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8.後輩が結婚しないと聞いたので


「ふぁ……べくそん!」

「やたら特徴的なくしゃみだな」

「んん……個性はガンガン出していくスタイルですから」

 ずび、と鼻をかむと、後輩は頭を振る。濡れた髪から水滴が飛んできた。「やめろよ」と顔をしかめると、後輩は「ごめんなさい」と唇を尖らせる。


 後輩は首を反らすようにしながら顎を持ち上げて呟いた。

「やっと振り切れたみたいですね」

「とんだ目に遭ったな」

 先程まで炎狼に追われていた滝の上を見やるが、気配はない。諦めたのだろうか。彼は大きなため息をついた。


「はぁー……」

 滝の下の池の側。大きな岩の上に寝そべって、彼は胸を上下させて息をする。岩の縁に腰掛けて、濡れた服を絞っていた後輩も、つられたみたいに盛大な息を吐いた。

「怪我は?」

「特になさそうです。頑丈な体に産んでくれたお母様に感謝ですね」

 じゃあ法外な治療費は払わなくて良いらしい。良かった。



 足をぶらぶらさせながら、後輩が絞り終えた服を脇に放る。鞄の中を物色し始めたかと思ったら、満面の笑みでこちらを振り返った。

「見てくださいこれ! お昼ごはん、無事でした!」

 見れば、後輩の手にはしっかりと密閉された弁当箱がある。……水に飛び込んで果たして本当に無事なのか? という疑いはあるが……。


「エド先輩、お昼食べましょ」

「ああ、もう昼か」

 空を見上げれば、陽は頭上高くにまで昇り詰めている。後輩はいそいそと岩の上に弁当を広げ始めた。



「……いやー、やっぱ川の水風味のパンは美味しいですね!」

「見ろこれ、搾ると水が出るぞ、ははは」

 密閉されていると思われた弁当箱は見事に浸水していた。後輩はがくりと項垂れる。

「食べなくて良いです……」

 彼の手からびしゃびしゃのパンを回収し、後輩が弁当箱の蓋を閉めた。


「多分もう少し行けば街があるはずだから、それまでの辛抱だな」

「そうなんですか?」

 目を丸くした後輩に頷き、彼は滝壺の脇から森の中へ伸びる小路を指した。


「そこ見ろ、道があるだろ。結構頻繁に人が水を汲みに来ているみたいだから、街も近いはずだ」

「ははー、なるほど」

 後輩は鞄を膝の上に乗せて荷物を整理する。弁当箱は鞄の底にぶち込んだらしい。



「あ、これ返しときますね」と後輩が何かを放った。受け取ってみれば、逃げている最中に渡した魔物避けの笛である。

「ああ」と頷いて受け取ってから、彼は動きを止めた。

(……これ、さっきイヴァリスが吹いてなかったか?)

 まるで思春期の子供のような思考である。くだらない。自分でも分かっている。が、彼は完全にその場で硬直してしまった。


(これをそのまま鞄に入れたら『え、拭かないんですか?』とか言われるんじゃ……いやでもわざわざ拭いたら『なに意識してるんですか? キモー』とか言いそうな……)


 彼の葛藤など知る由もない後輩は「何してるんですか?」と笑顔である。思わず後輩の顔をガン見する。まるで何も考えていない顔だ。お前はいつだってそうだ。


(まあ、どうせこいつにとって俺なんて眼中にもないからな……)

 彼は小さくため息をつくと、服の裾で笛を軽く拭ってから鞄に放り込んだ。

(国に帰って結婚するっていうのに挨拶にも来なかった薄情者だし……)

 濡れた髪に指を通しながら、彼は後輩から目を逸らした。



 後輩は足先を水に浸して鼻歌を歌っている。その後ろ姿に声をかける。

「……そういえば、結婚式はどこでやるんだ?」

「えっとね、何か超でかい教会らしいですよ」

「『らしい』って……」

 まるで他人事みたいな言い草だ。彼は眉をひそめた。……本人が望んだ結婚じゃないのか?


「……相手は? どんな男なんだ」

「えっ聞きます? 聞いちゃいます?」

 俄然目を輝かせて振り返った後輩に、思わず「ウッ」と声が漏れた。後輩は胸の前で指を絡ませて相好を崩す。


「もーね、ダン様ったら本当に格好良くて! 初めて見たときからキュンを通り越してもうギュインギュインですよ! 超キラキラしてるし、何かね、ほんと……王子様! はい! そんなに回数会った訳じゃないんですけど、こんなわたしにも親切にして下さるし、ほんと、あー良い人に巡り会えたんだなって思って……!」

「……良い。もう良い」

 彼は額を押さえて後輩を制した。後輩はまだ語り足りない様子で文句を言っていたがすぐに黙る。


「……何でエド先輩がダメージを受けているんですか?」

(お前のせいだよ)

 後輩が顔を覗き込んでくるので、彼は顔を逸らした。後輩は「へへーん」と得意げに笑う。

「拗ねてるんですか? 大丈夫ですよ、先輩には先輩の良さがありますから。わたしは好きですよ」

 このタイミングでそんなことを言われても全く慰めにならないのである。だって結局お前その『ダン様』とやらを選んだんじゃん。


「――良かったな」

 そう言うと、後輩ははにかむみたいな満面の笑みで、「はい」と頷いた。



(はー……つら)

 思わず天を仰ぐ。身分証届けたら『達者でな』程度のことを言ってやって別れるつもりだっただけなのに、何が悲しくて後輩の惚気なんざ聞かねばならないのだ。


 滝の脇は涼しく、森の中とあって空気は澄み切っていた。他に人の気配はない。明るい昼間である。

「イヴァリス、」

 声をかける。後輩は振り返る。……それが当たり前の日常だった。もうじき終わるだなんて考えられない。否、受け入れたくないのか。

 最後の悪足掻きみたいに、彼は静かに問うた。


「――本当に結婚するのか?」

「そうですけど、……先輩には関係なくないですか?」


 クリティカルヒット! 致死級のダメージ!

「そうだな……その通りだ」

 彼は目を閉じたまま昇天した。いや分かってる。何となくそんな予感はしていたけど、そこまで断言されると傷つくというものである。


 哀れ、何か色々と散った彼は、静かに項垂れる。

(まあ、世の中そんなものだよな……)

 別に。別に後輩のこととか何とも思ってないのである。可愛がっていた後輩のめでたい門出である。祝わなきゃいけない。自分は所詮ただの『先輩』……チッ。ただの先輩だとしたって、招待くらいして欲しかった。



 ここで時間を潰しても仕方ない。岩の上に胡座をかいている後輩をよそに、彼は素早い動きで立ち上がった。

「そろそろ行くか」

 声をかけると、後輩は「そうですね」と大きく伸びをした。

 両手の指を組み合わせ、手のひらを上に向けると頭上にぐいと両腕を突き上げる。伸びやかに背を緩く反らし、そうして後輩は、感慨深そうに呟いた。



「あーあ、お姉様が結婚したら、わたしも寂しくなるなぁ」



 …………!?


 彼は何も言葉を発しないままに足を滑らせ、滝下の泉に頭から落下した。



 ***


 後輩は腹を抱えて文字通り笑い転げていた。

「ばはははははははは! せせせ先輩、わたしが結婚すると思ってたんですか!? ……ブッいや、フフッ……だったらわたしもうちょっと神妙な空気出しますよ……ックク……あははははは!」

「……うるさいな」

 岩の上で抱腹絶倒、苔むした岩の窪みを幾度となくバンバン叩きながら、後輩は息もつけないほどに笑っている。


「イヴァリス、いい加減……」

「ヒィー! 先輩、真面目な顔して、ずっとわたしが結婚すると思い込んでついてきてたんですか!? えっそれめっちゃ面白……ハハハハハハハ!」

 今にも水の中に転げ落ちそうである。身をよじって後輩は延々と笑っている。何をしても笑われるので、彼は憮然としたまま黙り込んでいた。



 ようやく笑いの収まった後輩が、目元に浮かんだ涙を拭い、時折息をひくつかせながらも体を起こす。

「じゃあ先輩、わたしがいきなり結婚するってんで……フフッ、慌てて追いかけて来たんですか?」

「お前が身分証忘れたからだろ」

「だってその程度の小物ならどこかの街に郵送すれば良いじゃないですか。わざわざ自分で来なくても」

 後輩はド正論で真っ直ぐに見上げてくる。やや茶色がかった黒目が、面白がるような光を湛えていた。


「えへへ、結婚するとなったらちゃんと先輩のところにもご挨拶に行きますよ、きっと」

 後輩はへらりと気の抜けた笑顔で頬を掻く。――そんな日が来たら来たで辛いのだが、……まあ良い。

「ぜひそうしてくれ」

「はい!」

 大きく頷いた後輩に微笑んでから、彼は無言で遠くの空を見上げる。



 …………。


(姉かぁ〜〜〜〜)

 あまりに恥ずかしい勘違いである。いっそ殺して欲しい。思い返せば確かに誰も『後輩が』結婚するとは言っていない。彼は頭を抱えた。

「……仕事は辞めないんだな?」

「勝手に辞めさせないでください」

 後輩は唇を尖らせて文句を垂れる。その様子に、彼はこっそりと安堵のため息をついた。姉の結婚式に参列したらまたすぐに戻ってくるつもりだという。



 結婚する予定はないらしい後輩は、岩の縁で抱えた膝に顎を乗せ、肩越しに視線を投げかけてくる。からかうような笑みは彼女お得意の表情である。濡れた赤髪を頬に張り付かせて、後輩は悪戯めいた微笑みを浮かべた。その目元がやんわりと緩む。


「それにしても先輩ったら、わたしが結婚すると思って大急ぎで追いかけてくるとか、――ほんとにわたしのこと大好きなんですねぇ」


「……好きだよ、悪いか」



 口を滑らせたことに気づいたのは、その一瞬あとだった。

(待て、俺は今何を言った?)

 ぱし、と口元を押さえ、彼は恐る恐る後輩を窺う。後輩はぽかんとした間抜け面で、じっとこちらを見つめている。――その頬に朱が差した。

「ほァ…………!?」

 見る見るうちに耳まで真っ赤に染め上げて、それから後輩は突如として額を叩いた。その勢いたるや、バチーンと音が森に響いたほどである。後輩は片手で額と目元を覆ったまま固まった。


(壊れた!?)

 動く様子のない後輩の頬を数度叩いて再起動させる。後輩は我に返ってからも「えーと?」と訳が分からないような顔をしている。彼は「何かあったのか?」と『何事もなかった風』を装って場の空気を流した。後輩はあっさり流された。

「な、何でもないです……んん? 先輩さっき、なんて」

「ほら、行くぞ」

 混乱から抜けやらぬ様子の後輩の腕を引いて立ち上がらせる。後輩は「なるほど、幻聴……」と呟いて、大人しく従った。



(あ……危ねぇー!)

 彼は後輩の一歩先を歩きながら、暴れ回る心臓を上から抑えつける。まさかあんな誘導尋問(違う)に引っかかるとは思わなかった。とんだトラップである。

(イヴァリスが馬鹿で助かった……)

 後輩は一連の流れを忘れることにしたらしい。何も気にしていない様子で歩いている様子を確認すると、彼は小さくため息をついた。――人の気も知らないで。


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