うんめいとゆめ
目覚めたヤミさんはケロリとしていて、強いお酒を何杯も煽ったことなど微塵も感じさせなかった。
窓から差し込む茜色の光を横顔に受けながら、ブヒブヒ相槌を返して他愛ない話をして過ごしていた、その時。玄関のドアがいきなり開いて誰かが駆け込んできた。
誰が来たんだろう?
そう思う私とは裏腹に、ヤミさんは何かを期待している目をしていた。
「行くぞ、雌豚」
「ブヒ」
「板についたな」
「ブヒ」
コタツの部屋から出ると、二階を囲む回廊の下にエントランスが見渡せた。そこには閻魔様が一人、夕日を背にして立っていた。
「閻魔様……」
思わずつぶやく私を冷たい瞳で見下ろしたヤミさんは、
「ついて来い」
そう言って中央の大階段を降りていった。
「よくここがわかったな」
階段の途中、ヤミさんは言った。エントランスに響く声は閻魔様がここに来るとわかっていたようだった。
「兄上を探しました。この別荘が最後です」
鋭い眼差しでヤミさんを見上げ、閻魔様は言う。
その後ろにいる私を、ちらりとも見やしない。
「ここは小屋だ。間違えるな」
「別荘です。間違えていない」
「ああいえばこういう……秀才気取りのいけ好かぬ弟よ」
「連れ去ったその娘、返してください」
そういわれて、心臓がドキンと跳ねた。私のために来てくれたと知ったから!
正義のヒーロー登場に、胸がこれでもかというくらい高鳴った。
「ふん」
鼻であしらうヤミさんは階段を降りきると。突然私を盾にするように抱いて、鈍く光る刃物を首に突きつけた。
「え、ちょっと、ヤミさん? 離してくださいよ、ブヒ」
「豚はもういい。飽きた」
「え……飽きるの早」
気が遠くなる私をよそに、ヤミさんは冷え切った声で閻魔様に言った。
「そんなに返して欲しいか」
「はい」
「なぜこの雌豚に目をかける。下民の薄ら汚い豚だ」
「ゆくりない娘です、導くのは俺の務め」
「ほぅ……ならば。この娘を煉獄へ落とす、と言ったらどうする」
その瞬間、首に冷たいものが当たって、食い込んだ。
「やめてください。娘に罪は無い」
「どうかな。この娘は閻魔、お前の運命の者だろう?」
「っ……、」
「答えられぬところを見ると、図星のようだな。この娘を助けたくば俺の言う事を聞け」
「…………兄上の望みとは」
「黄泉の国。閻魔大王は俺だ」
「……それは致しかねます、何より父上の意志に背くことになる」
「そうか。カタブツ閻魔の意志はよくわかった」
と言うと、ヤミさんはこちらを見下ろした。その瞳は今まで見たことがない冷たさだった。
「雌豚、閻魔はお前のことを無かったことにするそうだ。だからお前は煉獄へ堕ちて黄泉の塵となれ」
突きつけられていた刃が首にめり込む感触がした、その時。閻魔様は眼光鋭くヤミさんを睨み付け――
「返さないのなら、実力行使あるのみ」
そう言って、ぴかぴかに磨かれた床を蹴った。
「退け」
ヤミさんに冷たくあしらわれるならまだしも、突き飛ばされて後方で尻餅をついた私は。ヤミさんが涼しい顔で閻魔様の刃を受け止める、その瞬間を呆然と眺めていた。
ヤミさんが華麗な刀さばきを見せると、閻魔様の着物はいとも簡単に切れてしまう。閻魔様は刃を避けきれず、斬られた辺りからじわじわと血が滲んでくる。
「ふん、剣術は相変わらず女々しい太刀筋だ。それで挑むとは片腹痛い」
「娘を、返せっ」
主張するも、どんどん傷が増えていく。
見ているのもつらい、一方的な勝負だ。
なによ……
散々無視してたくせに、
拒否したくせに。
どうして今、それをしないの?
いつもみたいに私を無視して
去ればいいだけじゃない。
私のために閻魔様が傷つくことなんか、ないのに。
これじゃあヤミさんの思うつぼなのに。
この、わからずや!
けれど、この想いをヤミさんにも、閻魔様にも知られたら最後だ。
落ち着いて、私の心。
平常心、それから無表情……
冷たい目をするんだよ、ヤミさんみたいな冷酷無比の目を!
スッと顔を作り、傷つく閻魔様を眺める。そして間合いを取ったヤミさんにそっと近づく。
「ヤミ様ぁ~」
猫なで声で擦り寄って、ボディータッチをして。
「閻魔様なんて放っておけばいいじゃないですかぁ。ヤミ様のほうがよっぽど有能で剣術もお上手でイケメンだものぉ」
思っても無い事を並べ立てる。こうしてヤミさんに乗り換えたと思えば、興味が失せて閻魔様は大人しく帰るだろう。
「やめろ雌豚」
とヤミさんは言うが。しかしここでめげたら閻魔様は助からない、もうひと押しだ。
「閻魔様なんかギッタンギッタンのぼっこぼこにしちゃってくださいよぉ~ヤミ様なら赤子の手をひねるようなものでしょう?」
閻魔様が傷ついたってどうってことありませんよ的な空気をバンバン醸して、感情を押し殺して言葉を紡ぐ。
すると、ヤミ様はこちらをちらりと見て言った。
「俺の実力を知って、軟弱な閻魔への恋慕は失せたか。幼い顔をしてその冷酷さを持ち合わせるとは気にいった、煉獄に落とすには忍びない」
床に倒れこんだ閻魔様を蔑むような目で見下ろしたヤミさんは、構えていた刀を下ろした。
「煉獄に落ちたくなければ宣誓の口付けをしろ。俺への服従を誓えば魂が擦り切れるまで愛でてやる」
先細の美しい指に顎を持ち上げられて、冷たい瞳が間近に迫る。
よし、ヤミさんの気持ちがこちらに向いた。
閻魔様、今のうちに逃げて、ソッコー逃げるんだ、一目散にねっ!
私がヤミさんにファーストキスを捧げれば、更に時間稼ぎになって閻魔様の助かる可能性が格段に上がる。
でも……好きでもない人にあげていいのかな。
そりゃ興味はあるけど、興味本位で行動して後悔しないかな。
若さゆえの過ちだったって、大人になったら笑い飛ばせるかな?
そんな事を考えて、一瞬の躊躇いが生まれ。直前になって、ふい、と顔を逸らして回避してしまった。
「雌豚……!」
耳元でヤミさんの怒りに震える声がする。
やっちまった……!
「緊張しちゃって、ブヒ」
肩をすくめておどけてみた、その時。
「いくら兄上の戯言でも……承知できない」
閻魔様の声へ首を向ければ。満身創痍の閻魔様が怒りのオーラをまとってゆらりと立ち上がるところだった。
「そいつの口付けは、魂は。俺のものだっ」
言うや否や一瞬にして間合いを詰めると。ヤミさんの顎の下から手のひらを突き上げる。華麗に決まった掌底打ちにヤミさんは為す術もなく。顎を天井に向けたまま床へくず折れた。
「大丈夫か」
ずっと無表情で冷酷な閻魔様だったのに。今まで見た事がない心配そうな表情で覗き込まれてしまう。
助けて欲しいなんていってませんけど。そう言おうと思っていたのに、それを見たら言えなかった。
「……うん。閻魔様こそ、大丈夫?」
「俺の心配はいい」
「よくないよ、あたしは怪我がないもの」
そこかしこが切れて、血が滲んでいる。顔にも傷があって、痛々しい傷をそっとなぞるように指を動かした。
「酷いこと言ってごめん……」
「気にするな」
瞳が絡まって、なんだか甘い雰囲気に落ちていく。それがいても経ってもいられない心持ちにさせて、咄嗟に話題を変えた。
「手当てしないと、」
お屋敷のどこかに救急箱があるはずだ、探さなくては。一歩踏み出した刹那、閻魔様は言った。
「その前に、聞いてくれ」
肩を抱かれるでも無い。彼の言葉と視線に、この足はいとも簡単に縫い付けられてしまう。
小さく頷くと。彼は一気に言葉を吐き出した。
「現世へ戻れ」
それは本当に本当に、衝撃だった。
好きだとか、会いたかったとか、心配したとか。自分に都合のいい事を言ってもらえると勝手に想像していたから。
「へ」
頓狂な返事をしても、彼の瞳は真剣なまま。彼の言葉が本気なのだと知るには十分だった。
「来るにはまだ早い」
と言われましても。
死んだんだよ、死んでよかったって思ったんだよ……今頃現世に戻れなんて。
あなたに会えた奇跡を大事にしたいのに、やっと言葉を交わせたのに!
涙の膜で目の前が霞む。
離れたくないのに。黄泉の国でずっと、あなたと一緒にいたいよ。
「……ぃや、」
一言返すのが精一杯。もうちょっと想いを伝え合ったって罰は当たらないと思うし、夢に見る運命の相手なら、これからお近づきになって愛を育んだって……いいじゃないさ。
すると、閻魔様は優しく語り掛けてくれた。
「思い残したこと、たくさんあるんだろ?」
そう言われて走馬灯の様に思い出すのは、現世の夢。
『大好きなアイドルを追いかけたかったし、人並みに恋だってしたかったし、大学に進学して花の大学生活送ってみたかったし……社会に出たら巨大プラント工場の設備師したかったし、海外赴任とかも視野に入れて――』
何も叶えられなかったと、過去の夢に耽りそうになったその時。閻魔様の声で我に返った。
「忘れるな、お前の魂は俺のものだ。永遠に」
言葉の意味が頭の中を粉々に破壊した気がして。腕を掴まれて顔をあげた刹那、優しい感触が唇に重なる。同時に意識は急速に遠いていった。