好きな人ができたなら仕方ない、お別れしましょう
「フルエリーゼ、君との婚約を破棄させてほしいと考えている」
春風が吹き抜けるある朝のこと、顔を合わせるなりそう告げられた。
「いきなり何かしら」
「好きな人ができてしまった。婚約はなかったことにしてほしい」
私フルエリーゼと婚約者ハインツは、親同士が知り合いで、年齢が近かったということもあって少し前に婚約した。
最初のうちは良かった。
時々会って話すのは楽しかったし、家柄が似ていることもあって価値観も比較的近かったからわりと接しやすかったのだ。
けれども、いつからか、彼は心ここに在らずのような目をするようになった。
顔を合わせている時も喋っている時も、彼はいつも、遠いところにある何かに心を奪われているようで。目の前に私がいても、彼の心は私には向いていない様子で。
だから、最近、若干違和感を覚えてはいた。
ただ、詮索されるのは嫌かもしれないから、敢えて突っ込むことはしないようにしていたのだけれど。
「好きな人? どういう人なの?」
「学園の後輩なんだ」
正直その答えは意外だった。
なぜって、私たちはもう学園を卒業しているから。
在学中なら学園の後輩と言われてもそれほど驚かなかっただろう。生徒同士の恋愛、というのは、決して珍しいものではないから。ただ、卒業してからとなると、単なる生徒同士の恋愛ではない。
「卒業してから知り合ったの? 在学中?」
「在学中」
「そう……。で、その子のことが好きなのね」
「そうなんだ」
いや、在学中から知っていたのなら、なぜ今になって燃え上がり始めたのか。
ある日突然恋に変わる、というやつだろうか。
「婚約破棄してくれるか」
「本気で言ってる?」
「あぁ、本気だ。彼女のことは心から愛している。だからこそ、こうして頼んでいるんだ」
彼の表情は真剣そのものであった。
ハインツのことは昔から知っている。だからこそ分かる、彼はその女性を心から愛しているのだと。彼はわりと気が変わりやすいタイプだが、それでいて、熱心になっている時にはひたすら熱中するタイプ。熱中している時の彼は他人の話などまったく聞かないのだ。
そんな彼だから、今ここで私が何か言ってもきっと聞こうとしないだろう。
良くて無視、悪ければ激怒、といったところか。
「分かった。じゃあ婚約破棄としましょう」
もはや何をいっても無駄なのだろう。私が説得したとしても、彼を不快にするだけなのだろう。それならば無理矢理止める気はない。そこまで彼に執着しているわけではないし。
どうせなら綺麗な記憶のまま終わる方が良い。
その方が、後味の悪さを残さずに終わりを迎えることができる。
ただし、彼の選択を叩き潰す気はないというだけのこと。約束を違えた責任は取ってもらわなくてはならない。それは、一人の人間として忘れてはならないもの。約束を違えてまで自分の意思を優先するならば、ある程度の償いは必要だ。二歳や三歳の子どもではないのだから。
「構わないのか! それは助かる!」
「えぇ、構わないわよ。そこまで頼むならね。ただ、婚約を一方的に破棄したということになるから、償いとして支払いを求められるでしょうね」
「支払い!?」
何を驚いているのだろう。
私は特別なことは言っていない。
彼は何の償いもなしに婚約破棄できると思っていたのか。だとしたら甘い。甘過ぎる。婚約というのは、小さい頃の口約束などとは違う。ごめんやっぱり無理、みたいな感覚で婚約破棄しようと考えているなら、それは大きな間違いだ。
「当然でしょう? 貴方が勝手に一方的に婚約破棄するのだから」
「な、何を言って……」
ハインツは急激に表情を固くする。
「じゃあこれで。後は手続きの場でだけ会いましょう。さようなら、ハインツ」
◆
その後、手続きを経て、私たちの婚約は破棄された。
ハインツには支払いの指示がくだる。
彼は不満を抱いているようだったが、金額がそこまで大きくなかったということもあって、貯金から払ってくれた。
彼と関わることはもうないだろう。今後私が彼の不満気な顔を見ることはない。だから、払ってくれればそれで構わない。たとえ文句を言っていたとしても、それでもいい。そんなことは私には関係ないから。彼がきちんと責任を果たすなら、こちらとしては文句はないのだ。
◆
数年後、私はハインツのあの後について聞いた。
ハインツは私との婚約を破棄してから、可愛がって大切していた後輩の女性と同棲を始めたらしい。結婚まで待てないから、という理由で、ハインツが一方的に彼女の家へ住み着いた形だとか。ただ、そんな形ではあったけれど、二人の暮らしはそれなりに幸せなものだったそうだ。
しかし、婚約が間近に迫った頃、女性に好きな人ができた。
十くらい年上だが容姿性格共に良くそれなりに資産もある。そんな男性に惹かれた彼女は、ハインツとの婚約の話をなかったことにして、さっさとそちらの男性の方へ行ってしまったそうだ。
そのことにショックを受けたハインツは、ある夜、二階の窓から身を投げる。
が、幸か不幸か助かった。
しかし、命が助かったことも良かったと言えないほどに彼の心は壊れてしまっていて。助かった幸福を感じることもできぬまま、病室で半ば強制的に生かされることとなる。
意識はあり、貧困なわけでもなく、身体も多少不自由な程度で動かないわけではない。
それでも彼が幸福を感じることは二度となかったそうだ。
ちなみに私はというと、平民のふりをして街に出てきていた王子と偶然知り合い、親しくなって、最終的に求婚されて結ばれた。
◆終わり◆