第13話 クラッド
早朝、王都に聳える王宮の一室。
この国の王子であるクラッド・ルカ・サイラスは、自室のベッドで、ぼうっと天井を眺めていた。
諦めてゆっくり起き上がると、カーテンの隙間から部屋に入り込む光に顔を顰める。
「はあ……」
一晩ほとんど眠れずに過ごしたクラッドは、昇る朝陽の気配に小さく息を吐いた。
昨晩の夕食時。
父ライアッドはすこぶる上機嫌だった。
食事をしながら、鼻歌を歌うほどに。
その様子を6歳になったばかりの妹レティツィアは、わくわくと目を輝かせて眺めていて。
そしてライアッドは、アピールするように自分をチラチラと見ていた。
クラッドは、レティツィアの期待を感じながら、ライアッドに問いかける。
「何かいい事があったのですか?」と。
「聞いてくれるか!クラッド!」
大きく両腕を広げたライアッドの姿に、若干の不安を覚えたクラッドは、それを表情には出さず、意識して穏やかな笑みを浮かべる。
「はい。父上がとても嬉しそうなので、気になります」
「お父様!わたくしも気になります!」
クラッドとレティツィアの言葉に、満足そうに頷いたライアッド。「実はな……」と始まった言葉にクラッドは卒倒しそうになった。
「アヴァンのとこのヴィクトア嬢とクラッドの婚約の打診が通ったのだ!次の休みにゆっくり話す機会を設けたぞ!」
頭の中を疑問符が埋め尽くしていく。
アヴァンのとこのヴィクトア嬢とは、ヴィクトア・パルファグラン公爵令嬢のことで。
婚約の打診とは、一体いつ、そんな話が?しかも、通った?次の休みに会う時間を設けた、と?
ライアッドの言葉を反芻するように確かめても、クラッドの混乱は増すばかりだ。
「父上、仰っている意味が……?」
「……なんだ、クラッド。喜んでくれないのか?」
上機嫌だったライアッドは、広げていた両腕をだらんと下ろし、みるみるしょんぼりとした雰囲気を醸し始める。
「あ、いえ。そういうわけでは……」
「クラッドは喜んでくれると思ったのだが」
がっくりと肩を落とし、すどーんと暗い顔で俯いてしまったライアッドに、なんと声を掛ければいいのか。
正直、知らぬ間に進んでいる婚約のことで激しく動揺していて、ライアッドを気遣う余裕がない。
寧ろ、勝手に話を進めたライアッドを、何故気遣わなくてはならないのか。
混乱と若干苛立つ思考回路をなんとか落ち着かせようと息を吐いたクラッドは、響き渡る悲鳴に思わず頭を抱えそうになった。
「いやー!やー!やー!!」
レティツィアが大粒の涙をぼろぼろ零しながら、号泣し始めたのだ。
「お、おにい、さま、は、レティとっ!レティと、結婚する、のっ、よおおおっ!」
口癖である。レティツィア・ルカ・サイラスの。
いつもは可愛い妹の口癖も、こうなると厄介だ。
わんわん泣き喚く妹。
肩を落として、がっかりと項垂れる父。
我関せず、微笑みを浮かべたまま夕食を食べ続ける母。
きれいさっぱり失せた食欲に、夕食を諦めたクラッドは、レティツィアを宥めるために立ち上がった。
(なかなかレティが泣き止まなくて大変だった……)
思い出しただけで頭痛に苛まれたクラッドは、ふるりと頭を振ってベッドから降りると、執務机に向かった。
執務机には香水瓶が2つ並べられている。
先日ヴィクトアに届けてもらった物と、中身の入っていない古びた香水瓶。
古びた方を手に取ったクラッドは、机に寄りかかると蓋を開けて匂いを確かめる。
もう、なんの香りも残っていない。
それは、あの日ヴィクトアが調香した魔香水の瓶だった。
命の危険に晒された自分を救ったヴィクトア。
涼しげな水色の髪と思慮深い藍色の瞳が美しいその人は、甘い砂糖菓子みたいな香りを纏っていた。
泣いた自分を慰めた彼女の声は優しく、朗々と詠唱する声は痛みに意識が朦朧としていても、はっきりと耳に届き、自分を励ましてくれるような気さえした。
あの日、頼りないところばかり見られた自分が、恥ずかしく不甲斐なかった。
自分と同じ歳の彼女が、人を救える力を持つことにとても憧れた。
彼女のようになりたいと思った。
そんな気持ちはいつの間にか、恋心へと変わり。
彼女を守れるような人間になりたいと思うようになった。
古びた香水瓶を撫でながら、ヴィクトアのことを思い出す。
幼い頃に会った彼女は、利発的で溌剌とした雰囲気があった。だが、貴族学院で再会したヴィクトアはいつもひとりで。
声を掛けても必要最低限しか話さず、敢えて人と関わらないようにしているようで。
先日、魔香水を届けてくれたヴィクトアは、以前の雰囲気があった。
突然の診療に戸惑いはしたけれど、真っ直ぐに向けられた強い意志の輝く瞳があまりにも綺麗で、美しくて。
そして、それは自分が恋い焦がれたあの日のヴィクトアのもので。
(私はあの瞳を何度でも見たい……。少しずつ仲良くなれればと思いながら一年。婚約の打診なんて……ヴィクトア嬢が望んでくれなければ、なんの意味もないのに)
とにかく、今日はヴィクトアに謝らなくてはならない。
知らぬ間に行われた婚約の打診。
王族からの打診など断れるはずもない。
ヴィクトアに婚約を強制したいわけではないクラッドは、それを伝えなくてはならない。
(自分の気持ちがほんの僅かでも届けばと渡したせいで、急に話が進んでしまうとは……)
手に持っていた香水瓶を額に当て、目を閉じたクラッドは、ゆっくりと深呼吸をすると、学院に向かうための身支度をはじめた。