3.後輩がこれは妙だと言ったので
「うわー! わたしの身分証! 先輩いつの間にスったんですか!?」
「んなことするか、馬鹿」
肩をどつくと、後輩はヘラヘラしながら「えへへ」と頭を掻く。
「……もしかしてわたし、基地に置き忘れてた感じですか?」
「そんな感じだ」
身分証を手渡して、彼は腕を組んだ。後輩はいそいそとその手帳を鞄にしまう。
「じゃあ、先輩はこれを届けるためだけにわざわざ? 物好きなんですねぇ」
後輩は不思議そうに小首を傾げる。少年のように短く切り揃えられた髪が揺れた。
「物好き……」と彼は思わず繰り返す。
(世の中にはこんなのと結婚する物好きがいるんだもんな……)
そう思うと、何だか途端に子憎らしくなって、彼は後輩の頭を鷲掴みにした。後輩は不満げに顔をしかめる。
「……支部長が届けに行けって言ったんだよ」
「ああ、なるほど! そうですよね、先輩がそんな親切にも自主的に届けに来てくれるはずないですもん」
……後輩からの評価がだいぶ気になるところである。
まあそんなことはどうでもいい。後輩が自分に対してろくすっぽ敬意を払わないのはいつものことである。
彼はユーリアの顔を思い浮かべながら頭を掻いた。
(――まさかあの令嬢が辺境伯のお嬢様だとは)
別れ際に落とされた爆弾に、彼は思わず自身の振る舞いを思い返していた。
ユーリアと名乗った件の令嬢は、この辺り一帯の騎士組織とも縁の深い辺境伯の娘だったらしい。何でもないことのように告げられて仰天した。
ここまでのやり取りで粗相がなかったか自分を省みてしまう。多分大丈夫……なはずだ。何か失礼があったら、軽く自分の首くらい飛ぶお立場である。
気絶していた御者は街に着くまでに息を吹き返し、令嬢とその侍女が無事であることに酷く安堵していた。一旦三人とは解散したが、今度お礼に伺いたいというような旨のことを言っていた。所属と名前は伝えてある。
(まさかこれは昇給のチャンス……?)
不純な欲望を慌てて打ち消すと、彼はため息をついた。
隣を歩いていた後輩が、両手を突き上げて伸びをする。
「やー、ひと仕事終えたらお腹空きましたね! ちょっと遅めのお昼ご飯にしましょうよ」
ふらふらと、見ているだけでも危なっかしい足取りで、後輩が屋台を見て回る。その後ろ姿に、何故か苦いものが喉元に込み上げた。
「……イヴァリス、」
考えるよりも先に呼び止めていた。後輩は「はい?」と振り返った。明るい赤毛を揺らして、彼女が笑う。
――自分は、この後輩の、色んなことを知っている。
後輩がとんでもない阿呆だということ。
どれくらいかと言うと、騎士は男しかなれないと思い込んで、男装してまで就職したくらいの阿呆だということ。
別に性別は関係ないと判明したらさっさと正直に謝れば良いのに、『何か今更バレるの恥ずかしくないですか?』と馬鹿みたいな理由で未だに男装を続けていること。
頑張って低い声を出そうとしているからいつも声がカスカスで小さいこと。
自分の前でだけは高く澄んだ明るい声で笑うこと。
地声がクソデカいこと。
マジで地声が超デカいこと。
人前では自分のことを『僕』と言うこと。
その後いつもちょっと照れたみたいな、ばつが悪いみたいな顔をして小さく俯くこと。
自分の前でだけは一人称が『わたし』になること。
めちゃくちゃ笑うと左頬に笑窪が出ること。
ときどき笑いすぎで過呼吸になること。
居酒屋は好きなのに全然酒が飲めないこと。
酔っ払うとすぐ真っ赤な顔をして、決まって好きなものの話を始めること。
そんなときの目がいつにも増して輝いていること。
いつも小生意気な後輩が存外可愛いこと。
心臓に毛が生えている癖に変なところでメンタルが雑魚なこと。
結構頻繁にこっそり泣いていること。
そうしたときに何故か自分を頼ってくること。
黙って背中にしがみついてくる手が温かいこと。
――ぜんぶ、自分だけが、知っている。
昨日までそう思っていた。
「イヴァリス、ひとつ聞いてみたいんだが」
後輩は「はい」と眉を上げて笑った。彼はそれに答えるように頬を緩め、短く問う。
「――結婚式の準備は、順調なのか?」
上手く笑えているはずだった。それなのに後輩は少し怪訝な顔で自分を見つめ、……それから満面の笑みで大きく頷く。
「はい、バッチリです!」
駄目押しみたいに両手で親指を立てまでして、後輩は「えっへん」と胸を張った。
***
後輩に聞けば、今日はこの街に滞在するつもりらしい。まだ日は高いのだからさっさと次の街へ行けば良いのではないかと思うのだが、何やら思うことがあるみたいだ。
噴水広場のベンチに並んで腰掛けて、その辺の露店でそれぞれ買ってきた軽食を持ち寄る。
「……何かあるのか?」
声を低めて訊くと、後輩は「うーん」と言葉を濁して首を傾げた。
「――ちょっとだけ、引っかかることがあって」
いやに真剣な表情の後輩に、彼も思わず居住まいを正す。後輩が周囲を憚るように声を潜めるので、知らず知らずのうちに顔を寄せていた。
「さっきの、狼……魔物であることには気づきましたか?」
「……ああ」
狼の毛並みには火花が混じっていた。あれは炎にまつわる魔物によく見られる特徴である。
彼が頷くと、後輩は「さっすが先輩」と口先だけの賛辞を送って、話を続ける。
「あれは火狼といって、すごく賢くて冷静な魔物です。自分から人間に近づくことは滅多にありません。時折、冬なんかは食べ物を求めて人間の貨物を狙ったりしますけど、春先にそんなの、普通はありえない。そこらでウサギでも捕まえて食べた方がよっぽど美味しいですよ」
後輩は目をぎらぎらさせて語り出した。こうなるともう止められないので、彼は大人しく口を挟まずに耳を傾ける。
「それに、あの馬車に火狼が狙うような貨物はありませんでした。なのに、わたしが多少乱入した程度じゃ火狼たちは逃げなかった。先輩が来ても逃げませんでした」
その通りだ、と彼は頷きながら相槌を打った。
「魔物避けの笛がなければきっと街の手前まで着いてきたはずです。火狼は一度追い始めた獲物はなかなか諦めませんから。でも狙うようなものは見当たらなかった」
後輩はじっと噴水を睨みつけながら囁く。その目の奥には、およそ似つかわしくない――と本人に言ったら文句を言われるが――理知的な光が湛えられていた。
後輩の専門は魔物の生態学である。彼女は常識を含むその他ありとあらゆる分野において、圧倒的な無能っぷりを晒す。これが唯一長けた領域であるともいえた。……いや『唯一』つったら怒られるか?
その後輩が、言うのだ。
「おかしい、絶対に何かあります。あれはただの偶然の事故じゃない」
その断言に、彼は思わず体を強ばらせる。見れば、後輩は口の脇に堂々とケチャップを付けたまま、いやに真剣な顔をしていた。
「……イヴァリス、そこ」
軽く唇の隅を指し示してやると、後輩はあからさまに目を逸らして口元を拭いた。
***
身分証を届けて、一言別れを告げたら帰ってしまおうと思っていたのに、何だか雲行きが怪しい。ここで『じゃあ俺帰るわ』とでも言おうものなら、人格を疑われそうである。
(つら……)
何でつらいのかは自分でも薄々察している。ただ、それを敢えて直視しないようにして、彼は重いため息をついた。
後輩は剣を持っていない。山道で狼と対峙した際に取り落とし、拾う暇もなかった。鞄の中にいざというとき用の短剣が入っているとは言っていたが、戦闘となった場合にはいささか心許ないだろう。
基本的に街道は人間の領域である。凶暴な動物と鉢合わせすることは滅多になく、まさか魔物が現れるなんて、そうそうあることではない。
武器なんて持っていない普通の旅人が通ることの方がザラだ。帯剣していないなんて大した問題じゃないはずだった。
とはいえ……
(一人で行かせるのは、心配だな)
ふわふわと癖っ毛の赤毛が浮く。パッと見ではまだいたいけな少年のようである。魔物の不安は置いておくにしても、そこらの悪い奴の拐かしに引っかかりそうな心配があった。
目を離すとどこに行くか分からな――
「ってオイ! 待て待て待て待て」
威勢よくずんずんと花街の暗がりへ歩いて行こうとする後輩の首根っこを掴んで、彼は深々とため息をついた。
「お前が探しているのはさっきのご令嬢の馬車だろ?」
「はい」
「何でこっちにあると思った」
「宿屋が沢山ありそうだったので……」
「…………。」
無言で後輩を吊り下げながら反対方向を向かせた。後輩はつま先立ちで地面を蹴っている。
「ああいう高貴な方々が泊まる宿つったら別のところにあるはずだ」
ぱっと手を放すと、後輩が着地した。
「そうなんですか?」
「もう少し高級な宿屋に泊まるに決まってるだろ」
「言われてみれば……」
ついさっき入り込もうとした路地をまた振り返ろうとするので、彼は後輩の頭を掴んで再び前を向かせた。
***
後輩が言うことには、まずはあの馬車を調べたいのだそうだ。令嬢もその侍女も心当たりがなさそうだったことからしても、彼女らを問い詰めるのは最後で良いと考えているらしい。
この街は大きいが、複雑な街ではない。ああした令嬢が泊まるのに相応しい宿はそれほど多くなく、見覚えのある馬車は程なくして見つかった。
「――あれですよね?」
「ああ、あれだな」
物陰に二人、縦に並んで隠れたまま、そっと顔だけを出す。怪しい光景である。
宿の裏手には、宿泊客のものと思しき馬車が並んで停められている。その中に、ここまで護衛してきた馬車が停まっていた。
「馬車に何もなかったらどうする? 物取りと思われるかもしれない」
「そのときはそのときです。一緒にごめんなさいしましょう」
「……一緒に?」
「一人だけ逃げるなんて許しませんもん」
後輩は頬を膨らませた。そうじゃない、と言おうとして、やっぱりやめておく。そうじゃなくて、
(お前だけは逃がしてやろうと思ったんだけどな)
嫁入り前に馬車に侵入したことがバレて破談、なんてことになったらあまりにも悲惨だ。落ち込む後輩の姿が容易に浮かぶ。
(……ああ、そうすれば良いのか)
浮かびかけた思考を、彼は奥歯を噛み締めることで潰した。……なんて浅ましい。
「あ、誰もいなくなりましたよ!」
後輩が目をかっぴらいて囁く。「よし、行くぞ」と声をかけると、後輩は素早く歩み出て、平然と馬車へ近寄った。彼もその後を追う。
「うーん、鍵がかかってますね」
馬車を前に、後輩は腕を組んだ。彼も扉を数度揺すってみたが、開く気配はない。
「どうします? 壊しますか」
「馬鹿」
後輩をどついてどかせると、彼は鍵穴にかがみ込む。それほど複雑な鍵ではない。封印もかかっていない。これなら……
「ちょっと持ってろ」と鞄を持たせ、彼は鍵穴に手を添えた。もう片方の手には鋭い金属の棒を握り、それを鍵穴に差し込む。
「何ですか? それ」
「鍵をこじ開ける棒。構造は秘密だ」
答えると、後輩は「うわー」と呟いた。
「先輩、犯罪者みたい……ドン引き……」
「誰が犯罪者だ、誰が」
(だいたい、誰のためにこんなことをしていると思っているんだ)
手早く扉の鍵を開けると、彼は扉を引く。がちゃ、と軽い手応えとともに扉は開いた。
「ふむ……?」
後輩が腰に手を当て、馬車の中に顔を突っ込む。
「何かあるか?」
「これだけじゃ分かりませんね。見た感じ、特に変わったものはなさそうですけど」
言いつつ、堂々と馬車に足を踏み入れるので、彼は思わず周囲を確認してしまった。他に人間はいない。
馬車の中はそれほど広くない。最大で四人乗りだろう。進行方向向きの席が二人分、反対向きが二人分の座席だ。膝を突き合わせて乗ることになる。それと荷物を置ける僅かなスペースが後方にあるらしい。
後輩は座席に膝で乗り、背もたれに手をかけて後方の荷物置き場を覗き込む。「うーん」と難しい声を漏らしているので、特に何も見つからないようだ。
「乗っている人にそれほど魅力はなかったはずなんですよ」
彼はぎょっとしてその顔を凝視した。いきなり暴言を吐き始めたかと思ったが、……恐らくこれは『魔物から見て』の話だろう。
「それほど肉付きがいい訳でもないし、火狼を逆撫でするようなことをした記憶もないと言っていました。火狼が狙うような人はいません」
後輩は言いつつ、馬車を降りようとするように床に足を下ろした。途中で座席の足元を蹴ってしまったらしい。とん、と音が響いた。
その音に、ふとひとつの考えが過ぎる。彼は低い声で囁いた。
「……座席の下は?」
後輩が座席に爪先をぶつけたときに響いた音。やけに良い音だった。――まるで空洞があるみたいに。
後輩は目を見開き、すぐさま身を屈めて座面のクッションに手をかける。ぐっと力を入れたのが、白くなった指先で分かった。
その途端、座面のクッションが上に外れる。後輩が大きく息を飲んだ。
座席の下には、大きな空洞があった。ぽっかりと開いたその中を覗き込んで、血の気が引く。
「……なんて、ひどい」
後輩が囁いた。その手が震えていた。
そこには、小さな火狼が何匹も積まれている。
――咄嗟に一瞬では数えきれないような数の幼い狼が、折り重なって息絶えていた。
「どういうことだ」
彼も思わず声を震わせて、座席の下に押し込まれていた死骸のひとつを手に取る。くたりと小さな狼は大人しく抱かれた。まるで仔犬のような大きさ、生まれたてだろうか。――火にまつわる魔物が、なんと冷たくなっていることか。
「ひどい……」
後輩は両手で口を押さえ、その場にへたり込んだ。追従するように屈みこみ、その背を撫でてやる。後輩の体は震えていた。
こちらはどうだ、と向かいの座席に手をかける。座面を持ち上げて外すと、中は同じように空洞になっていた。
「うっ」と後輩が声を漏らす。彼はさり気なく後輩と座席の間に立って、中が見えないようにした。
(これは酷い)
座席の下には、毛皮が積まれている。毛並みは赤みを帯び、見る角度を変えると火花のような光が散った。――火狼の皮だ。
一体何匹の火狼を狩れば、これだけの毛皮になる? 背筋に冷たいものが走る。怖気に体を震わせた。
「……火狼は、特定保護魔法生物だな?」
後輩の神経を刺激しないよう、静かに問う。後輩は小さく頷いた。
「毛皮目的の乱獲が相次いで……十年ほど前、火狼の狩猟は禁止されました。密猟もだいぶ取り締まられたはずで……まさか、こんな……」
青ざめた後輩の顔を見て、彼はこれ以上この馬車に滞在するのは得策ではないと判断した。
「取り敢えず一旦出よう」
足が竦んだようになって動けない後輩を抱き抱える。普段なら『やめろ』と文句を言いそうな後輩は、弱々しい握力で肩に縋り付いてきた。