1.俺の日常
空を飛びたい。
その夢を初めて叶えたのは、ライト兄弟だった。
西暦1903年。彼らの造ったライトフライヤー号は、操縦士1名を乗せて空を駆け抜けた。全長6.4m、最大速度48Km/h。何度も失敗を繰り返して生成された翼型に翼ねじりの機構。当時としては画期的な機能を兼ね備えたライトフライヤー号は、有人動力飛行の先陣を切った。
それは、空に魅せられた人間の夢を切り拓いた。
「先端を折り込んで菱型に。翼の部分は、端を90度。後ろを反らせて、揚力を増やしたか。なるほど。確かに良い紙飛行機だ。紙飛行機、ならな」
昨夜彼女の琴線に触れた紙飛行機は、今は課題を出した教授の手の中にある。
「分かってますよ。机上の空論でしょう」
「それもある。だが、お前には他にも足りないものがある」
「足りないもの?」
「ああ。お前の設計の腕はピカイチだ。でも、校内コンペに通ったことはない。なぜだか分かるか?」
「・・・」
分からない。分かってたら校内コンペに通る。
どれだけ良い設計をしても、いつも最終審査で落とされてしまう。
「まあ、お前もまだ2回生。時間はあるから、頑張って考えてみなさい。とりあえず、課題は合格だ。行ってよし」
合格は貰えたのに答えは貰えないまま、研究室から放り出されてしまった。
研究室の扉の前で、しばし立ち尽くす。
手の中で存在を主張する紙飛行機が、昨日の彼女を呼び起こした。
「私ね、空を飛びたいの」
昨晩聞いた彼女の言葉は、イントネーションまで鮮やかに頭の中に残っている。
俺は、彼女の願いを叶えることが出来るのだろうか。
返答に困る俺に、彼女は別れの言葉を紡いだ。
「あ、私そろそろ帰らなきゃ。抜け出して来たから怒られちゃう。これ、返すね。また明日、ここで会える?」
「あ、ああ」
なぜ俺が肯定の意を返したのか、今でも分からない。それでも笑って手を振ってくる彼女を見て、後悔は浮かばなかった。
「彼女を乗せるとしても、操縦士がいないと動かないから最低2人は乗せる設計。それに耐えうる機体。動力。この俺の設計では、それをクリア出来ない」
俺の意思を無視して彼女の願いを叶えようと考え始める頭にイライラして、紙飛行機を飛ばす。
緩やかな曲線を描きながら、ちょうど角を曲がってきた男性に当たった。
「いって!・・・お前かよ」
彼は俺を見た瞬間嫌そうな表情を浮かべるも、丁寧にも拾った紙飛行機を俺の所まで持ってきてくれた。
「中村。教授に用か?」
「ああ。そうだよ。孝秋、お前に会うつもりはなかったんだがな!」
紙飛行機が、俺の手に勢いよく乗せられる。相変わらず、この男は俺のことが嫌いすぎる。
「そうかよ。なら、俺は潔く消えるさ。用はもう終わったしな」
「待てよ」
「ぐえっ」
中村が俺の後ろ襟を引っ張ったせいで、変な声が出た。
「ゴホッ。なんだよ・・・」
「お前、またシュミレートを無視った飛行機設計しただろ! その紙飛行機みたいに!」
一体どこから聞きつけたのか。
設計は俺に及ばないくせに、CAD技術では右に出る者はいない中村は、事あるごとに俺に突っかかって来る。
「お前には関係ないだろ。この設計が一番長く飛べるんだ」
「だからって、それを造れないと意味ないだろ。それを実際に造るなら、俺はここを削る」
彼は、翼の端を指さした。それは、揚力を得るために俺が1mm単位で修正した部分。
「待てよ。ここ削ったら飛べる時間が半分にも下がる。それなら、こっちは・・・」
「アホか。そこ削ったらエンジン積む負担が多くなるだろ!」
「でも、2人乗るくらいなら・・・」
「は? 2人? お前、何のこと言って・・・」
「あらー。何しているの? お2人さん」
ガッと、中村と同時に首に手を回される。
「幸助。離せよ」
中村はいち早く幸助の腕から抜け出した。
「なによ。洋一くん。そんなすぐ抜け出さなくていいじゃない」
「お前はいちいち暑苦しいんだよ。・・・ちっ。そろそろ先生のとこ行かないと時間ないな。孝秋。お前が何を企んでんのか知らないけど、その飛行機を造ろうなんて思うんじゃねえぞ」
中村は頭に青筋を浮かべながら研究室に入って行った。
「なになに? 孝秋くん。何か面白いこと企んでるの?」
幸助が面白いことを見つけたような顔で俺を見つめてくる。
あの時思わず2人という言葉が出たのは失態だった。俺は本当に、彼女の願いを叶えたいのか叶えたくないのか。よく分からない。
「・・・何でもねえよ。じゃあな、幸助」
「あ、待ってよ。何か手伝えることあったら言ってよね。他の子にも、聞いてあげるから」
坊主刈りにオネエ言葉を使う幸助は陸上部のエースで、恐らく大学一顔が広い。
背を向けたまま手を振ると、後ろからため息が聞こえた。