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7.後輩が今すぐ逃げろと言ったので


「先輩、ありました!」

 後輩が叫んだ。指さす方向を見れば、険しい坂の下に幅の広い川が流れている。――しめた!

 坂を駆け下る愛馬を追って、彼も滑るようにして急坂を下る。火狼は怯む様子もなく追ってきた。急降下に、後輩は言葉にならない声で叫んでいる。

「うわーーーーーあぶっ!」

 いい加減邪魔だったらしい。後輩はついにネルに振り落とされて、川の中に振り飛ばされた。盛大な水しぶきが上がる。


「ネル!」

 呼べば、愛馬は河原の石を跳ね上げて走り寄ってきた。手綱を引き寄せ、鐙に片足をかけて一気に体を引き上げる。

「せせ先輩!? 置いてかないで!」

「置いてかねぇよ!」

 ぷは、と水面から顔を出した後輩が目を剥いた。酷い言い草に怒鳴り返し、彼は剣を握り直す。


 片手で手綱をさばきながら火狼の背後へ回り込み、水場へ追い込んだ。火狼はじりじりと後退する。

 視界の隅で後輩を確認した。すいすいと水を掻いて対岸へ上がるところだった。えらい。


 ついに川を背にした火狼は、四肢を地面に踏ん張って彼を見据える。低く喉の奥で唸るような音が響く。その背中の毛は今や真っ赤に逆立ち、まるで本当に火が点けられたかのようである。迂闊に近づけない。熱気が押し寄せ、彼は馬上で息を止めた。



「えーい!」

 ――と、そのとき後輩が大声を上げた。直後、水が空を切って火狼に降り注ぐ。大した量ではない。が、火狼は甲高い声を上げて身を竦める。

 見れば、後輩は川に両足を浸して、その水を掬っていた。中身を全部出して、鞄をバケツ代わりにしているらしい。「そい!」と緊張感のないかけ声と共に、再び両腕が弧を描く。


 水を被った火狼は、毛をぺたりと伏せて小さくなってしまった。赤く燃えていた背中の毛も勢いを失う。そこを見逃さず、彼は火狼を更に追い詰めた。


 為す術なく火狼は川の中へと四肢を浸す。後輩はさっさと川を上がり、鞄を振って水気を飛ばすと、いそいそと中身を詰め直していた。――それ今やんなきゃ?


 水に入り、火狼はすっかり弱体化したと思われた。彼は長い息を吐く。流石にここまですればもう追ってこないだろう。鞄の中から魔物避けの笛を取り出す。駄目押しだ。それを唇に押し当て、力一杯に息を吹き込もうとした、直後。



 ふと、火狼は、顎を反らし高く吠えた。

(遠吠え?)

 初めよりも頭数は減っている。半分以上が敗走したと思っていたが、――どこへ? 片手の数は優に超す火狼が、一斉に遠吠えを始める。その声は空気をびりびりと震わせ、梢さえも呼応するように揺れ始めたように思えた。

「何だ……?」

「エド先輩、やばい、これ、」

 後輩は対岸で、大きく目を見開いている。その表情は青ざめ、何やら尋常でない事態が発生していることを如実に表していた。


「先輩、逃げましょう!」

「分かった!」

 彼は一旦笛を首にかけ、すぐさまネルに合図を出す。愛馬は川の下流に向かって走り出した。対岸で後輩も同じ方向へと駆け出した。


「何なんだ、あれ!」

「多分……あれは救難信号みたいなものです!」

 森の空気を満たす遠吠えをかき分けるようにして叫ぶ。後輩も負けじと叫び返してきた。

「……要するに?」

「これからもっとヤバいのが来ます!」

 後輩がそう怒鳴った、直後。



 渓流を取り巻く森林が、一瞬、しんと静まりかえった。耳鳴りがしそうに張り詰めた静寂。虫さえも息を殺しているみたいだった。

「せんぱい、」と、肩越しに振り返った後輩が声を震わせる。その右手がゆっくりと持ち上がり、背後を指した。直後、後ろから落ちた影に包まれる。彼は恐る恐る振り返った。

「なるほどこれはこれは……」

 彼は小さく頷く。


 振り返った先には、巨大な炎が佇んでいた。――否、全身を火で包まれた、火狼のようなものがいる。ただ、その大きさが明らかに違っていた。火狼はそれほど大きな魔物ではない。鼻先から尾までを計っても、人間よりやや大きい程度だ。……これは火狼より圧倒的に大きい。


 四本足で立っている状態でも、その鼻先は見上げるような高さにあった。馬に乗って姿勢を伸ばして、それでようやく視線が僅かに重なる程度か。


 その双眸は、真っ直ぐに自分を見据えていた。熱く真っ赤な体とは対照的に、その視線は凪ぎ、冷ややかだ。彼はごくりと唾を飲んだ。体が震える。それは果たして恐怖だけによるものだっただろうか?

(すげぇ……)

 巨大な狼と対峙し、彼は呆けたようにその目を見つめていた。



「これは、なるほど……なるほどな」

 彼は顔を引きつらせる。魔物に対する怯えを滅多に見せない愛馬でさえ、落ち着かない様子で数歩後ずさった。

 彼は後輩を振り返って、大きく頷いてみせる。

「うん、確かにヤバいな」

「んなこと言ってる場合ですか!」


 真っ当な叱責を受けて、彼はようやく我に返った。慌てて手綱を握り直し、ネルを走らせる。対岸では後輩が死に物狂いで走っていた。しかし後輩は所詮人の足である。徐々に距離が開いていく。

(……このままだと置いていくな)

 彼は直感した。さしもの後輩も馬と同じスピードでは走れまい。同じことを思ったらしい。後輩は「先に逃げてください!」とこちらを振り返る。彼は顔をしかめた。


(俺に、お前を見捨てろって?)

 後輩に、あの巨大な狼を相手取ることなど出来るはずがない。何が『先に』逃げろだ。

 後輩の言葉を一顧だにせずに、彼は行く先を見透かす。川幅が狭くなっているところはないか、と目を細めた。――見つけた。


 ネルが跳んだ。川を渡って後輩の前へ着地すると、彼は馬を下りて後輩を待つ。走ってきた後輩は「馬鹿じゃないの!?」と悲鳴のような声を上げた。

 彼は問答無用で後輩の腕を引くと、尻を押し上げて馬に乗せる。

「行くぞ、イヴァリス」

「こんなんじゃ共倒れですよ、ばか!」

 後輩が叫ぶ。それを無視して、彼は走り出した愛馬と併走するように砂利を蹴った。



 背後では、重々しい足音が響く。地面を揺らして、あの狼が追ってきているのだ。他の火狼も鳴き交わしながらこちらへ近づいてきているらしい。


「一体何なんだ、あれ!」

「炎狼――火狼の上位種です! 恐らくはこの森を統べる魔物で、」

「ここのぬしか!」

「はい!」


 炎狼が吠えた。体が竦む。「きゃ、」と後輩が初めて聞くような、ちょっと可愛めの悲鳴を上げた。一瞬誰の声かと思った。

(そんな声出るんか)

 思わず真顔になりながら、彼は魔物避けの笛を首元から探る。あの巨大な炎狼にはどうせ効かないだろうが、そこらの火狼なら追い払えるはずだ。しかし笛を唇に押し当てて息を吹き込もうとしても、体が揺れて上手くいかない。息も跳ねる。


「先輩、貸して!」

 馬上の後輩が手を差し出したので、彼は躊躇いなく首から笛を外した。放るようにして手渡すと、彼女はすぐさま笛を唇に挟み、高らかにその音を響かせる。ピィンと鋭く張り詰めた、刺すような音色である。人間が聞いても嫌な音だが、魔物は特にこの音を嫌がる。


 背後の気配が減った。ほっと息をついた、次の瞬間。

「あっつ!」

 足下が炙られたように熱くなった。下を見やれば、何故か地面が燃えている。振り返る。炎狼が走る足下から自分たちのところまで、絨毯を引いた道のごとく一直線に炎が伸びている。

「んなのアリかよ!」

 思わず叫んでしまう。「炎狼ですもん!」と後輩は訳の分からない理由を唱えて、ネルにしがみついた。ネルは足下を燃やす炎にほとんど恐慌状態である。振り落とされないように必死らしい。



「炎狼、確か火の玉飛ばしてくるんで気をつけてくださァアアアアーッ!」

 言ったそばから後輩のすぐ上を火の玉が通り過ぎた。綺麗に回収するのはやめて欲しい。

(言えば言うほど実現しそうだからもう黙っててくれ)


 火球は頭を掠っていたらしい。後輩は赤毛をチリチリに逆立てた状態でこちらを見てくる。

「先輩! これヤバいですね!」

(ヤバいのはお前の頭だ)

 真剣な表情と爆発した髪型が視界に入り込む。こんな状況で笑わせに来るのはやめて欲しい。


 可燃物などないはずの地面が燃えるので、彼は仕方なく川縁の浅瀬を走る。さしもの炎狼も水は燃やせないらしい。ただ走りづらい。

「どうしてこんな目に……」

「多分……わたしたちが密猟の犯人だと思われてるんじゃないかと……。だとすれば炎狼まで出てくるのも納得がいきます」

「とんだとばっちりだ……」



 熱さに耐えかねたのか、ネルも川の中に入ってくる。彼は更に川の中央へ押される。それまで脛ほどの高さだった水面が膝を越した。

(やべ、水に足を取られて……)

 そう思った直後、彼は盛大にこけた。顔面から川面に突っ込み、水しぶきを上げる。

「うわー! せんぱーい!」

 後輩が叫んだ。じゃぶ、と何かが水に入る音がして、直後、水に浸かった体が引き起こされる。


「先輩、大丈夫ですか」

「何でネル降りてんだ馬鹿!」

「だって先輩が転ぶから……っきゃ」

 火球が飛んできた。彼は慌てて後輩を突き飛ばす。後輩は呆気なく川の中に尻もちをついた。


「先に行ってろ、ネル!」

 離れたところで立ち止まっている愛馬に声をかけると、彼女は迷いなく背を向けて走り去った。

「行くぞ!」

 後輩の手を掴んで引き上げる。二人は手を繋いだまま走り出した。



 ***


 炎狼は背後から猛然と追ってくる。その巨躯から想像はしていたが、それほど俊敏という訳ではないらしい。……が、たゆみなくずっと追いかけられ、地面は燃やされ火の玉は飛ばされ、彼らの体力はガリガリと削られていた。


 そして、ついに。

「やば、行き止まり……」

 後輩が息を切らして呟く。ずっと川に沿って走っていたが、その川は目の前でふっつりと途切れていた。――否、崖下へ滝として流れ落ちているのだ。

 炎狼からひたすら逃げる間に川下へ来ていた。左右は森からいつしか石の崖へと変わっている。川に削られて出来たらしいこの壁は、ほとんど垂直だ。よじ登れる角度ではない。

「詰んだ……」

 隣の後輩が、絶望的な表情で背後を振り返った。



 炎狼はゆっくりと歩みを止め、河原で立ち尽くす二人の人間を睥睨する。その視線の鋭さたるや、息をするのも躊躇う程である。

「イヴァリス、」

「はい、先輩」

 彼は巨大な炎狼から目を逸らさないままに囁いた。

「一応訊いておくけど、お前、魔物と心を通わせるみたいな特殊能力ないの?」

「ある訳ないでしょ」

 ほぼ半ギレの返事が返ってくる。焦りのあまりか、元々怪しかった敬語まで吹っ飛んでいた。なるほど、と彼は真顔で頷く。


「それなら――」

 彼は後輩の腕を強く掴んで引き寄せた。そのままゆっくりと後ろに下がると、後輩は泡を食って振り返る。

「何するんですか」

「ここから飛び降りる」

 後輩は目を剥いた。『ばかじゃないの』とその唇が動く。



 炎狼はその背を真っ赤に燃え上がらせていた。全く鎮まる様子はない。一歩、炎狼が近づく。押し潰すように唸った声は、腹に響くような低音である。

 彼は後輩の腕を掴んだまま軽く揺すった。後輩はまだごねている。

「イヴァリス、行けるだろ」

「うぅ……高くないですか?」

「あの池、結構深そうだし……腹打ちしなきゃ大丈夫だろ」

「えーん無責任……」


 炎狼が大きく口を開く。その喉奥に炎がちらついた。なるほど、今まで飛んできた火球はああやって生成されていたらしい。

「うわわわ、あれ特大ですよ」

 後輩は腰が引けた様子で呟く。炎狼の体が更に燃え上がった。熱が押し寄せ、二人は顔を歪める。――もう躊躇う余地はなくなった。


「飛ぶぞ、イヴァリス」

「はい!」

 彼は後輩の腕を放す。後輩はくるりと体を半回転させて走り出した。それを追うように、彼も肩越しに振り返ったまま助走を付ける。



「うわー! 骨折したら先輩のせいだーっ!」

「治療費くらいは払ってやるよ――生きて帰れたらな!」

 恨みがましく叫びながら、後輩が跳んだ。険しい崖の縁に右足をかけ、全身をばねの如くしならせるようにして、その小さな背中が宙に飛び出す。


 背後で轟音が響いた。炎狼は、梢さえも震わせるような凄まじい咆哮と共に、巨大な火球を吹き上げた。全てを焼き尽くすような業火が眼前に迫る。

 後輩が跳んだ、その一呼吸あとに、彼も大きく踏み切った。

(やべ、)

 吹き付けた熱風から顔を逸らし、頭を腕で庇う。見れば、頭上を火球が通り過ぎるところだった。自分の身の丈ほどもありそうな直径に、思わず戦慄する。


 馬車の中に積まれていた大量の毛皮、死体を思い出した。この火球は、密猟者に向けられた憎悪である。

 ――密猟者は、森の逆鱗に触れたのだ。

 その姿が崖の縁に消える寸前、彼は炎狼の巨躯を見上げた。炎狼は喉を反らし、高く吠えた。悲痛な絶叫だった。



 滝は絶え間なく水音を響かせる。遠くの青空で火球がかき消えた。下を見れば、緑がかった深い青色の水面が迫っている。石を投げたみたいに後輩が水の裏側へすぽりと沈み込む。その一瞬あとに、大きな飛沫が上がった。

 彼も胸いっぱいに息を吸い込み――滝壺へと足から突っ込んだ。



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