第16話 ミュラ
パルファグラン公爵家の共同アトリエに出入りを許されるのは、限られた調香魔術師のみだ。
その中でも、現状最年少であるミュラ・オランジェッタは、魔術調香録を手に、思わず「うーん」と唸った。
先日、魔香水を届けるついでに診療してしまえと、ヴィクトアに嗾けたクラッドの診療記録が、あまりにも中途半端なのである。
調香魔術のための診療は、診療用眼鏡で、全身を隈無く観察するとともに、直近の体調を問診する。
魔香水は身体的な不良にも、精神的な不良にも効果を発揮するため、自覚症状の有り無しも大切な確認事項となる。
(視診も問診も中途半端。さすがに触診はしないだろうと思ってたけど……再診療しなきゃだめだな)
調香魔術に関しては、完璧主義者のヴィクトアとは思えない診療結果だ。が、予想していたといえば、予想はしていた。
たぶん、こうなるのではないか、と。
ミュラから見て。
ヴィクトアもクラッドも、正直、「いい加減にしてくれないか!」と言いたくなるほど、お互いのことが好きとしか思えない。
恋愛にまったく興味のないミュラだが、これが俗に言う両片想いというやつなのかと頭を抱えたくなるほどに。
特にヴィクトアのことは、幼い頃から見ているが、「クラッド殿下を守れるような調香魔術師になりたい」が口癖だった。
調香魔術師は生温い覚悟で、なれるものではない。
まず、何百とある香料の効能効果を覚えなくてはならない。さらに、香料ひとつひとつの魔法陣が異なる。
その魔法陣を描けなければ、調香できないのだから、すべて覚えるしかない。
それぞれの香料には、禁忌もある。
例えば出産時に使うクラリセージやジャスミンは、妊娠中は使うことができない。
体質故に、幼い頃から研究をしていたのは確かだが。
その掲げた目標のために、10歳の子供が寝る間も惜しんで勉強など、簡単に出来るものだろうか。
ミュラは、アトリエの窓から見えるヴィクトアのアトリエへ視線を向ける。
学院から戻ってすぐにアトリエに入ったヴィクトアは、調香をしているようだ。時々、調香時の光が漏れるのだから間違いない。
ヴィクトアは調香魔術は、いまや王国一だろう。自分はそう思っている。
一流として、仕事をこなす自分から見ても、ヴィクトアの調香魔術はすごい。
そういう使い方があるのかと、何度も何度も思った。
そして、一度の調香で使う香料の種類もすごい。
これに関しては、思わず本人に頭おかしいのかと問い掛けた。まあ、目を瞬いてきょとんとしていたが。
調香魔術を使う際、香料が増えれば増えるほど、魔法陣も複雑になる。ヴィクトアの魔法陣はいつも複雑怪奇だ。
さらに、香料が増えれば、必要な魔力量も増える。
難なく30種類以上の香料を調香するヴィクトアだが、自分なら1日1回が限界だ。他の調香はこなせない。
自分が15歳で調香魔術師になったとき、それは最年少記録だった。
そして、あの事件直後、18歳で調香魔術師の誉れである王族クラッドの担当になった。
ヴィクトアが調香魔術師になったのはそのすぐ後だ。彼女は10歳だった。
20歳のとき、クラッドの調香は自分からヴィクトアに変わり、それからずっとヴィクトアが担当している。
ヴィクトアは調香魔術の天才だ。そして、あの体質。
治癒効果を持つ血液、媚薬効果を持つ体臭に汗に涙。
髪も爪も唾液も香料になる。
調香魔術師になるために生まれた娘。
ヴィクトアは、もっともっと守られるべきだ。
彼女一人でどれだけの人間を救えるか。それがわからないはずはない。
(それにしても……)
作業机に頬杖をついて記憶を辿っていたミュラは、ふと思い出す。
クラッドの担当調香魔術師として、初めて診療をしたときのことだ。何度思い出しても腹立だしく、そして、微笑ましい。
その日、ミュラは普段面倒で身につけない、調香魔術師のローブに、資格の証しであるブローチをつけ、王宮へと馬車で向かっていた。
王族の調香魔術師は秘匿されるために、フードを目深に被り顔を隠して。
王族の担当となるのは、調香魔術師にとって誉れだ、が。
ミュラにとっては、ただの面倒ごとでしかなかった。
ローブは重くて動きにくいし、ブローチは飾りがジャラジャラついていて邪魔くさい。
フードを被らなきゃいけないせいで、鬱陶しいし視界は不明瞭だ。
只でさえ小柄なせいで、不便ごとが多いのに、なんでわざわざ、さらに不便な格好をしなくてはならないのか。
馬車で静かに腰掛けるミュラの内心は、苛立ちでいっぱいだった。
王宮についてからも苛立ちは募った。
ローブが邪魔で馬車から降りるのも一苦労。
守られるように屈強な騎士達に取り囲まれ、周りが何も見えない。
今にもローブを脱ぎ捨て騎士を蹴散らしてやりたい気持ちを抑えながら、なんとか応接室へ入った。
診療用に整えられた応接室は、ぐるっと衝立で囲まれた真ん中に、触診の際横たわってもらうためだけにしては、無駄に豪華なベッドがどんっと鎮座していた。
騎士達は、衝立の向こうに身を隠すように待機している。
複数の視線から逃れたミュラは、ふっと息を吐き、ベッドと向かい合うように置かれたソファに深く座った。
ぽつねんとソファに座り、数分だったころだろうか。
コンコンと聞こえたノックに返事をすると、黒髪の少年がメイドを伴って入ってきた。
(この子供がクラッド・ルカ・サイラスか)
ミュラは、目深に被ったフードの隙間から窺い見る。
10歳と聞いていたわりにずいぶん小柄な少年。ヴィクトアが年齢の割に大きいことを考えても同じ歳とは思えない。
王妃クローディアにそっくりな顔立ちは、少女に間違えられてもおかしくないほど、可愛らしい。体付きは華奢で、肌も白い。
外で遊ぶよりも、室内で本を読んでいる方が似合う大人しい雰囲気。
しかし、その表情はとても明るかった。
頬を赤く染め、期待に満ちていて、黒髪から覗く桃色の瞳は、キラキラと輝いていた。
ミュラは、すっと立ち上がるとクラッドに近付く。
フードを下ろし、跪いて最敬礼をした。
「クラッド殿下。ミュラ・オランジェッタと申します。調香を担当させて頂くこととなりましたので、ご挨拶とともに診療に参りました。何卒、お願い申し上げます」
殊更、丁寧に恭しく。
面倒だ面倒だと思いながら挨拶をしたミュラが、ゆっくりと顔を上げた先、目に入ったのは。
みるみる萎れ、「がっかり」以外の言葉が見つからない表情になったクラッドの姿だった。