第11話
知らせを聞いたヴィクトアは勢いよく起き上がると、転がり落ちるようにベッドから降り、アヴァンが眠っている隣の部屋に駆け込んだ。
アヴァンの寝起きが悪いことを知っているヴィクトアは、彼の上に飛び乗って、その胸ぐらを掴む。
「お父様!殿下が刺されました!治癒魔香石をありったけ持ってきてください!」
「ぐえっ!」とアヴァンが呻くのも構わず、手を離したヴィクトアは、荷物の中から調香魔術道具が纏められた鞄を掴んだ。
「殿下の部屋へ案内してくださいっ!」
アヴァンに助けを求めたであろうはずの使用人は、てきぱき動くヴィクトアの剣幕に、勢いのまま「はいっ!」と答えて走り出す。
その後ろを寝間着のままのヴィクトアは、裸足で追い掛けた。
案内された部屋。
大きなベッドには、クラッドが腹にナイフを突き立てたまま脂汗を浮かべて呻いていた。
クラッドに駆け寄ったヴィクトアは、腹の傷に触れて状態をみながら、すんっと確かめるように匂いを嗅ぐ。
(……呪いの匂いがする)
ナイフが動かないようクラッドの体にシーツを巻き付けたヴィクトアは、床に敷かれた絨毯を引き剥がし、鞄をひっくり返した。
ばらばらと零れ落ちる中身をみながら香料と魔法陣を頭の中で組み立てていく。
手に取った調香魔術用の筆記具をぎゅっと構える。
目を閉じたヴィクトアは、ゆっくりと深呼吸をした。
大きな円を描く。
その中に、迷いなく魔法陣を描き込むヴィクトア。
複雑なそれを淀みなく、美しく描き上げる少女を呆然と見ていた使用人は、突然飛んできた檄に、はっと意識を取り戻す。
「すぐに沐浴の準備をしてください!あと、ローズマリー、ジュニパーベリー、シダーウッドにサイプレス、どれでも構いません!焚いてください!」
魔法陣から顔を上げず、叫んだヴィクトアの声に、使用人はすぐさま部屋を出て行く。
入れ替わるように、アヴァンが駆け込んできた。
「ヴィクトアっ!状況の説明を……っ」
「お父様、治癒魔香石は幾つありますか!?」
「七つだ!」
言葉を遮るように問い掛けたヴィクトアに、反射的に答えたアヴァン。
(それじゃ、足りない……っ!)
床にばら撒いた調香魔術道具の中からナイフを手に取ったヴィクトアは、自らの親指に傷を付けた。
「い……っ」
「ヴィクトア、それは…っ!」
「いいんです、お父様!」
すうっと大きく息を吸ったヴィクトアは、ゆっくりと詠唱を始める。
「豊かな、大地に、木々の、恵み」
親指から垂れる血液を、細かく描き込んだ魔法陣にぽたりぽたりと零し。
「花々の恵みを、もたらす、精霊よ」
朗々と詠唱しながら、掴んだ治癒魔香石を魔法陣に置き。
「暖かな、陽の、光、柔らかな、夜の、静けさ」
フランキンセンスは、止血と瘢痕形成。
ラベンダーは、鎮痛と再生。
イモーテルは細胞再生で、パルマローザは免疫賦活。
ゼラニウムは、止血と鎮痛、抗炎症。
ティーツリーは、癒傷と抗感染。
精油の効能効果を思い浮かべながら、数滴ずつ垂らし。
「人々の営みを、守る香りを、我が手に……っ」
持ち直した調香魔術筆記具で、大きな円を擦り。
「与え給えっ!」
そう唱えながら、両手を魔法陣に向けて突き出した。
ぶわりと強い風が、魔法陣を中心に巻き起こる。
ヴィクトアの髪と寝間着がばさばさと音を立ててはためく。
中心に浮き上がった香料が強烈な光を放ち。
液体へと形を変えたそれは、香水瓶に変じた魔法陣に、とろりと零れ落ちていく。
突き出した両手に、するりと落ちた香水瓶をぎゅっと掴んだヴィクトアは。
立ち上がって、アヴァンを見上げた。
「も、沐浴の準備が整いました」
駆け込んできた使用人の声に、アヴァンはクラッドを抱き上げて走り出す。
ヴィクトアは調香した魔香水を握り締め、その後ろを走った。
浴室は、指示通りにローズマリーとジュニパーベリーが焚かれていた。
スッと爽やかな香りが漂う。
浴槽のすぐそばにクラッドを横たえたアヴァンは、駆け寄ったヴィクトアの目を見て、ゆっくりと頷いた。
ヴィクトアはぎゅうと握り締めていた香水瓶の蓋を開けると、浴槽に半分ほど零す。
湯で温められた魔香水が、とろりとした甘さと涼しげな爽やかさを合わせたような香りをふわりと立ち昇らせる。
「ヴィクトア」
「……はい。お父様、大丈夫です」
こくんと頷いたヴィクトアに合わせて、アヴァンはクラッドの腹から一気にナイフを引き抜く。
「っあああああ!!」
耳を劈くようなクラッドの悲鳴を振り切り、ヴィクトアは残りの魔香水をクラッドの腹にぶちまけた。
じゅわっと音を立て、クラッドの腹に魔香水が染み込んでいく。
自分の血と治癒魔香石の効果で、じわじわと塞がっていく傷を、ヴィクトアは涙を零しながら凝視した。
ぼたりぼたりと溢れる涙は、浄化のために焚き染めたジュニパーベリーの香りをも飲み込み、浴室中を甘い香りで充満させる。
ふるふると頭を振ったヴィクトアは、涙を拭い、自分より小さなクラッドの体を抱き上げた。
じゃぶじゃぶ音を立て、湯を蹴飛ばすように進む。
クラッドの頭を自分の肩に乗せ、顔が水に触れないよう腕を使って支えながら、浴槽の中に横たえる。
横目でクラッドの表情を伺えば、苦悶を浮かべていたその顔はゆるゆるとほぐれ、頬に赤みが差していく。
荒い息も少しずつ穏やかな呼吸へと落ち着いていった。
ほっと息を吐いたヴィクトア。
その耳には、今まで届かなかった多数の音が、騒めきが、聞こえ始める。その奥にグレースの啜り泣く声を聞きとめ、ヴィクトアはぐっと唇を噛み締めた。
絶対に秘匿しなくてはならなかった事実。
ヴィクトアの体質、の。
ヴィクトアの血液の、効能効果。
貴重で高価な治癒魔香石を凌ぐ治癒能力。
ヴィクトアの血液は、治癒の効能効果を持っていた。