第12話
その日、治癒魔香石がぎりぎりの数しかないことを知っていたのは、アヴァンとグレース、そして、国王陛下ライアッドだった。
脇目もふらず調香魔術を使うヴィクトアを見ていたのは、クラッドの窮地を伝えにきた使用人一人。
他の使用人達はアヴァンの働きにより、ヴィクトアの行動をほとんど把握していない。
ライアッドを説得できれば、ヴィクトアの体質を秘匿できる状態にあったし、旧知の仲であるアヴァンとライアッドは厳しい表情で、秘匿する方向へと話を進めていった。
大人達の話が、ヴィクトアのことからクラッドのことへとうつる。
犯人探しが始まる前に、ヴィクトアは「殿下が心配だから」と話を辞し、クラッドの部屋へと向かった。
巧妙に隠されていた呪いの術具や香りをすべて取り除き、浄化作用の高いシダーウッドとジュニパーベリーを焚き染めた部屋。
その真ん中に置かれたベッドで、クラッドは穏やかな寝息を立てていた。
ヴィクトアはクラッドに近づくと、そろそろと手を伸ばしその髪に触れる。
硬そうに見えて柔らかい黒髪。
掻き上げるように撫でると、閉じられた瞼が目に入った。
甘いキャンディーのような瞳は見えない。
自分と同じ歳だと聞いたクラッドは、ヴィクトアよりも小さく、抱き上げた体は軽かった。
華奢な体に突き立てられたナイフは恐ろしいほどの存在感で、クラッドから血液を奪っていた。
命まで、奪っていこうとした。
ヴィクトアは、王宮は怖いと思い、王族は大変なんだなと思った。
治癒の血液を持つ自分。
いつかこの男の子を守れる人間になりたい。
守れる調香魔術師になりたいと、そう、強く強く思った。
じわりと浮かんでくる涙をぐっと堪えたヴィクトアは、誓う。
「クラッド殿下を守れる調香魔術師になるわ」
(あのとき、そう誓ったはずなのに……。わたくしは、なんて弱い人間なんだろう……)
はっと目を覚ましたヴィクトアは、ゆっくりと起き上がる。
「目が覚めましたか?もう!突然気を失われたので大騒ぎだったのですよ!」
ヴィクトアの気配に振り返ったマーサは、焦茶色のポニーテールを揺らして微笑む。
「マーサ……懐かしい夢をみたわ」
「懐かしい夢でございますか?」
「そう。クラッド殿下の……マーサがこの屋敷にくるきっかけになったときのこと」
マーサはあの日の使用人だった。
クラッドの窮地を知らせ、ヴィクトアに助けを求め、そして、唯一ヴィクトアが何をしたか知っている使用人だ。
あの後、第一発見者のマーサは疑いを掛けられ、取り調べのために幽閉された。
誰よりも早くクラッドの異変に気付き、調香魔術師の元へ走った使用人が、何故疑われるのか。
ヴィクトアは強い憤りを感じたことを覚えている。
あまりの腹立だしさに、複数残された呪いの魔術具と使われた香から犯人を探し出し、マーサの疑いを見事に晴らした。
(マーサから、呪いの香りは一切しなかったわ)
疑いの晴れたマーサは、即座に王宮の仕事を辞め、ヴィクトアに仕えたいとパルファグラン公爵家を訪ねてきた。
拷問のような取り調べに屈せず、無実を貫いたマーサをアヴァンは二つ返事で受け入れた。
当時17歳だったマーサも、もう23歳。
マーサに幸せになって欲しいヴィクトアは、アヴァンとグレースと相談して、何度も結婚を勧めているが「私の主人は死ぬまでヴィクトアお嬢様です」と言って、全く取り合わない。
「10歳のお嬢様が、あんなに複雑な魔法陣をスラスラ描く姿は、本当に美しかったです!何度思い出しても感動してしまいます!」
「ふふ。そんなに褒めても何も出ないわよ」
「マーサは、お嬢様に仕えることができて幸せです!」
「大袈裟よ」
目を輝かせて自分のことを話すマーサに、気恥ずかしさを覚える。
自分のことを大好きだと公言し、尊敬してくれる。
信頼できる使用人であるマーサ。ヴィクトアもマーサのことが大好きだ。
本当に、彼女のことを助けられてよかったと思っている。
「このまま、クラッド殿下との婚約の話が進んでしまうのかしら……」
「あら。よろしいじゃないですか!お嬢様は、殿下がお好きでしょう?」
「好きというか……」
「殿下をお守りしたくて、あんなにも勉強なさったのでしょう?」
クラッドを守れる調香魔術師になると誓ったあの日から、ヴィクトアは勉強に明け暮れた。調香魔術師として偏っていた知識をすべて埋め、半年後に資格を取った。
その二年後には、念願だったクラッドの香水を調香する権利を得て、それは今も変わらずヴィクトアが担当している。
「……でも、わたくしなんか」
「もう!また!わたくしなんか、なんて!」
かっと眦を釣り上げたマーサは「まったく!全部あの双子の所為です!」と叫んだ。
「ロジェにレヴィ!あのクソ双子、今度パルファグラン家の敷地に入ったら箒で叩き出してやりますから!」
「マ、マーサ。遠縁だから、ね。落ち着いて?」
「落ち着いていられますか!!あんのクソ餓鬼どもおお!」
整えるために手に持っていたクッションを、拳で思いっきり殴り上げたマーサは、ぶるぶると頭を振ると無理やりに笑顔を作った。
「……お嬢様、湯浴みの準備が整っておりますので。さあ、いってらっしゃいませ」
「……は、はい!いってきます」
ヴィクトアは、口元が引き攣るのを感じながら、そそくさと部屋を出たのだった。
(ロジェ、レヴィ……懐かしい名前だわ)
ぱしゃんと音を立ててお湯を体に掛ける。
鎮静効果の高いクラリセージとラベンダーをメインに調香した魔香水に、今夜は不安を和らげるためのローマンカモミールを混ぜた。
それを入浴剤として使った湯船からは、柔らかく温かみのある香りがふんわりと立ち上る。
(確かに殿下のことを守りたいと思ったけれど、それは好きってことなのかしら……?それに……)
無邪気な双子、ロジェとレヴィの訝しそうな表情を思い出す。
(殿下も16歳。砂糖菓子と言ってくださった香りも、もう……)
ヴィクトアを傷付けた言葉を、クラッドが使うとは思えない。それでも、ヴィクトアの体臭は、媚薬だ。
(きっと……気持ち悪いと、仰るわ……)
思わずお湯の中に顔を沈めたヴィクトアは、ぷくぷくと息を吐きながら苦しくなるまで潜り続けた。