第10話
「お、お父様!?も、もも、もう一度、仰ってくださいませっ!」
ルカスが帰ってから数日後の夕食時。
アヴァンから話を聞いたヴィクトアは、ぶるぶる震えながら顔を青褪めさせた。
アヴァンは、なんとも言えない表情を浮かべ、諭すように繰り返す。
「殿下と会う機会を設けたから、ゆっくりと話をしてきなさい。お前が信用に足る相手だと思えるなら婚約のことも進めよう」
「だっ!えっ!なんっ!?……なぜ!?何故ですか、お父様!」
動揺を隠せず、ぶんぶんフォークとナイフを振り回すヴィクトアに、言葉を重ねるのはグレースだ。
「ねえ、ヴィクトア。わたくし達は、貴女が信頼できる相手が増えればいいと思っているの。殿下は、ずっと貴女を想ってくださっているようだし、話してみるだけ、話してみたら?」
「お、おおお、おか、おか……っ!お母様!」
グレースは困ったように微笑むだけで、ヴィクトアの深い藍色の瞳が涙で潤み始めても譲る気配はない。
ヴィクトア自身、解ってはいた。
いつまでも、このままではいられないことを、解っている、つもりだった。
ルカスが婿に行ったこの家を継ぐのは、アダムだ。ヴィクトアが体質を理由にいつまでも嫁に行かず、家に居座るわけにはいかない。
でも、いざそういう話が現実に出てくれば戸惑う。
向き合わなくてはならないのだ。優しい温かい場所に逃げ込んでぬくぬくと過ごすわけにはいかない。
出来るだけ信頼できる相手のところへ嫁ぐべきだ。
だが……っ!
(なんで!よりによって!クラッド殿下!わたくしに王妃なんて務まらないわ!絶対に、無理!)
「姉上、よく考えてください。王族からの婚約の打診なんて、断れるものではないですよ。それを、とりあえず会ってみるだけと言ってくださる陛下に感謝こそすれ……」
一度言葉を切ったアダムは、すっと息を吸うときっぱりと言った。
「手紙書いちゃったの、姉上ですしね!」
痛いところを突かれたヴィクトアは目を見開き固まる他ない。
家族の顔をぐるりと見回し、はくはくと口を開け閉めした後、ふっと意識を途切れさせた。
ヴィクトアは貴族学院に入学する前に一度だけ、クラッドと会ったことがある。
あれは、六年前。
レティツィア姫の出産時のことだった。
王妃は難産だと診断されていた。
故に多数の人手が揃えられ、王宮内はざわざわと騒がしくも緊張感に包まれていた。
寝室には、限られた人のみが集められた。
助産師三人に調香魔術師のアヴァン、助手としてのグレース。そして、念の為にヴィクトア。
皆、固唾を飲んで王妃を見守っていた。
少しでも母体の負担を減らすため、分娩促進作用のあるジャスミンとクラリセージを焚き染めた部屋の中。
助産師と王妃の呻くような声を聞きながら、ただ待機するだけのヴィクトアは、ぼんやりと向かいの部屋にいた男の子のことを考えていた。
ばたばた人が行き交う廊下を挟み、ちょうど向かいに位置する部屋。
扉を開け放ち、椅子にぽつんと座る男の子。
弟のアダムと同じ年くらいだろうか。
うす暗い部屋の中で毛布に包まって、不安そうに桃色の瞳を揺らす彼は、人々の願いを神に届けると言われるフランキンセンスの香木を焚いていた。
膝を抱え黙ったまま、王妃の寝室を見ていた男の子は、思わず扉を閉めるのを躊躇うほどに、寂しそうで、消えてしまいそうで。
(産まれたら真っ先に教えてあげなきゃ)
ヴィクトアは抱えた膝に顔を埋め、ぎゅっと掌をにぎった。
実際、王妃の出産は時間が掛かっていた。
寝室の扉を閉じてからどれくらいの時間が経っているのか。
すでに深夜に及んでいることだけはわかった。
それでも少しずつ進み、終わりも見えてきていて。
ふっとヴィクトアが息を吐いた瞬間、赤ん坊の元気な泣き声が、部屋中に響き渡った。
アヴァンとグレース、助産師が喜色の声を上げる。
扉のすぐ側にしゃがんでいたヴィクトアは(伝えてあげなきゃ)と立ち上がった。
焦りで縺れる足で、扉から飛び出したヴィクトアは滅多に出さない大きな声で叫ぶ。
「産まれましたっ!」
いつの間にか、彼の隣には国王陛下が寄り添っていた。
ヴィクトアの声に、立ち上がった国王陛下は、部屋に飛び込んでくると、ベッドに横たわる王妃に駆け寄る。
男の子は、その場でぐしゃりと頽れてしまった。
慌てて男の子に駆け寄ったヴィクトアは、男の子が泣いていることに気づいて思わず腕を伸ばした。
「……よかっ、た……、ははう、え……っ」
ぎゅっと抱き締めた体は、自分よりも小さくて温かい。
震える男の子が、零す声は安堵に溢れていた。
「大丈夫。もう、大丈夫」
ヴィクトアは、男の子の背をぽんぽんと撫でながら「大丈夫」と繰り返す。男の子は、ヴィクトアにしがみ付いて泣きながら、こくりと頷いては嗚咽を漏らした。
しばらくして、抱き締めていた男の子が身動ぎてヴィクトアの腕から離れると、少し恥ずかしそうに顔を上げた。
夢中で抱き締めていたヴィクトアは、男の子の顔を間近で見て王子殿下だと気付く。
ひゅっと息を詰めたヴィクトアに、泣いたせいで目尻を真っ赤に染めたクラッドは、頬を掻きながら、照れたようにはにかむ。
「ありがとう。……君は、なんだか砂糖菓子みたいに甘い香りがするね」
そう言って微笑んだクラッドの、桃色の瞳は柔らかく煌めいていて。
(貴方の目の方がずっと甘い、キャンディーみたい……)
ヴィクトアは、吸い込まれるようにその瞳を、呆然と見つめた。
助産師が赤ん坊を王妃クローディアに抱かせ、王妃を挟むように国王ライアッドと王子クラッドが寄り添う様を見て。
ヴィクトアは(ああ。とても素敵だな)と、そう思った。
そして、自分が必要にならず済んで、本当によかったと思った。
その日は、そのまま王宮に泊まることになった。
疲労による衰弱がみられた王妃にグレースが付き添い、アヴァンとヴィクトアは隣り合う部屋に通される。
いつもより大きなベッドに横たわったヴィクトアは、クラッドの笑顔と言葉に落ち着かない気持ちになり、うまく眠ることができなかった。
ごろごろと寝返りを打っては、思い出す。
媚薬と言われる体臭を、砂糖菓子なんて言ってもらったのは、はじめてで。
嬉しいような恥ずかしいような、心が温かくなるような気がした。
彼の笑顔の方が、ずっとずっと砂糖菓子みたいだと思った。
ヴィクトアがやっと、うとうとと微睡みだした頃。
甲高い悲鳴と、廊下を掛ける音が王宮内に響き渡る。
乱暴に開け放たれた扉。
青褪めた顔で、駆け込んできた使用人は。
「クラッド殿下が刺されましたっ!調香魔術師様、どうかお助けください!」
そう叫んだ。