前編
「ピィー、ピピピピ」
その鳴き声に、自分の部屋で本を読んでいたアンは、反射的に本を置いて椅子から立ち上がり、窓の外を見た。
「マーティン!?」
情愛と悲痛さを込めて口にしたその名前の主は、2階の窓からの眺めのどこにも見当たらなかった。下の庭はまだ半ば雪で覆われていたが、春の訪れも近く、草の芽がけなげに顔を覗かせていた。
その草の芽を目当てに迷い込んだのだろうか、よく見ると鳴き声のするあたりに、小鳥が一羽、餌をついばむように雪のカーペットをくちばしでつついていた。
小刻みに体を動かすその鳥は、背中と羽根が褐色だが、お腹の部分は雪と見分けがつかない白色だった。
生まれた時のまま汚れを知らないようなその白さは、雪で作った形に生命が吹き込まれたとも思えた。
そんな、雪を相思相愛の鳥、それはスノーバードだった。
そして、スノーバードの名前をアンに教えたのは、マーティンだった。
「この地に雪が降る頃やってきて、ここで冬を過ごして、春になると北の方に渡っていくんだ」
「こんな小さい鳥が渡り?」
何千キロも海や山を越えて飛び続ける渡り鳥は強靭なイメージで、スズメより少し大きいくらいのスノーバードは渡り鳥に似つかわしくなかった。
スズメのように同じ所にとどまっていれば安心なのに、なぜ渡りという冒険の旅にわざわざ出るのだろう。
「おおまかに言えば、繁殖と餌のためだ。スノーバードは小鳥だけど、一羽で飛ぶわけじゃない。何百羽、何千羽と群れになって渡るから、そんなに危険じゃないんだよ」
その時マーティンと一緒に見た鳥、スノーバードが、今庭にいる。アンは2階の自室から階下に降りて庭に出て、驚かさないよう距離をとって鳥を観察した。
鳥は相変わらず餌を求めて動き回っていて、人間に対して警戒心の強い鳥にしては、アンの存在に無頓着だった。逆にアンのほうが神経を使い、その慈愛に満ちた気遣いで鳥をあらゆる危害から守ろうとするかのように、息を殺していた。
体長16センチ位かそれより少し小さく見える鳥は、全体にふっくらして丸みを帯びていて、それが一層可愛らしさを強調していた。
時折ピィー、ピィーと鳴き声を発し、その鳴き声も意味は分からないながらも、可愛さの中に分類されていった。
去年の春先にスノーバードの群れはこの地を一斉に飛び立って、北への長い旅に出発した。そしてそれと同じ頃、マーティンは小型飛行機に一人で乗って、そのまま行方不明になったのだった。
スノーバードはそれから半年以上たった晩秋にこの地にまた戻ってきたが、マーティンの戻る気配はなかった。彼は空のどこかに吸い込まれるように消えた。
「ピィー、ピピピ」
それが、マーティンが訪ねてきたときの合図だった。マーティンはアンの兄ビルの高校時代の友人で、最初はビルに会うために来たのだが、次第にアンと仲良くなり、ビルがいない時も来るようになった。
ビルによれば「俺がこれまでに会った中で一番の変わり者」というマーティンは、鳥を溺愛していた。
幼い頃から鳥への興味は人一倍抜きん出ていて、同じ年ごろの子供たちと遊ぶより、一人で鳥をじっと眺めているのが好きだった。
スポーツマンで現在はシェフ見習いというビルとどこに接点があったのか不思議だが、ビルが自分の家の庭に小鳥が良く来るという話を何気なくしたところ、ぜひ見たいといって押しかけてきたのが交流の始まりだった。
草木が伸び放題に生い茂った庭には、様々な鳥がやってきた。特に鳥に関心がない者にとっては、その鳴き声は風や雨の音などと同じ自然の風物として意識の波間に浮遊することはあっても、その姿をいちいち見に足を運ぶことはないだろう。
しかしマーティンの心のアンテナは鳥に敏感で、その鳴き声をキャッチするや否や体が動くという条件反射が出来上がっていた。
ある日アンとリビングでコーヒーを飲みながら話をしていた時、開けていたテラスの扉から庭の鳥の声が流れ込んできた。その瞬間、マーティンはばね仕掛けの人形のように立ちあがり、アンの存在を忘れ去って鳥の姿を追い求めて庭に出た。その時は驚きはしたものの、すでにマーティンのそういう習性を目撃していたので、アンは「また……」と呟いて溜息をついただけだった。
「鳥になりたいな」
とマーティンは口癖のように言った。
鳥になって空を飛びたいというのは、重力の呪縛から逃れられない人間の悲願といえる。空を縦横無尽に飛び回る鳥が自由だと思えるのは、ひとえに飛べないコンプレックスからくるのだろう。人間は鳥を羨望し、鳥からヒントを得て空を飛ぶ技術を考案し、今では鳥に負けないくらい空の覇者となっている。
それでもマーティンは、少しでも鳥の気持ちに近付くために、一人乗りの飛行機に乗るべく操縦免許をとった。そして空港で小型飛行機をレンタルして飛ぶことが、単なる趣味以上の生き甲斐ともいえるものになった。
なぜそれほどまでに鳥に惹かれ憧れるのか、それは本人にもわからない。天から授かったDNAのようなものとしか説明がつかなかった。ともかくそれが天賦の資質であるなら、その是非を問うより従順に受け入れた方が生きやすい。
そうした理屈を立てるまでもなく、マーティンは自身の天性に従って生きることを実践した。
鳥の中でも、マーティンが最も惹かれたのはスノーバードだった。その持って生まれた白さは、ほかの色すべて褪せさせる。
雪の申し子 雪の化身 雪が生み出した最高傑作
スノーバードの魅力を語るとき、マーティンは鳥のように羽ばたく言葉を生み出す詩人になった。
そんな、鳥が人より大好きで変わり者のマーティンだったが、アンにとっては愛おしい人物になっていた。
兄のビルより華奢なマーティンは、体型だけでなく、青く澄んだ瞳が少年のようだった。鳥へまっすぐ注ぐ眼差しは、偽りや邪悪さを排除して透明だった。鳥も彼の眼差しの邪気のなさを感じ取るのか、普通なら考えられないような至近距離に彼が近付いても、飛び立たないことがあった。
マーティンの心の大半を占めている鳥、中でもスノーバードに対して妬ましさを感じそうなものだったが、アンはマーティンの鳥への眼差しを模倣するかのように、優しく目の前のスノーバードを眺めていた。
数か月もの間、雪化粧によって白を基調とした風景になっていたこの地に、再び春が訪れる兆候があった。冷たく清らかな雪のマントの下から草が芽生え、スノーバードはこれから咲く花々の想いを先取りするように、春の歌を歌う。
「スノーバードオリジナルの春の歌なんだ」とマーティンは言った・
「どの鳥もそれぞれ彼らだけの歌を持っている。だけどスノーバードの歌は超一級品だ。聞く人の心の雪を溶かして、花を咲かせる」
「でもその春の歌を置き土産にして、北に旅立つんでしょう?」
アンは人間の立場からすると、春の訪れとともに寒い北の方へ渡っていく鳥の行動が不可解に思えた。
「それは、そういう風に生まれついているからさ。多分、雪がないと生きていけないんだろうね」
そういう風に生まれついているという言葉に、アンは酷薄な宿命を感じた。人間は鳥を見て空を自由に飛べてうらやましいと単純に思うけれど、鳥の側からすれば飛ぶことが宿命なのだといえる。
「渡り鳥について、まだまだ不明なことが多いんだ」
マーティンはそれが自分にとって大きな課題だというような口ぶりで話した。
「たとえば、越冬地と繁殖地の間、何千キロにも及ぶ距離を群れを成して渡ることの謎。星座や太陽や地磁気が指標になるらしいが、キョクアジサシなんかは北極から南極に渡るんだ。全く信じがたいことだよ」
「スノーバードみたいな小さい鳥が過酷な渡りをするなんて、想像つかないわね」
「人間の生活様式と鳥の生態は全く違う。渡り鳥となると、人間の想像をはるかに超えている。そこで僕は思うんだ、渡り鳥には人間の知らない秘密があるんじゃないかって」
「秘密が?」
アンは熱のこもったマーティンの話しぶりに、思わず引き込まれた。
「それはどんなこと?」
「渡りのルートにしても、全面的に解明されていない。比較的大きな鳥に発信機を付けるなんていう試みはされているけど、それで謎がすべて解き明かされはしない。これは僕の想像だけど」
と前置きして、マーティンは夢想家のアンをさらに引き込む夢のような話をした。
「渡り鳥の一部は、渡りのルートの途中にあるオアシスに立ち寄る。それは空にあるオアシスだ。もちろん人間には知られていない。渡り鳥には磁気を感知するセンサーや、飛びながら眠る半球睡眠など人間にはない能力があるが、ほかにも人間のあずかり知らない能力があると思う。それが、空にある別世界への入り口を見つける能力だ」
「別世界?」
アンは驚きの声を上げた。
「そう、異世界と言ってもいい。そこは鳥だけが見つけて行くことのできる世界で、鳥の楽園なんだ。そこで渡り鳥は羽根を休め、長い旅を完遂するための活力を補給する」
「異世界って、オズの国とかピーターパンのネバーランドのようなものなの?」
「まあ、そういうことだね」
「それは素晴らしいけど、空のどこにその入り口があるの?」
「渡り鳥は上昇気流に乗って旅をするが、中には乱気流もある。飛行機にとっての落とし穴、エアポケットのような乱気流がね。しかし渡り鳥は気流のエキスパートだ。その乱気流を逆に利用して、異世界に飛び込むのさ」
それは突拍子もなく奇抜な発想かもしれなかったが、ファンタジーや幻想小説好きのアンにとっては、なじみやすい世界だった。
それに、マーティンの鳥への並外れた情熱と観察眼を知悉することで、それは荒唐無稽な思い付きではなく、リアリティを付与するほどの説得力を感じさせた。