9.後輩がこれはマズいと言ったので
街の前では愛馬がのんびりと草を食んでいた。二人が近づくと、鼻を鳴らして顔を寄せる。
「無事だったか」と声をかけると、ネルはもう一度、ぶるりと鼻を鳴らした。どうやら肯定らしい。
門の前に立って、後輩は濡れた服の裾をつまみ上げる。
「お腹空いたし服も着替えたいですね……」
「まずは宿でも探すか」
と、ここで彼は気づいた。
(……俺はこれからもついていく流れなのか?)
そろそろ『何でいるの?』とか言われそうである。そんなことを聞かれた日には大ダメージを受けてしまう。
後輩の横顔を窺う。自分がいることに疑問を持っている様子はない。
(まだいけるな)
小さく頷いて、彼は街の門をくぐった。
ひとまず宿を二部屋借りて着替えようと思ったが、そもそも乾いている服がないのである。濡れた服をハンガーにかけて窓際に並べてから、彼は腕組みをする。……仕方ない、今日の分は買うしかないか。
何の前触れもなく、背後の扉が勢いよく開け放たれた。
「大変です先輩! 着れる服がないです!」
「ノックをしろ、馬鹿!」
「おっと」
扉を内側からコンコンと叩いて、後輩が誤魔化すように笑って舌を出す。……よくよく考えれば、こんな後輩が結婚すると思った自分がおかしいのかもしれない。
彼は嘆息する。この数日で何度ため息をついたことか。全部後輩のせいだ……多分。
「……とりあえず、服を買いに行くか」
「ちょっとお財布が……予定以上の出費は避けたいと言いますか……」
「今のところは立て替えてやるから」
「お言葉に甘えます……」
頭の先から爪先まで濡れたまま、彼らはすごすごと再び外へと出た。
外の空気は暖かいが、そういう問題ではないのである。冷たい水に全身浸かったのだから、寒くない訳がない。後輩はさっきからひっきりなしに独特なくしゃみを繰り返していた。
「服が売ってるお店……ありました!」
「待て待て待て待て!」
ろくに確認もせずに高級なブティックへ突撃しようとする後輩を羽交い締めで阻止する。こんな全身びしょ濡れのまま入る店じゃない。あと財布が心許ない。
「常識的に考えろ! その場しのぎの服を調達するのにオートクチュールか!?」
「うわー! そんな怒らなくたっていいじゃないですかぁ!」
あわや破産寸前である。彼は後輩を引きずったまま通りの向かいにあった服屋へと向かった。
入店した後輩が自分と全く同じ経路を辿るので、彼は思わず半目になる。
「……お前はここの売り場で良いのか?」
「え? はい」
後輩は当然のような顔で頷いた。「あっちじゃないのか?」と隣の列――若い女性向けの服を指すと、後輩は「あー……」と声を漏らす。
「買ってもどうせ着れませんし」
「着ろよ」
「バレるじゃないですか」
何を馬鹿なことを言ってるのか、とでも言いたげな視線を向けられた。……馬鹿なことを言っているのはこいつの方ではないのか?
彼は直接反論するのはよして、一つの質問を投げかける。
「一応訊いておくが、実家では男装のことは言ってあるのか」
「言う訳ないです! バレたら仕事やめさせられちゃう」
(そっちの方が大問題では?)
いまいち後輩の優先順位が分からない。彼が難しい顔で腕を組んでいる間に、後輩はさっさと「これでいいや」と服を取り上げる。
彼は棚に手をついたまま後輩を振り返った。
「じゃあ実家では男装してないんだろ」
「ん? まあそうですね」
後輩はこの話題をさっさと流したがっているみたいな態度で、そそくさと立ち去ろうとする。それを呼び止めて、彼は人差し指を後輩に突きつけた。
「ここには他に知り合いもいないんだから、良いんじゃないのか?」
「ななな何がでしょうか」
盛大に動揺した。いつもは腹立つくらい余裕綽々の後輩が、今は明らかに遅れを取っていた。彼は腕を組んだまま肩を竦める。
「着たいなら別に着ても良いんだぞ」
「何の話ですか? わたしは別にこの服で十分……」
「だってお前さっきからあそこのトルソーずっとチラ見してんだろ」
通路の脇に立てられているトルソーを指し示すと、後輩は大きく目を見開いた。愕然としたような表情である。
「何故バレた……」
「見てればバレバレだ」
後輩はばつの悪い表情で俯く。展示されているのは深い紺色の襟付きワンピースである。彼の知らない間に服飾の流行が驚天動地の大転換を遂げていない限り、あれは若い女性向けの服のはずだ。
後輩は唇を尖らせてぶつくさと言い訳を垂れ始めた。
「いや……確かに可愛いですけど、あれ着てるところを見られるのは……恥ずかしいというか照れるというか」
「大丈夫だろ。こんなところに知り合いが通りかかるとも思えないし」
ごねる後輩を後押しすべく言ってやると、後輩はじろりと鋭い視線を投げかけてきた。
「先輩がいるじゃないですか! ド知り合いでしょ!」
「ええ……」
(何で俺が怒られるんだ)
見れば、後輩は耳を真っ赤にしている。それに気づいた瞬間、彼は額を押さえていた。
「……何ですか、先輩はそんなにわたしが恥ずかしがっているところを見たいんですか!?」
びしりと人差し指を突きつけ返され、彼は答えに窮して黙り込む。ややあって「悪かったって」と負けを認めると、後輩は「相打ちですよ」と鼻を鳴らした。
***
乾いた服を着てご満悦の後輩を見ながら、彼はふと目線を脇にやった。店の外を通りかかった人影に、見覚えがある気がしたのだ。
(あれは……)
――ユーリア。火狼に襲われていた、辺境伯のご令嬢である。
(数日の間は街で待機しろと言ったはずなのに、……どうしてこんなところに?)
首を傾げかけたところで後輩に呼ばれ、彼はそのまま、今見た光景を思考の隅に一旦押しのけた。
***
やや遅めの昼食である。たまたま見つけた食堂に入ると、時間帯を外したからか、中は閑散としていた。
「やっと食べ物にありつけましたね」
いつもどおり少年みたいな格好をした後輩が、万感の念を込めて匙を握りしめた。思わず大きく頷いてしまう。
一つ前の街とは違って、ここはそれほど大きな街ではない。喧噪らしき喧噪とは縁がなく、森に囲まれた街とだけあって、そこかしこから鳥やら虫やらの声が響いていた。
「どうする? 頑張れば今日中に次の街に行けるが」
「その方が良い……のは分かってますけど」
後輩は行儀悪く食事中に頬杖をついた。ぐでっとだらしない姿勢になって、細い息を吐く。
「正直、疲れましたね」
「まあ、そうだな」
体力的な話でもあるが、どちらかというと心労である。特大サイズの魔物に追いかけられて、散々肝を潰した。
「とんでもない目にあったもんだ。支部長に良い土産話ができるな」
呟くと、後輩は「支部長、人の不幸話大好きですもんね」と率直な感想を口に乗せる。身も蓋もない評価に思わず苦笑する。
「まあ――災害にならなかっただけマシですよ」
食事を終えた後輩は、平静よりいくらか冷たい目をして呟いた。「災害?」と繰り返せば、後輩は「はい」と頷く。
「まだわたしたちを標的にしただけ、冷静というか、判断力が残っているというか……。これ以上怒りを買えば、見境なく人間を襲う可能性もありました。街にかかっている魔物避けの結界だって、炎狼あたりがその気になれば簡単に壊せますよ」
当然のように淡々と語る後輩の言葉に、体を固くしてしまう。――常に隣り合わせで生きている魔物は、人間を簡単に屠るだけの力を持っているのである。ともすれば忘れがちなその事実を、後輩は色々なところで繰り返し説いている。
「まあ結界が破られたとなれば、すぐに周辺の基地から騎士がわんさか派遣されるでしょうし。街が三、四ほど壊滅する程度ですかね」
後輩は空のグラスをくるりと回しながら呟いた。底に残っていた氷が涼やかな音を立てる。
「わたしたちが平穏に過ごせているのは、ひとえに寛容なお隣さんの厚意によりますよ」
忘れちゃ駄目ですよ、と後輩が微笑んだ。
「……なあ、イヴァリス」
――後輩の話を聞いて、俄然不安になってきたことがある。彼は腕を組んで天井を見上げた。木を組んで作られた食堂の梁を何となく眺める。
(密猟者は、捕まってないんだよな……)
彼が捕らえた御者は『密輸』を担当するだけ。ただの下っ端である。首謀者はおろか、密猟の実行犯さえ捕まっていないのだ。
「恐らく、これから先も密猟は続くぞ。そうしたら、いずれ……そんな日が来るのか?」
後輩ははたと動きを止める。「そっか、まだ」と口元を押さえ、彼女は瞬きをした。
「ちょっと……ヤバいですね」
砕けた口調だが、内容は差し迫っている。後輩は青ざめた顔で口を覆った。
「支部に連絡した方が良いです」
「書簡を出すか? 返事が来る頃にはお前はもう国を出ているかもしれないが」
「あー……。まあ何にせよ、このことは報告しなくちゃ」
後輩は頷いて、それから顎に手を当てた。
頬杖をつき、顎の輪郭に薬指を這わせるようにしながら、後輩は三本の指で口元を支える。
「あの馬車での密輸の目的地はどこなんでしたっけ?」
その問いに、彼は後輩が何事か考え出したことを察する。「国境だと言っていた。恐らく国外へ運ぶのが目的だろう」
答えると、後輩は「国境、」と呟く。
「そうなると、首謀者がこちらの人間なのか、あちらの人間なのか分からなくなりますね」
「いや、どうだろう」
後輩の言葉を受けて、彼は眉根を寄せた。
「言ったはずだ。……現地の騎士たちは、本当に、密猟に気づいていないのか?」
「騎士組織もグルってことですか」
「そうとは言い切れない。少なくとも俺たちの基地ではそのようなことはないはずだし……。だが、可能性は捨てきれないだろう」
街への火狼の襲撃が増えている。駐屯所の少年騎士はそう言っていた。思い返せば、基地を出るとき、支部長も言っていなかったか? ――『最近、魔物が出るらしい』。
火狼の異常に誰も気づかなかった訳がないのだ。
後輩は声を潜め、低く囁く。
「……首謀者は国内の人間で、なおかつ現地の騎士組織に対して何らかの関係があるってことでしょうか」
「まあ、こんな根拠もないガバガバ推理をこねくり回したところで何も分からない訳だが」
彼は否定も肯定もせずに、曖昧に首を傾げた。
「でも、無闇に現地の騎士組織を頼るのは何となく嫌ですね」
後輩は意を汲んだらしい。要するにそういうことだ。使える手段が限られてくる。
「取りあえず、次に向かうべきは分かるな?」
「……国境。それにしたって、関門を跨いだ大きな街ですよ」
後輩は難しい顔で鼻に皺を寄せる。
「なに、別に俺たちで密猟組織を暴いて一網打尽になんてする必要はない。基地に指示を仰いで、返事が来るのを待つのが先だろ。先に下調べをしてもいいが」
わざと簡単なことのように言ってみせると、後輩は躊躇いがちに「そうですね」と微笑んだ。
……とはいえ、手紙が基地まで行って帰って来るのにも時間がかかる。
「イヴァリス、お前、いつ国を出るんだ?」
「明日、国境街に着いてから、実家に持っていくお土産とか物色して、その次の日の朝に発つ予定でした……けど」
「なるほど」と頷いて、彼は「予定通りに行け」と告げた。
「え、でも……」
後輩はあからさまに狼狽える。
「こんな事態でノコノコと『姉の結婚式に行ってきまーす!』だなんて、ちょっと……申し訳ないというか、心が安まらないというか……。何ならこっちを優先しても」
「馬鹿」
彼は後輩の額を指で打った。後輩はきゅっと目をつぶって耐えてから、不満げに瞼を上げる。
「お前一人いるかいないかで大きく変わるような話じゃない。――家族を優先しろ」
「えー、そんなこと言って先輩、裏で『あいつマジで帰りやがった』とか悪口言うんじゃないんですかぁ?」
「おいコラ失礼なやつだな」
せっかく真剣に諭しているのに、後輩はぶつくさとふざけた態度で文句を垂れた。それから表情を改め、「本当にわたしがいなくて大丈夫ですか?」と首を傾げる。
「状況を鑑みるに、今のところはあまり大きく動くことも出来なさそうだし……。まあ、大丈夫だろ」
「ふーん……」
後輩は目を細めて頬杖を解いた。
「どうする? もうここを発つか」
訊くと、さっきまで疲れたと弱音を吐いていた後輩は、打って変わって引き締まった表情を浮かべる。
「――行きましょう」
強い口調だった。後輩はぐっと拳を固く握った。
「手遅れになる前に、大惨事を阻止しなきゃ。人間と魔物の正面衝突だなんて、絶対に避けなきゃいけません」
決然と告げて、後輩は立ち上がった。……そうして見てみると、一番上からボタンが全部掛け違いになっている。彼は真顔で後輩の胸元を指した。
「とりあえず、まずはボタンを直そうな」
「おっと……何だか締まりませんね」
「決め台詞が決まらない呪いでもかかってるんじゃね?」
そんな呪いかかってたまるか、と後輩は文句を言った。