父親
東京鷺宮。夜10時。あるアパートの一室。俺は秀子から渡された鍵を使い中に入った。
そこには若い夫婦と男の子が暮らしている。
リビングでは小音でテレビが点いていた。その前に置かれたソファーで父親が寝そべってビールを飲んでいる。
男の子と母親は近くの部屋で寝ているのだろう。
俺は足音を立てないように父親のソファーに近づく。
父親は全く俺に気づかない。どうやら父親は守護者では無いようだ。
父親が俺に気づいた時にはもう、俺は彼の額に右手を当てていた。
父親は気を失った。多分何が起こったのかさえ分からなかっただろう。
俺の右手は相手の動きを止める。掌から相手の体へ電流を流す。
相手の腕や脚を掴んでやると一瞬だがそれでほとんどの者は動けなくなる。(中には全然効かない者もいるが)
頭の近くでそれをやると、相手は気絶する。
俺が隣の部屋の襖を開けると、母親が、包丁を構えて立っていた。その足下に男の子。
あの時の。電車の中で出会ってしまった母親と男の子だ。
秀子達チームは俺の情報を基に西武線を使うこの親子をずっと探していた。そして、遂に見つけ出したのだこの二人を。
「うわぁぁぁぁぁん。うわぁぁぁぁぁん。ご.べ.ん.な.ざ.あいぃぃぃ。ごべんなざあぁいぃ…」
泣いているのは秀子だ。俺ではない。もう俺には泣く力も残ってなかった。
俺は60人の島の住民の亡骸を、せめて墓でも建ててやろうと、広場の一箇所に集め、ひたすら大きな穴を掘っていた。
俺はひたすら掘った。寝ないで休まず。その間雨も降った。でも、俺は動きを止めなかった。
ようやく穴を掘り終わった時には、もう身体が限界だった。俺はそこで倒れた。
「司!司!司!」
秀子と分社の処理班が俺の回収に来たのだ。
秀子はこの惨劇を見て、土下座しながら泣いて謝っていた。俺と死んでいった子供や大人達に。
その横で、分社の処理班は淡々と遺体を船に運ぶ作業をしていた。せっかく掘った墓穴もそいつらが埋めてしまった。
母親が包丁を脇に構えて突っ込んで来た。玉砕覚悟の突進だ。場所が狭い。避けられない。
俺は包丁を握る母親の手首掴んだが、激しい衝突は避けられなかった。そのまま二人は床に転がった。
その衝撃で俺は手を放してしまった。
母親は俺に跨り、包丁を振りかぶった。その時俺は彼女の足首を右手で掴み、電流を流した。
母親の身体が硬直した。その隙を突いて、俺の左手の手刀を彼女の心臓めがけて突き刺した。
「心臓を狙え。心臓が止まると人間は5〜6秒で意識を失う。そんなに苦しまなくて済むし、何よりも霊がそこに宿っている」
来間がそう教えてくれた。
「私の子を殺さないで…」
母親は俺に倒れ込んだ。
「守護者とは何者だ」俺が来間に訊いた。
「普通の人間だよ。ただDNAに奴らの種が入っている。普段は無自覚に生活しているが、潜在意識は常に芽の警護を怠らない」
俺は男の子の目線に合わせ、膝を落とした。
「痛くしないでね」男の子は言った。
「うん」
「芽は頭を潰せ。脳に芽はある。脳を潰せば魂も離れる。これは即死だから、一番苦しまない。痛みも感じない。守護者もこっちの方法で殺しても良い」
俺は左手で拳を固めた。
その日俺は女を抱こうと歌舞伎町の街を彷徨っていた。最初の仕事以来俺は秀子を抱いていない。
俺達は別れた訳ではないが、抱く気にはなれないでいる。
秀子は俺を慰めようとしてくれた。その気持ちは本当だろう。でもそれを俺は嘘っぽく感じてしまった。
俺は特命流罪人。秀子は俺の監視係。秀子はあっち側の人間なんだ。
俺の生活は荒れていた。酒と女に依存する日々を過ごしていた。
秀子は俺を監視しているだろうから、俺が他の女を抱いている事は知っているはずだ。
ドスン。背後から俺は刺された。油断していた。
毎日酒に溺れていた俺は、全く気を張っていなかったのだ。
「見つけたぞこの野郎」
刺した男の憎悪が刃先から伝わる。
あの男の子の父親だった。
後で聞いたのだが、父親はいつでも俺を見つけた時、仇が討てる様に常にナイフを携帯していたそうだ。
あの日、俺が現場から立ち去ろうとする時、父親は意識を取り戻した。そしてまだ体は痺れて声も出せない状態だったが、俺の顔を見ていた。
その教訓を経て、俺は仕事の時顔を変える習慣を身につけた。
ようやく身体に力が入るようになった父親は、よろめく足で隣の部屋へと向かった。
開け放たれた襖をから妻が倒れているのを目にする。
そして部屋の奥の我が子の惨劇の後を見た時父親は再び意識を失った。
父親が目を覚ましたのは、翌朝だった。ちゃんと布団で寝ていた。はっと体を起こし、辺りを見回した。
昨日の惨劇の痕跡が一切ない。
「夢だったのか」
しかしいつもなら、隣で寝ている妻と子がいない。部屋の隅に布団か畳まれている。
リビングにも二人の姿は無かった。しかし、テーブルの上に一枚の書き置きと書類を発見する。
"探さないで下さい。"
間違いなく妻の字で書かれた書き置きと、妻の欄が記入済みになっている離婚届けだった。
「そんな…そんなはずはない」
父親が何度警察に足を運ぼうと、警察は事件として取り上げようとしなかった。
それから父親は会社を辞め、鷺宮駅周辺で毎日ビラを配って、妻と子の情報を呼びかけた。
やがてビラ配りの範囲を拡大して行くようになり、今日は西武新宿駅周辺でビラ配りをしていた。
途中父親はおにぎりを買う為歌舞伎町のコンビニに入った。そこで、コンビニの外を歩く俺を見つけたのだ。