【-6-】
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「前に私に高校時代に友達を作っておくと良いって言ったのは経験則?」
「まぁ経験則と言えば経験則だけど、ただ俺はその繋がりがないと生きていけないかもしれないから保険をかけているだけだな」
「保険? なんの?」
「人生って縦の繋がりと横の繋がりがあるんだよ」
勉強の合間に教えることでもないのだが、話を一段落させなければこの子は納得して勉強をしてくれないと思ったので、自論を語る。
「縦は家族とか親戚とか兄弟とか、横は友人や知人、上司や同僚だな。場合によってはバーのマスターだったり、居酒屋の店主だったりする。縦の繋がりは横の繋がりよりも強固だから、できるだけ多くの人と知り合いになっておきたい」
「それがなんで保険になるの?」
「縦の繋がりが乱れたときに横の繋がりに支えてもらいたいから。要は母さんや父さんが死んだとき――まだまだ死ぬとは思えないくらい現役だけどな、いずれ人は死ぬから……」
この子の母親は亡くなっていたんだったと思い出し、彼女の顔色を窺ったが、さほどの表情の変化が見られない。きっと我慢している。そして同時に俺のことを軽蔑しただろう。
「まぁ……そうだね。突然、死んだりする。昨日は元気だったのに、とか。そんな感じで」
それでも話を続ける。もしかしたら彼女の方が精神年齢は俺より大人かもしれない。
「親より先に死にたくねぇし、大体は親が先に死ぬ。そのとき、縦の繋がりがバランスを崩す。体調は崩すだろうしメンタルもきっと崩壊する。それを立て直す方法の一つが横の繋がりに助けを求めることなんだよ」
「慰めてもらうってこと?」
「ああ。苦しみを吐露して、辛いことを語り、今後どうしたら良いんだろうっていう答えの見えない愚痴を零して、どういうつもりでもなんでも良いから慰めてもらう。不安を取り除くように大丈夫だと言ってほしいし、頼ってくれと言ってほしいし、愚痴にはなにも言わず静かに聞いていてほしい。泣くことがあったって、馬鹿にせず、傍にいてくれる。それだけで、崩れた縦の繋がりはいずれ不安定ながらもそれなりの形で着地する。で、横の繋がりが崩れたときには」
「縦の繋がりに支えてもらうんでしょ? 横の繋がりを多く持っておきたいのは、縦の繋がりでメンタルが崩壊したときにひょっとしたら友人や知人じゃなくなる人が出てくるかもしれないから」
言いたいことを先に言われてしまった。
「苦しんでいる人に手を差し伸べてくれる人は意外と少ないからな。俺だって同僚の父親が危篤だって話を聞かされたときには、どう支えたらいいか分からなかった」
「その人、どうなったの?」
「しばらく魂が抜けたようになってしまって、別部署に異動になったよ。俺もなにか言えばよかったのかもしれないけど、経験していないことに対してなにを言えばいいのか分からなかった。他の同僚と似た言葉を並べはしたけど、あいつの心には俺の言葉は届いていなかったっぽいな」
弱っている相手が求めている言葉がなんなのか。弱っているからといって言葉を求められているのか。そういった雰囲気、空気感というのは肌感覚でしか読み取れないのに、ちゃんと完璧に読み取ることができない。
吹っ切れるようになるまで、支えてくれる相手が本当に信用に足る人物であり、心からの親友や恋人となるのだろう。『心が弱ったところに付け入るなんて』と考える人は頼られづらい。考え方としては分かるが、よっぽどの悪女や悪男でなければ見守るべきことなのだ。
「私の場合、それがおばあちゃんだったのかな」
「君がそう思うんならそうなんじゃないか?」
知らないけど。
「今、物凄くテキトーに言った?」
「言った。でも、俺は君のことをなんにもしらないんだから君の地雷を踏むことに一々怯えていられるか」
この子に良く思われたいとか悪く思われたくないとか、そういう気持ちが微塵もない。いや、微塵ぐらいにはあるか。あるにはあるが、良く思われて結局、どんな見返りがあるというのだろうか。別に好きになってもらいたいから良く思われたいのではなく、この子が柴浦と話す際にちょっとでも反抗的な態度をしないようにしてほしいだけなのだ。
「……まぁ、私の聞き方が悪かったのかも」
「いや、飛躍させて生き死にの話をしたのは俺だから君はちっとも悪くなくて、俺が勝手に地雷を踏んだだけ」
しかも自論が生き死にの話で母親を亡くした彼女にとってはあんまり良くない話題だった。分かっていて話を続けたのは俺なのだから、彼女に悪い点は一つもない。
「なんか、投げやりじゃない? いつもそうなの?」
故郷に帰ってきた二日目もこうして柴浦の家で、問題の女の子と接しているのだ。そりゃ投げやりにもなる。
「君の勉強を見ることも、君と話すことも俺にとっては楽しいことじゃないからな」
「現役高校生とお喋りすることが嫌なの? 場合によっては料金が取れるのに」
「教師だって無料で話せるだろ」
「たまに有料で話している連中もいるじゃない。教師に限らず塾講師もそうだけど」
それはパパ活及び援交のことだろう。教職に就いている人は結構、間違いを犯す。この世の中、聖職者ですら間違いを犯すのだから、どんな職種に就いていようと逮捕される奴は逮捕される。ただ、教職と聖職に就いている人がその手の間違いを犯したらセンセーショナルに報道されるだけだ。
そのせいで俺は教職の大半が危うい性癖をひた隠して仕事しているという先入観を持ってしまった。
「ってか、勉強のどこを見てもらいたいんだよ。見たところ、数学で転んでいるわけでも英語でくじけているわけでも、歴史のややこしい時系列に悩んでいるようには見えない」
中学を休んでまで居候に来た彼女だが、地頭の良さがあるのだろう。学んでいないところも俺が教えていないのにしっかりと解けている。解けていても、なんでそれが正解になるのかまでの理屈までは分かっていなさそうだが、そんなものは大学で学びたい奴だけ学べばいい。
「おじさんの時代にも宿題ってあった?」
「あるに決まっているだろ」
「宿題をやって提出することになんの意味があるんだろうって思わなかった? どうせみんな参考書の答えを見て解いているような感じでノートに書いて終わるのに」
「意味は……まぁ、あるんじゃないか?」
「本当に?」
一々、妙なところに突っかかってくる。さっさと勉強に集中してくれ。
「文字を書くことや数式を書くことで手癖を付ける。すると頭では思い出せなくても手がなんとなく公式を思い出して書いてくれることがある……だろうなと思っていた頃もあったな」
そんな魔法みたいなことが起こるのは本当に稀だ。手癖を付けたところで頭が理解していなかったら公式を当てはめる思考回路すら作られはしないのだ。
「でしょ? いらないんじゃないかなって思う」
「それは、やりたくないことの言い訳だろ。俺だって君と同じぐらいのときには宿題に意義が見出せずに、こんなんやったって覚えられないものは憶えられねぇよって教科書を壁に向かって投げ付けていたからな」
すぐに物を投げる癖があった。今はかなり自制心が働くようになったので、帰宅後に靴下を脱いで丸めて洗濯かごに放り込むぐらいで発散している。どうせその丸めた靴下も、あと洗濯物も洗うことになるんだけどな。
それでたまに靴下があらぬ方向に跳ねて、洗濯機の裏に入って取れなくなって諦めたことが何度かある。なのにまだやめられない。
「だから、やりたくないって思ってやっていても身に付かないでしょってこと」
「……まぁその通りなんだけど、締め切りを守る感覚を養わないと日本の企業に就職する場合は物凄く苦労するだろ」
「社会の歯車になるように訓練されるってこと?」
「その言い方を俺もしばらく使っていて、大学に入学した頃には社会の歯車にはなりたくないって言っていたこともあった」
なのに今、俺は社会の歯車と化している。
「社会の歯車って言うほど悪い意味じゃないと俺は思うけどな。社会にはめ込まれることを許された歯車と、社会にはめ込まれなかった歯車じゃどっちが良いんだって話」
「でも社会にはめ込まれなかった歯車の方が将来、お金持ちになりそう」
「でもお金持ちになるためには結局、そいつも社会を動かさなきゃならないわけで、お金持ちの連中が社会にはめ込まれなかった歯車になったつもりでも、結局は社会を動かす歯車としての仕事を全うしているよな」
物事を斜めに見る奴には物事を斜めに説明した方が割と納得しやすい。これは屁理屈に理屈が通じないなら同じ屁理屈で責めるのと同義だ。
「歯車はいくらでも替えが利くじゃん」
「かけ替えのない歯車になりゃいいんだよ。自分が外れても代わりはいくらでもいるって思っていたら病む。『お前がいなくなっても代わりはいるんだぞ』って上司がパワハラしてくるけど、このクソ上司も替えが利くんだよなって思った方が気楽だ」
そこの切り替えができないせいで、いつまでも同じ会社にしがみ付いてボロボロになる。この仕事を投げ出したら、あとの人が困るとか、次の人との引き継ぎが、とか。そんなの考えていたらいつまで経っても辞められない。俺は逆になんでも中途半端に投げ出せるおかげで、大学卒業後に就職した会社はさっさと辞めて、次の会社に再就職して今に至っている。
その瞬間だけだけどな。自分の中途半端さに感謝したのは。
「……なんか釈然としない」
「そうじゃなきゃ困る。自論ってのはぶつけ合ったって答えなんて出ないから、釈然としないものなんだ。俺だって君の言葉を十割、自分の論理で言い返せたなんて思っちゃいない」
彼女の言っていることに納得しそうになる部分もある。だけどそこに納得すると、大人として頼りない。だから精一杯の理論武装をして、どうにか相打ちにした。
正直、親戚にいる甥っ子や姪っ子相手にこんな自論は展開しない。彼女は俺と今後一切、関わり合うことがないだろうと思っているからちょっと強めに、自分でも言っていて破綻していそうな理論をぶつけている。要は赤の他人にならいくらでもイキれるってだけ。
「でも、おじさんみたいなこと言う人はいなかったな」
「いなくて良かった。いたらそいつは間違いなく迷惑おじさんだからな」
「頭良さそうに言っている割に全然、頭良さそうじゃない辺りが迷惑おじさんっぽい」
「だろ。だからもう、この話題は終わりにしよう」
言い合っていたってなんにも生み出せない。俺たちは学者でもないし企業提携を結んでいる重役同士でもない。この議論において、得るものはなんにもない。徒労感しか得られない。
「でも、おじさんみたいな考え方をした方が良いときもあるんだろうなって思ったよ。そこだけでも得るものはあったかなって。もしものときに別の選択肢を取れるようになった」
「そりゃ良かった。で? 勉強のどこで詰まっているんだ?」
「え、別に詰まるところはないけど」
今日一、大声を出してしまいそうになった。
「…………なんで俺に勉強を見てもらいたいって言った?」
「おじさんと二人切りで話したいと思ったから」
その誘い文句は誤解を生みそうだ。だが、彼女が俺に興味を抱いたところで結局のところそれは『興味』の域を出ない。むしろその域を出られたら困る。
「自分より年上の人と話す機会ってあんまりないからさ」
「年配の先生とかいるだろ」
「いるにはいるけど、あんまりプライベートは話さないでしょ。っていうか、なんか視線がキモいし」
ウザがられてキモがられる。全ての先生がそれに該当するわけではないが、基本的に敬いの心はない。だって自己主張の強い授業を押し付けてくるし、こっちの気持ちなんて汲んでくれない宿題の出し方するし、答え合わせのとき視線を逸らしたらムカついたから指名してくるとか平気でやるし。だからって優しい先生が溢れ返ったら今度はナメられる。正直、どうしようもない仕事だと思っている。
だから人に物を教えるのは好きでも、教師になろうとは思わなかった。
「あ、そうだ。お姉さんから聞いたんだけど、おじさんってあともう少しで結婚ってところまで行っていたのに破談になったってホント?」
一瞬、柴浦に殺意が湧いた。湧いただけで本当に殺したいわけじゃない。が、頭の中で殺してやろうかっていう気持ちが湧いたのは事実である。
それ以上に、そんな家族の恥ずかしい話を母親が柴浦に話していることにも驚いた。やっぱり俺は恵まれた環境に産まれてはいなかったのではないか。そんな風に思えてくる。
「柴浦からどこまで聞いた?」
「え……あ、御免なさい…………怒らないで」
俺が相当に怒りを持たせた語気だったのだろう。彼女はハッキリと怯えを見せていた。
「……興味本位でも、聞かない方が良いこともあるからな」
「は……い」
「……ざっくり言うと、金銭面での問題が発覚したから別れた。俺が悪かったのか彼女が悪かったのかまでは分からない。そこは主観的な感情が入るから、言わない」
結婚するだろう、結婚しよう。そんな風に決意までしていたのに、こじれにこじれて別れた。それぐらいお金の問題は物事を滅茶苦茶にする。
「君も将来、結婚するときはお金の方面はちゃんと話し合った方がいい。でないと俺みたいになるから。まぁ今の時代、結婚しなくてもいいし、同性のパートナーと人生を共に生きてもいいだろうけど」
「それぐらい、決定的だったの?」
「致命的だった」
それ以上、俺は彼女にこのことを話さないために、すぐさま別の話題を出した。




