2.先輩は何もするなと言うけれど
彼女は鼻歌を歌いながら山道を歩いていた。春先、森の中は明らかに華やぎ、空気も緩んでほのぼの、頭上も開けっぴろげに広がって足取りも軽い。最高の旅日和である。徒歩を選択して正解だったな、と彼女はご満悦だった。お金も浮くし。
(楽しみだなぁ)
実家で待つ家族の顔を思い浮かべながら、小さく頬を緩める。誰もいない街道を良いことに、彼女は鼻歌の音量を増した。
……と、少し歩いた先、両脇を切り立った岩に挟まれた狭い道で、馬車が止まっている。自分は歩きだから脇を抜けられそうだけれど、他の馬車や馬に乗っている人なんかはきっと、つっかえてしまいそうだ。
「……何かあったのかな?」
彼女は首を傾げ、歩調を早めて馬車に近づいた。
――先輩にはよく『余計なことに頭から凄い勢いで突っ込むのはやめろ』と怒られる。
大声で呼びかけようと息を吸って、彼女は慌てて口を噤んだ。何事もないかのように馬車に歩み寄り、ひょいと背伸びをして中を覗き込む。
(ふむ?)
入口を覗き込んでいるのは、そこらの人間よりよほど大きな狼である。それに相対するようにして、馬車の中では二人の少女が抱き合って震えている。視線を横にやれば、御者台から叩き落とされたと思しき男性が倒れ伏していた。
「……?」
彼女は数秒の間、黙ったまま首を傾げる。これは、まさか……
(ばばば馬車が襲われてる!?)
彼女は逡巡した。余計なことをするな、と先輩はいつも口酸っぱく言う。自分でも、これがおいそれと手に負える事態ではないことくらい分かっている。
(どう……しよう……)
一応帯剣はしている。だけど、たった一人で何が出来る? でもこの周辺に助けを求める場所なんて……。
彼女が声もなく固まっている間にも、狼はゆっくりと、馬車に足を踏み入れる。鋭い牙が覗いた。毛並みには火花のように赤色が散る。それを見て、ハッと息を飲んだ。
(火狼だ、……一匹でいるなんて珍しい)
ただの狼ではない。魔物だ。……倒すのは難儀かもしれない。躊躇に体が強ばった。
一瞬の間を空けて、泣きじゃくる寸前のように鋭く息が吸われた。
「――助けて!」
甲高い悲鳴が山に響く。その瞬間、考えるよりも先に体が出ていた。
馬車の車輪に足をかけ、彼女は一気に飛び上がった。窓枠を手で押さえて体を浮かせ、開け放たれた窓から鞘に入ったままの剣を鋭く突き入れる。固い手応えがあった。
鞘で鼻先を打たれた狼は、低く唸り声を上げて後ずさる。彼女は窓枠を手で押すようにして後ろに着地すると、体勢を低くして鞘を握り、馬車を回り込んで来る狼を睨みつけた。
彼女は騎士である。たとえ――騎士は男性しかなれないと謎の思い込みをして、わざわざ男装して就職してしまったとしても、だ。
弱きを救い、正義を貫く。まあ元々騎士団に入った目的とはちょっと違うが……今の理念は大体そんな感じ。ここで魔物に襲われている市民を見捨てる訳にはいかないのだ。
(大丈夫! わたしも騎士になりたてのときよりはよっぽど強くなったし、そこらの魔物一匹くらい何てことな――)
馬車の向こうから、わらわらと狼が出てくる。
「ほァ!?」
彼女は目を剥いて絶句した。
***
(いや無理無理無理無理!)
彼女は大変苦戦を強いられていた。いや苦戦っつかほぼ敗北である。
(えっ何!? しつこい! 何で!?)
防戦一方、と格好良く言えばそんな感じだが、実際のところは逃げているだけ。どうしても避けられない攻撃だけを剣でやっとこさいなすので精一杯だった。
火狼は賢い魔物である。無駄な苦労を厭う。ある程度相手をすれば立ち去ると思ったのに、彼らはやけにしつこかった。――まるで何か特別な目的があるみたいに。
視界の端では馬車の中にいた少女が二人、外にまろび出て必死で御者の体を持ち上げている。まずい、と咄嗟に思った。
振り下ろされた前足を横に飛びずさって避け、少女の元へ駆ける。二人の背後には、らんらんと光る目を剥いて、大きく体を浮かせ、後ろ足で立ち上がった巨狼がいる。今にもその牙が首筋を貫こうとしていた。
「っ危ない!」
彼女は声を取り繕うのも忘れて叫んだ。少女たちは息を呑む。
手前にいた少女を突き飛ばし、間に割って入った。叩きつけるように振り下ろされた前足を流すことは出来ない。自らの剣先に片手を添え、剣の腹で前足を受け止める。
「っ!」
衝撃に耐えかねて、彼女は剣を取り落とした。丸腰になり、為す術なく少女を背後に庇う。
狼は一旦下がり、体を低くして睨みつけてきた。その目を真っ直ぐに受け止め、彼女は凍りついたように息を止める。その刹那、体をしならせるようにして、狼が踊りかかった。
(駄目だ……!)
彼女は背中にひしと抱きついてくる少女を片手で押さえながら、きつく目を閉じた。
「――イヴァリス!」
そのとき、山道に、鋭い声が響く。
***
(何で事件が発生してるんだ!?)
彼は愕然として口をぽかんと開けた。堂々と忘れ物をした後輩にそれを届けに来てやっただけのはずなのに、妙に血なまぐさい事態である。
人気のない道の先では往来を塞ぐように馬車が止まり、その周囲を囲むようにして狼の集団がゆっくりと歩いている。幾匹かが馬車に入り、どうやら中を探っているらしかった。
(何をしているんだ?)
そんなことを考えている間にも、事態は刻一刻と変わる。
少女の背後で、狼がゆっくりと体をもたげた。前足を浮かせた狼の背丈は、成人男性の身長は優に越しそうだ。背の毛並みが赤くちらつく。
(……ああ、あれは)
目を見開いた。――魔物、だ。
(俺一人じゃ、手に負えないかもしれない)
酷く苦いものを噛み締める思いで、彼は手綱を引いた。馬が足を止める。喉が震えた。
(――状況判断は冷静にしろ。共倒れになるのが一番最悪だ)
無意識のうちに、手首を返すようにして手綱を引いていた。馬が鼻先を横へ向ける。
気配を消したまま踵を返そうとした彼の耳に、悲鳴のような声が届いた。
「っ危ない!」
(イヴァリス!?)
弾かれたように振り返る。今まで馬車の影になっていて見えなかった位置から、随分と見覚えのある後輩の姿が転げ出てきた。
(あいつ……!)
あっさりと剣を弾かれ、後輩はたじたじと後ずさりながら少女を庇う。あの馬鹿、と口の中で悪態をつき、彼は強く馬の腹を蹴った。
「イヴァリス!」
呼ぶと、後輩よりも早く狼たちが振り返る。後輩に襲いかからんとしていた狼も、ぴんと耳を立ててこちらを見た。ちなみに後輩も一緒になってこっちを見ている。……あの馬鹿、何のために隙を作ったと思ってるんだ!?
「前!」
怒鳴りつけると、後輩は我に返ったように狼に向き直り、それから大きく足を振り上げてその鼻面を蹴りつけた。いきなりの反撃に狼が吠えて飛びずさる。
手綱から手を解き、腰に佩いていた剣に手を添える。左手で鞘を押さえ、右手で柄を握った。
(俺は、馬鹿なことをしている)
心中で静かに呟いた。胸の内は何故だか妙に凪いでいた。全ての音が遠ざかる。
「っエド先輩!」
後輩の声を皮切りに、あらゆる音が一気に押し寄せた。一気に剣を引き抜くと、馬から自らを引きずり落とそうとしていた狼の胴を切り裂いた。
剣を振り抜きざまに、飛びかかってきた小柄な狼を叩き落とす。たたらを踏んだ馬を落ち着かせ、彼は抜き身の剣を構えたまま狼の集団を見回した。
「イヴァリス、馬車を出せ!」
叫ぶと、後輩はすぐさま御者台に飛びついた。外には少女が二人いたらしい。ぐったりとしている男を二人がかりで何とかかつぎ上げると、馬車の中に押し込む。それから少女たちが馬車に乗り込んだのを確認して、後輩が鞭を振るった。馬車が動き出す。
鞄を片手で漁り、中から笛を取り出してから、彼も馬の腹を蹴った。狼たちは少しの間、追おうとするように走りかけたが、彼が笛に口をつけて力一杯に息を吹き込むと、体を竦めて足を止めた。――魔物避けの笛である。
小さくなってゆくその姿を視界の隅で見つめ、彼は小さく息を吐いた。
***
「で? どういうことだ」
「えっとぉ……何か襲われてたから……」
「アホ! 何で一人で突っ込むんだ」
「だって相手も一匹だと思って……」
馬車と並走しながら、彼は思わず額を押さえた。御者台の後輩は拗ねたように唇を尖らせており、いかにもばつの悪そうな表情である。
「あのぅ……」
馬車の窓がそっと開かれ、中から少女が顔を出した。個人の馬車を出している時点で分かりきってはいるが、整えられた髪や服装といい、随分と良い家の娘のように見える。もう一人は侍女だろうか。
どこぞのご令嬢は、じっと彼を見上げて告げた。
「本当に、ありがとうございました。お二人が来て下さらなかったら、私たち今頃……きっと生きてはいませんでした」
彼は少し黙ってから、ちらと令嬢を見やる。
「信用するのは早いですよ。もし俺たちが悪い奴だったらどうするんです」
すると令嬢は一瞬大きく目を見開き、それから「いいえ」と微笑んだ。
「だって、お二人は騎士様でしょう?」
気づいていたのか、と彼は気まずい顔をした。これでは鎌をかけた自分が滑稽である。「あれ、気づいてたんですね」と御者台の後輩は、先輩の機微などまるで気にも留めずに笑っていた。
一人で渋い顔をしていると、車内の令嬢はちらと彼を窺った。「心配して下さってありがとう。肝に銘じます」と堂に入ったフォローまで飛んでくる。これでは完全敗北だった。
「私はユーリアといいます。もしよろしければ、お二人の所属とお名前を教えて頂いても?」
「北西基地のエドワード・アクスィです。あれは後輩のイヴァリス・エリア」
「あら、基地所属のエリートでいらしたんですね」
ユーリアは少し驚いたように目を見開いて、頬に手を当てる。そのまま彼女は小さな声で「イヴァリス、さん……」と呟き、御者台の後輩をそっと窺った。
(……まあ、知らなければ小柄な青年に見えなくもないか)
じっと後輩に熱視線を送るユーリアから目を逸らし、彼は話題を変えた。
「それにしたって、どうしてあんなのに狙われるような事態になっているんです」
端的に問うと、ユーリアは「さあ?」と首を傾げる。
「何かいい匂いでもしていたのかしら。どう思う?」
「わたくしにも分かりかねます……」
「そうよね」
ユーリアは侍女と顔を見合わせた。何も思い当たる節がないらしい。二人から目を逸らし、彼は道の先を見た。あともう少しで次の街がある。
「次の街に着いたら、そのままそこに滞在した方が良いでしょう。急ぎですか?」
「それほどでもございません」
「なら、自分では街を出ずに先方へ書簡を出しなさい。あれは周到な、……狼です。護衛を呼ぶように」
「お詳しいのですね」
「いえ、俺はそれほどでも」
答えつつ、彼は思わず後輩の横顔を確認した。詳しいのは自分ではなく、むしろこの後輩である。何か補足でもあるかと思ったが、当の本人はまるでこちらに注意を払う様子もなく、機嫌良さげに手綱を握っている。呑気なものである。
視線に気づいたのか、後輩が振り返る。
「いやぁ、さっきは危なかったですね! ……あれ? そういえば先輩、何しに来たんですか?」
……のほほんとした表情に腹が立ったので、軽く頭を小突いておいた。