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人生で好きになった相手に「嫌い」と言われた人は世界でどれぐらいいるだろうか。「ごめんなさい」ならともかく、明確に「嫌い」と言われた人の数だ。そこまで限定してしまえば少数派にもなるだろうが、とにかく俺は言われたことがある。
思えばあのときから、俺の生き方はブレてしまったんだと、勝手に思っている。かと言って、その相手に復讐してやりたいだとか恨みを持っているとかそういうのではない。
ただ、そのことが俺の生き方はなにをしても上手く行かなくなってしまったような印象がある。いや、別にその瞬間からってわけではないのだが、それを思い出すたびに連鎖的に中途半端にしてしまったことを思い出してしまうのだ。
たとえば、小学生の頃に習い始めたピアノ教室。鍵盤を叩くことがあんなにも嫌いになるとは思わなかった。結局、五年通ったクセに、なんにも身に付かなかった。それどころか中学生になることを理由にして、身勝手にもあとのことは両親任せで習いに行くのを辞めてしまった。
これの理由は凄く単純で、俺の努力が足りなかったから。
たとえば、中学生の頃に始めた吹奏楽。いや別に楽器が好きとかそういうのではなく、雰囲気でやってみたいと思って部活に入ったのだが、二年生になったところで戦力外通告を言い渡されて、それ以後は部活に顔を出さなくなった。
この理由も単純で、俺が努力しなかったから。
たとえば、高校のバドミントン部。入部した当初から先輩と後輩の空気があまり良くなく、真面目に取り組んでいる様子ではなかったので高校二年になる前に幽霊部員となった。せっかく揃えたラケットやシューズも部室に置きっ放しにして、なにもかも嫌になって放り出した。
これもまた、俺が怠けたから。
なんのことはない。いつも最初に思い出すのは「嫌い」と言われたところからだが、そこから遡るように――とはいえ、決して時系列順ではないのだが、中途半端に投げ出した記憶が溢れ返る。
そんなだから大学入試も頑張らなかった。いや、周りからは結構、頑張ったと言われたのだが俺自身、もう少し努力したらもう少し上を狙えたんだろうなというところでやめた。
努力が下手というのは致命的だ。努力の仕方が分からないのではなく、努力するクセに怠ける方が上手いせいで、なんでもかんでも投げ出してしまう。
中途半端が服を着て歩いている。俺はまさにそんな感じだ。
大学に入学してからも、やることなすことなんでもかんでも中途半端。これくらいで良いだろうと勝手に思って、勝手に投げやりになる。アルバイトをやっても一年は続かない。そしてバイトで稼いだお金で自動車学校に通っても、やっぱり免許取得まで続かない。高いお金を払っておいて、それを全部、駄目にする。無駄にする。
そういう生き方しか俺はできないのだろう。だって、ここまで来ると履歴書に特技として書けてしまう。真面目に、本気でそう思っている。
もしかしたら、俺のことを「嫌い」と言った子はその本質を見抜いていたのかもしれない。でなければそんな、告白でもないのに面と向かって「嫌い」とは言われないだろ。しかも、俺としては好きだった相手だ。
故郷には中途半端にしてしまった様々なトラウマがある。だから俺は故郷から逃げ出すようにして就職活動を行い、どうにかこうにか内定をもらった。
ただ、俺のことだ。今のところ五年間は真面目に働き続けることができているが、いつ放り出すか分かったものじゃない。唐突に、なんにも考えていないときに、フラッと、俺の駄目な部分は顔を覗かせてくる。だが、故郷じゃないだけまだマシだ。トラウマがないこの都会で暮らすことにはなんの不満もない。都会と言ったって、東京ではなく地方の中で都会ってだけだが。
しかし、人生はやっぱり思い通りにはいかない。いや、ちょっと前までは思い通りに行っていた。一週間前、母さんからトークアプリでの連絡さえなければ。
別に『チチキトク、スグカエレ』という電報めいたものが来たわけではない。俺の両親はまだまだ現役で、父は会社で働いているし、母さんは地域活動に精を出している。つまり、俺の家族になにかしらがあったわけではない。
あったのは、「嫌い」と言ってきた子の方。トークアプリだけで全てを理解したわけではないが、どうにもその子の父が轢き逃げに遭ったらしい。
命に別状はないが、三ヶ月の入院を要するのだとか。それでなんで俺が故郷に戻らなきゃならないのかって話だが、彼女の母が父の入院先の病院へ行き、手続きやら治療方針、あとは諸々の金銭面での話、そしてなにより最重要なお見舞いをしなければならない。
そうなると彼女を残して家を空けてしまう。いや、それでも俺が故郷に戻る理由にはなんねぇだろって話なのだが、更に説明するのは長くなってしまうので一部省略してしまうが、俺のことを「嫌い」と言ってきた子の家は、現在絶賛、炎上中なのだ。事象として燃えているのではなく、人間関係が燃えているらしい。一体どういうことなのかさっぱりなのだが、その辺りを母さんが説明することはなく、とにかく人手が欲しいということで俺に白羽の矢が立ったのだとか。そりゃ余所様に頼むよりは息子に頼む方が気楽だろう、五年間帰ってないけど。
要するに人間関係で燃えている状態で家を空けたくはないってことだ。この時点で俺はピンと来たね。彼女の家には同居人がいるってことが。恐らくだがその同居人が火種になっているに違いない。同居人と彼女を二人切りにさせるとなにが起こるか分かったものじゃない。そこに俺みたいな不燃物を放り込んで、ちょっとでも延焼を防ごうということだ。
母さんに言ってやったよ。「そんなものは他に頼る相手がいるだろう」と。だが、俺の思いも虚しく、この相談を受けていたのは母さんだけらしく、事情を知っている相手に委ねたいのだそうだ。
しかし、母さんは地域活動という名のボランティアに日々を謀殺されている。合間合間に自分自身の趣味であるマクラメや麻雀、卓球などを入れていたりもするのだが、それでも忙しいことには変わりない。だったら息子に頼もうということになったらしい。
マジで母さんは分かってない。俺だって忙しいんだぞ。なんで、それで息子に頼もうってなるんだよ。そんな都合の良い息子じゃないことぐらい、この五年で分かっているだろう。だって俺はこの五年間、故郷には一度も帰っていないのだから。
それでも、親には恩がある。こんなどうしようもない息子をここまで育ててくれた恩は、そんな簡単に返せるものではない。だからこういうことを積み重ねることでしか、返す方法もない。
だが、俺は働いている。長く故郷にはいられない。長期休暇を取れるような時期でもない。そうなると、手伝える期間はどう頑張ったって有給休暇を加えた四日間しかない。それでも四日、現場を離れると上司の目が鋭くなる。この場合に鋭くなるというのは、俺への態度が悪くなるということだ。上司と良好な関係を築けている人には悪いが、俺はどこまでも中途半端野郎なので、微妙に良好ではない。大雑把に言えば良好な方に傾いてはいるが、油断大敵という言葉があるように、上司は常に俺の動向を見ている状態にある。なので、四日も故郷に帰るのはかなり抵抗があったし、なんなら上司に休んでいる間も一日に一回は連絡かメールを寄越すようにと言われている。「正式に通した休暇中に連絡を取れって、いやそれモラハラですよ」と言ってやりたかった。
無能な上司であったなら、言っていたと思う。こんなこと言うクセに意外と良い人で、部下には優しく、さり気なく仕事量が多すぎないかなどと聞いてくる。仕事が片付かずにピンチなら自身の残業もやむなしでそっちをまず片付けようとしてくれる。
こんな人格者がメンタルをやられるようなことがあったら、それは上司の更に上にいる上司のせいだろう。そっちは結構、無能感がある。本当に倒れたりしないか心配になる。
上司の悪口を考えていたはずが上司の心配をし始める。それぐらいには俺も、その上司をなんとなく信頼しているのだ。でもやっぱり俺に対し言っていたことはモラハラだけど。
故郷は嫌いだ。中途半端にしてきたあらゆることがトラウマになっている。放り出し、投げ出して、なのにチラチラと放り出したものがどうなったかが心配で心配で仕方がない。なのにどうなっているのかを知るのが恐ろしくてたまらない。「嫌い」と俺に言ってきた子の元へ行く気になりはしたが、実際には足を止めて引き返すかもしれない。すると、俺はまた中途半端に投げ出すことになるわけだ。どうやったって、俺は俺という枠組みから抜け出すことはできないのだ。
まぁ別に、その子のことを投げ出したとは思っていないのだが。どちらかと言うと、告白する前に諦めた、ってだけだ。そんな中学生の頃の恋愛観すらも中途半端と言われれば黙るしかないが、でも案外、そのぐらいの青春なんて大体が中途半端で終わるもんなんじゃないのか? 俺は「嫌い」と言われて勝算がないから諦めた。それだけのことだろ。
言い訳がましい時点で、俺はそれを中途半端と捉えているわけだが、考えれば考えるほどにドツボにはまってしまうので、もうなんにも考えない方がいいのかもしれない。
電車に揺られ、流れる景色をボーッと見つめる。
ああ、帰ってきたな。見知った景色がある。見慣れた街並みがある。
もう戻ってなんか来るもんか。そう思って街を出た。
この街には、俺を憂鬱にする物も人も、沢山ある。