第15話
どれくらい抱き締められているのだろうか。
ほんの数秒かもしれないし、もしかしたら、とても長い時間なのかもしれない。
体質のこともあり、家族ですら触れ合うことは少ない。
誰かの体温が、息遣いが、こんなに安心するのかと、ヴィクトアは、クラッドの腕の中で安堵感を噛み締めていた。
「……あ、の…、殿下」
「うわっ!ご、ごめんっ」
クラッドは焦ったように両手を上げ、ヴィクトアを解放する。その頬は赤い。
「いえ……えっと、嬉しいです」
この気持ちが好きというものなのかは、わからない。
でも、クラッドが自分を望んでくれたことが、嬉しい。胸が温かくなるほど、嬉しくて堪らない。
12歳から調香魔術師として、彼の魔香水を調香してきた。それが、自分にとって彼を守る方法だった。
これからは、彼の体調だけではなく、為人を知りたい。
彼がどんな人間で、何を考えていて、どんなものが好きで、どんなものが苦手なのか。
何が嬉しくて、何が悲しいのか。
そういうことを、知りたい。
そして、そう思うならば。
ヴィクトアは、(クラッドに話さなくてはならない)と強く思う。
知っているはずの血液のことだけでなく、体臭も汗も、涙も髪も爪も、唾液さえ、自分の全身は香料なのだと。
それをクラッドが受け入れてくれるか、わからない。
でも、きちんと伝えたい。
俯いていたヴィクトアは、ゆっくり顔を上げ、向かいに立つクラッドに真っ直ぐ視線を合わせた。
「殿下。わたくしは……」
「ヴィクトア嬢?」
ヴィクトアはクラッドの手を取り、顔の前まで持ち上げ両手でぎゅっと握り締める。目を瞬かせたクラッドから、視線を晒すように瞼を閉じ、クラッドの手に唇を寄せた。
「っヴィクトア嬢!?」
「殿下にお話しなくてはならないことがございます。お会いする日に全てお話致しますので、その話を聞いてから、婚約のことを考えていただけませんか?」
目を瞑り、一気に言い切ったヴィクトアは、勢いのままクラッドの手を抱き締める。
クラッドはヴィクトアにされるがまま、じわじわと顔を赤らめて。
「……あの、ヴィクトア嬢。言う、通りにするから……手を、お願い。離して……もう、限界、だから」
「あ、わ。ごめんなさいっ!」
はっと目を開けたヴィクトアはクラッドの手を離すと、後ろに一歩後ずさる。
クラッドは空いてる手で顔を隠すように覆い、ヴィクトアから隠れるように横を向いていた。
その耳に藍色に輝く宝石を見つけて。
(ああ。本当に、わたくしの瞳と同じ色の宝石を……)
じわりと再び温かくなる胸が。
ヴィクトアの心をぎゅうっと締め付ける。
嬉しくて嬉しくて堪らない。
きっと、この気持ちはとても大事なもので、大切に、大切にしたい。
後ずさったことで開いた距離を、無意識に詰めたヴィクトアは、そのままクラッドのピアスに触れる。
クラッドは、先程から繰り返されるヴィクトアの思わぬスキンシップに心臓が壊れる寸前で、声を出すことも出来ず、ただ身を強張らせた。
「このピアスは……」
「え?……あ、あ。すまない。君の瞳と同じ色のものを、勝手に付けていて……。私は、あの日の君の目が、すごく好きで、どうしてもこの色が欲しくて」
「いえ、嬉しいです。……ずっと、気付かなくてごめんなさい」
(あら?……この宝石、魔香石だわ)
普段からよく手にする魔香石。調香魔術に使う香料のひとつ。
それを加工したピアス。しかも、藍色はとても珍しい。
どんな香りがするのか、効能効果があるのか。
ヴィクトアの意識が、調香魔術師としてのそれに、この瞬間、切り替わる。
(もっと近づかないと香りが確かめられない)
ヴィクトアは、添えた右手で耳を掴み、クラッドの首に左腕を回す。ピアスに鼻を近づけるため、ぐっと背伸びをした。
クラッドは再び訪れたヴィクトアの急接近に、少しも落ち着かない心臓を抑えるようにぎゅっと胸元の制服を握る。
自分の耳元に顔を寄せるヴィクトアの息遣いが、ふっと肌を擽り、全身が粟立った。
(もう、無理、だ)
そう思った途端。ぐらりと体が傾ぐ。
「あっ」
「きゃっ」
クラッドの腕が大きな音を立て近くの椅子を倒しながら、仰向けに倒れる。追いかけるかのように、クラッドのその上へヴィクトアが倒れ込んだ。
「うっ……っ。……ヴィクトア嬢、大丈夫?」
「……は、い。だいじょ……」
ヴィクトアが起き上がろうと、クラッドの胸に手をついたその時、大きな音とともに扉が開く。
「すげえ音したけど、お前ら何して……っ!?」
「まあっ!」
二人の姿を見た、エドワードとエリノアは驚きを隠せない。
仰向けになって倒れたクラッドの上、覆い被さるヴィクトア。見方によっては、クラッドに襲いかかっているようで。
「……ヴィクトア様、意外ですわ。大胆、ですのね」
頬に手を当て、首を傾げたエリノアは、少しだけ感心したような声音を滲ませる。
しかし、二人の話が終わるまでと、昼食を我慢していたエドワードは噴火するように怒りを露わにした。
「〜〜っ!!クラッド、ヴィクトア嬢っ!イチャイチャすんなら、飯食ってからにしろよ!俺、腹減ってるって言っただろ!」
ガツガツ歩いて二人に近づいたエドワードは、がしっとヴィクトアの腕を掴むと「ほらっ!立て」と引き上げて立ち上がらせる。
「まったく!俺がどれだけ待ってたと思ってるんだ!」と言いながら、クラッドのことも立ち上がらせた。
「話、終わっただろ?飯食うぞ!もう運んでもらうからな!」
ヴィクトアとクラッドの背中を叩いて椅子に座るように促すと、食堂の従者に食事を運ぶように申し付けるため、部屋を出て行った。
呆然としたまま椅子に座ったヴィクトアは。
この部屋に入ってからの出来事を、反芻して。
(わ、わたくし、なんだか、とても、大胆な……っ!)
カッと顔に熱が上がり、ぶわっと汗が噴き出す。
(あ、汗があ!汗があああ!)と抑え込めない汗に焦るヴィクトア。
隣に座るエリノアのすんっと匂いを嗅ぐ音。
「ねぇ、ヴィクトア様。とても甘い香りがしますわ。ふふ。今日のデザートが楽しみですね」
微笑んだエリノアの可愛いこと。
しかし、ヴィクトアはそれどころではない。
(ひいええ!それは、わたくしの体臭です、エリノア様ああ!)
「あ、えっ、と、はい、そう、ですねっ」
ヴィクトアは吃りながら、なんとか返事をする。
そんなヴィクトアとエリノアの様子を眺めるクラッド。
彼の未だ落ち着かぬ心臓は、濃度を増した甘い香りに、痛いほど鼓動を高鳴らせていた。
食べ始めてすぐに機嫌を直したエドワード。
和やかに済んだ食事の後、お茶を飲みながらクラッドにこそっと囁く。
「お前、ヴィクトア嬢に押し倒されるとか、さすがに情けないんじゃないか?」
ガチャンとティーカップを落としかけたクラッドは、エドワードを呆然と見た後、両手で顔を覆い、はあと盛大な溜息を吐いた。