたヴィクトアは、ふわりと微笑むと「ありがとう、ミュラ」と呟いた。