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後編

スノーバードは、それから毎日アンの家の庭にやってきた。

渡り鳥の群れは海に近い草原を拠点にしていたが、群れから一羽離れてわざわざここまで飛んでくるのには、何か訳があるのだろうかとアンはいぶかった。

よほど好物の餌でもあるのか、それとも……。

アンはまた、スノーバードのさえずりが日増しに高まり、頻繫になっていることに気付いた。マーティンの言った「春の歌」を歌っているのだろうか。それはあたかも、春の使者が天から託されたメッセージを器用に歌い上げているといった風だった。

そして、鳥は時折アンの方を向いて歌った。そのため、鳥の黒いつぶらな目とアンの目が合うことがあり、その瞬間、両者の間に通い合うものがあったと、アンはとても信じられないという気持ちの隙間から直感した。

このスノーバードはメスなのだろうかオスなのだろうかと、アンは考えた。

人間と鳥はかけ離れているので、鳥は鳥として認識されその性別にまで思い至らないことが多いが、この時アンがそれに興味を抱いたのは、そのスノーバードに同性として共感めいたものを持ったからだった。

たしかスノーバードのメスはオスより褐色の部分が多いのだったと思い出しつつ、アンはすでにそれがメスだと断定していた。


ある朝、庭でスノーバードの鳴き声がしたので、アンは身支度もそこそこに庭に駆け付けた。

スノーバードの姿を見つけると、幸運が舞い込んできたかのように自然に笑みがこぼれた。鳥の鳴き声を耳にするとすぐに飛んでいくのが習性となった最近の自分を、まるでマーティンのようだとアンは苦笑した。

朝の清澄な空気の中に、早咲きの春の花の香りがした。スノーバードはアンが来たことを意識しているかのように、ひときわ声を張り上げて歌っていた。

スノーバードの歌声に全身を傾けて聞き入っていたアンの背後で突然「よお!」という声がした。アンは鳥の歌声でできた繊細なガラスのような空間がガシャンと音を立てて割れたかのように、驚いた。

振り向くと、兄のビルが朝陽を浴びてにこやかに立っていた。

アンは人差し指を口に当てて「シーッ」という仕草をしたが、スノーバードは他人の闖入を察して歌うのをぴたっとやめ、ほどなく飛び去って行った。

アンはがっかりしたが、兄を責める気にはならなかった。

「久しぶりだな。こんな朝早くから鳥の観察か。学校には行ってるのか?」

「うん、ちゃんと行ってる。兄さんはこれから仕事?」

「ああ、今日はちょっとだけ遅出なんだ」

アンは大学1年で、4つ上のビルは見習いシェフとして修業中で、早朝から出かけ帰宅が夜遅くになることが多く、こうして話をするのは久々のことだった。

マーティンは大学院に進んで生物学を専攻していたが、その関心の大半は鳥に向けられていた。

「さっきの鳥、スノーバードか?」

「そう、最近よく来るの」

「前からあの鳥はこの地に越冬に来るたび、この庭に来てたな。だからその時期にマーティンがうちに来る回数が増えたっけ」

ビルは回想するように庭に視線を泳がせたあと、フーッと虚しさを湛えた溜息を吐き出した。

「あいつが行方不明になって、もう1年になるのか」

「何か手掛かりは見つかった?」

「いや、何も」

マーティンが小型飛行機に乗って空中で消息を絶ったという事実だけが、明らかだった。空港の管制官の証言、機は猛スピードで北へ向かって行った、交信しようとしたが返事はなく、その後レーダーからふっつり消えた。それ以上のことはわからなかった。

マーティンの乗った小型飛行機が墜落した痕跡はどこにもなく、月日が経ち謎だけがその不透明さを増して残った。

「「星の王子様」のサン・テグジュペリみたいに、飛行機に乗って行方不明になったのね」

「サン・テグジュペリは戦時中で、ドイツ軍に撃墜されたってことがほぼ確実だが、マーティンの場合、全く何の手掛かりもない。警察は山岳地帯で墜落したんだろうと判断したが、レーダーから消えたあたりの山を捜索した結果、何も見つからなかった」

ビルは悔しそうに声を落とした。

「それなら、まだ望みはあるということよ。きっとマーティンは、どこかで生きてるのよ」

頬を上気させてそう訴えるアンを、ビルは同調するようにうっすら笑みを浮かべて見やった。

「そうだな。あいつのことだ、生きてるんだろうな」

それからビルは、自分と妹の双方を励ますようにテンションを上げて話を変えた。

「俺、今日これから新メニューの開発に携わるんだ」

「新メニュー? どんな?」

「チキンを使ったメニューなんだ。鳥の胸肉には、イミダペプチドっていう疲労感を和らげる成分が含まれててさ、鳥といっても渡り鳥のことなんだけど。何千キロっていう長距離を休みなく渡り鳥が飛び続けられるパワーの源だって話だよ」

また渡り鳥のことに話が戻ったが、アンはマーティンが話したあることを思い出した。

「そういえば、マーティンが渡り鳥は空にある鳥の楽園という異世界に入り込んで、そこでエネルギーを補給するんだって言ってた」

「ああ、俺にもそんな話をしてたな。あいつらしい発想だけど、残念ながら俺はさほど渡り鳥への興味も空想力も持ち合わせてないんでね。到底真に受けられないよ」

アンは何か反論めいたことを言おうとしたが、兄が出かける時間が迫っているようなので、何も言わなかった。

「飛ばないチキンの胸肉にも、イミダペプチドは豊富に含まれてるってことだ。それじゃ、飛ばないチキンは宝の持ち腐れってことかな。まあ、とにかくチキンの新メニュー、期待してくれよ」

最後はいつものビルらしく、明るく元気に言い残して去っていった。


アンは夢想した、渡り鳥の楽園のことを。

そこは鳥だけが行ける世界で、鳥たちのために優しく風が吹き、穏やかに水が流れる。

すべてが、何キロものつらい空の旅を続ける鳥たちを癒す。

旅はまだ続き、それは束の間の休息だが、鳥たちにとっては千金に値する。

天は渡り鳥に長く苦しい旅を毎年続けるという宿命を与えたが、それを埋め合わせるご褒美を忘れなかった。それが渡り鳥の楽園だが、その中で天のご褒美として最も具体的に与えられたのが、manna、神の食物だった。

それは旧約聖書でモーゼに導かれたイスラエルの民が、エジプトを脱出して荒野を彷徨っているときに神が与えた食物だ。

渡り鳥にとって最高の栄養源になる食物であり、疲れを一瞬で忘れさせるほど美味だった。

それはマーティンの話の受け売りだったが、アンにとっては渡り鳥から直に伝えられたことのように真実味があった。


アンは、青く澄んだ瞳に空を映して、鳥への愛を語るマーティンが好きだった。たとえその愛が自分より鳥へより多く向けられるのだとしても。

マーティンは生きていて必ずまた会えると、アンは自らを勇気付けるように言い聞かせた。


その日は朝陽が昇ったばかりの早朝に、スノーバードが庭へやってきた。アンの眠りは鳥の鳴き声に触れると同時に破裂し、割れたバルーンの中からゴムの破片を払いながら這い出るように、アンは眠気眼で起き上がり、カーテンと窓を一気に開け放った。

眼下の庭に見慣れた小さな鳥の姿を見つけると、着替えもせず寝起きのままの格好で庭へ向かった。

庭に積もった雪はほとんどなくなり、地面は芽を出した草花の発育競争の舞台だった。肌に感じる日の光や風は、もうそれに「春」とレッテルを貼ることに何の依存もなかった。

この地に春が訪れたのだと、アンは春の訪れに付随する喜びを胸の内に溢れさせたが、溶け残った雪の欠片を踏んだように急にその喜びを停止させた。

春になると、スノーバードは北へ渡っていく。

そう、スノーバードとのしばしの別れの時が近付いている。

見ると、庭のスノーバードは明らかにアンの存在を意識したように、アンの方を向いてさえずっていた。

そしてそのことに意外さも違和感も覚えなくなっていたアンは、一歩鳥に近付いた。

おびえないだろうとわかっていたが、鳥はじっとしたままアンを見ていた。その鳴き声も黒い目もこれまでとは異なっていることが、鳥への気遣いで身を固くしたアンの神経に電流のように伝わった。

悲しみ……鳥ならではの悲しみの表現が、そこに宿っていた。

「スノーバード?」

と問いかけるように声を発したアンに応えたのか、鳥は精一杯人間に近付いてさえずった。アンが鳥の鳴き声に全身全霊で聞き入っていたその時、庭の隅で別の鳥の声がした。

「ピィー、ピピピピ」

アンは驚いて目の前のスノーバードから目を離して、その鳴き声のする方を見た。そこにいたのは、目の前の鳥と同じスノーバードだったが、いくらか体が大きく、褐色の部分が少なかった。鳴き声も微妙に力強く、オスなのだろうとアンは推測した。

ただ、その鳴き声はアンにあるものを思い出させた。

それは、マーティンだった。彼は本気で鳥の鳴き声を習得するため模倣し、アンの家に来たときは鳴き声で知らせた。そのマーティンの鳥の鳴き声にそっくりだった。


アンの目は、新たに庭に来たスノーバードに釘付けになった。その鳴き声はアンの頭の中にしみわたって、ひとりでに翻訳されていく。

「もう出発するよ、おいで」

その解釈が当たっているのを示すように、アンの目の前の鳥はさえずるのをやめてもう一羽の鳥の方へ移動していった。

さらに、大きい方のスノーバードはアンに顔を向けて、人間と鳥の橋渡しをするような奇妙だが心惹かれる鳴き声を出した。

足元の庭が揺れ動くような混乱のさなか、アンの脳の中で化学反応が起こり、鳴き声が人語に変換されていった。

「すまない、アン、僕は鳥の楽園に行ってこの姿になった。でも今は幸せなんだ。君も元気で。さよなら」

「マーティン!」

アンは声にならないかすれたような叫び声をあげた。

最後に鳥はアンに別れの一瞥をくれて、仲間の鳥とともに飛び立った。

その一瞬、アンは鳥の目が青色だということに気付いた。

飛び去っていく2羽の鳥にアンは手を振って、心の中で「さよなら、元気でね」と呟いた。

その言葉は立ち込めた春の気配に後押しされて、鳥を追って大空へ舞い上がっていった。


(了)


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