14.後輩がどちらも救うと言ったので
ゆらゆらと青い炎を立ちのぼらせて、炎狼は彼に歩み寄る。川縁で見たときは赤い炎を吹き上げていたが、今は青らしい。夜の闇の中で、その色はまるで亡霊のように浮かび上がった。
「せ、せんぱい」
後輩はおずおずと近寄ってくる。部屋の隅の方に逃げていたのに、火狼に囲まれて端に寄っていられなくなったらしい。
周囲はすべて火狼に囲まれた。逃げる場所はない。剣をとってこの炎狼に渡り合えるなどとは微塵も思っていない。彼は真っ直ぐに炎狼の目を見上げた。
「……俺を食うのか」
炎狼は黙したまま、彼を見下ろす。視線が重なった。目を逸らしたくなるのを必死に堪えて、彼は僅かに顎をもたげて炎狼を見据える。
先に顔を背けたのは炎狼だった。炎狼は首を巡らせ、ゆっくりと歩き出す。尾がしなやかに動きに追随する。
(何をしている?)
倉庫の中を歩き出した炎狼を、誰もが黙って見守っていた。炎狼の身の丈は檻を優に越し、通路の幅は明らかに足りていない。ある程度の重量があるはずの檻を、まるで空の木箱を蹴ってどかすみたいな仕草で脇に払いのける。
ほのかな燭台の灯りと月明かりだけが照らしていた倉庫の内部は、今や煌々と眩いばかりに照らし出され、まるで真昼のようだった。
炎狼が歩くたび、檻がひとつひとつ開いてゆく。口を開けた扉から、炎狼が姿を現した。檻から放たれた火狼たちは、しかしすぐさま激情を露わに牙を剥くことはなかった。炎狼に付き従うように、その後ろに一匹、また一匹と列をなしてついてゆく。
炎狼が倉庫を一巡りして戻ってきたとき、彼は炎狼が何をしていたのかを察した。床の上には融け落ちた錠が真っ赤に滴っている。鍵を開けたのではない、高熱で融かしたのだ。
三人は再び炎狼に睥睨された。周囲は火狼の群れに囲まれ、まるで火の輪に放り込まれたようだった。ユーリアは蒼白な顔でへたり込んでいる。
「炎狼、」
後輩は小さく呟いた。目の前で沈黙していた炎狼は、おもむろに身を屈める。その仕草に、後輩が押し殺した悲鳴を上げた。体を寄せてきた後輩の肩を抱いて、彼はそっと剣に手を伸ばす。
炎狼は背を丸め、矮小な人間に鼻先を寄せる。熱風が吹き付け、彼はぎゅっと目を細めた。
――と、燃えさかる炎にしか見えなかった毛並みの中から、小さな顔が二つ、ひょこりと飛び出る。それは炎狼の毛並みからぽとりと床に落ちると、転げるようにして足下へ駆け寄ってきた。
後輩は目を見開き、かがみ込んで手を伸ばす。抱き上げられた小さな火狼は、まるで褒めて貰うのを待っているみたいに得意げに鳴いた。その調子っ外れなことといったらこの上なく、――こんなに鳴くのが下手くそな火狼の仔なんて、そうそういるはずがない。
「お前……」
彼は足下にまとわりつく、もう一匹を掬い上げた。額の毛が逆立っているのはどうしても直らないらしい。目を合わせるようにその胴を両手で捧げ持つと、火狼の仔は彼の鼻先を舐めた。
「言ってくれたの? わたしたちいい人だよって教えてくれた?」
後輩は小さな火狼と額を合わせながら、息混じりに囁く。その目から雫がぽろりと落ちると、火狼は頬を舐め取った。
――それは、馬車から助け出した、生き残りの火狼だった。この二匹が炎狼と共にあったというだけで、何となく行ける気がしてくる。思わずちょっと笑顔で炎狼を見上げたらキツく睨みつけられ、彼はすぐに俯いた。
(ちょっと調子に乗ってしまった)
手の中からぴょんと火狼が降りる。そのまま炎狼の足下に戻り、小さな火狼は尾を振って短く鳴いた。
「てっきり、わたしたち頭から食べられるものだと……」
炎狼の頭の上に火狼を戻しながら、後輩が呆然と呟く。小さく頷き、「燃やし尽くされるかと」と漏らした直後、足下に小さめの火球が打ち込まれた。二人が慌てて飛び退くと、炎狼の目の前には床にへたり込んだままのユーリアが残される。
「あ……」
ユーリアは声もなく炎狼を見上げた。炎狼の視線が、これまでとは比にならないほどに鋭く眇められた。
火狼は全てを承知らしい。炎狼の背後に付き従っていた火狼たちは、ユーリアを取り囲むように足を運ぶ。狭まる火の輪に、ユーリアは立ち上がることも出来ないままに体を竦めた。
(このままでは、……いや、)
まだ事態は判然としていないが、一連の火狼密猟について裏で糸を引いていたのは、恐らくこのユーリアである。彼は言葉もなく立ち尽くす。
(復讐を阻むのは、あるいは無作法なことなのだろうか)
ユーリアは見るも哀れなほどに青ざめ、全身を汗に濡らし、その頬には涙が伝っている。魔物に人間の道理は通じない。……そのはずだ。
(数多の仲間の命を奪われ、皮だけを持ち去られて、……子どももむごたらしく連れ去られ、狭い箱の中でほとんどが息絶え、沢山の同胞が檻の中に閉じ込められ、)
火狼が燃え上がる。火の中でも焼けないその体は、もはやほとんど業火と化していた。その中心に追い詰められたユーリアが、細い悲鳴を上げる。
後輩は両手で口を押さえ、目を逸らしたいのを堪えるように、声を押し殺していた。その首が小さく振られたのを見て、彼はゆっくりと息を飲んだ。
(……何を考えているんだ、俺は)
彼は後輩の腕を掴んだ。後輩ははっとしたようにこちらに視線を向ける。途方に暮れ、泣き出す手前の迷子のような顔をしていた。
「行くぞ」
そう声をかけると、「でも、」と後輩は心細げに眉根を寄せる。火狼を止める前に、これまで彼らが味わってきた惨状を思い出してしまうのは、分からなくもない。
(でもこのままじゃお前、また後で泣くんだろ)
彼は後輩を真っ直ぐに見据えた。
「――騎士が守るべきは何だ。お前が救いたいのは何だ」
短く問うと、後輩は大きく目を見開く。「わたしは、」とその唇が動いた。
「わたしは、……わたしは、」
「見失うな。どこに足を置くのか間違うな」
後輩は、いささか魔物に感情移入しすぎるきらいがあった。それに引きずられて、後輩の悪癖が自分にも移っていることは自覚していた。
だが二人して魔物に肩入れしすぎるのはあまりに危ういだろう。
後輩はやっとこさ答えた。
「……騎士は、人を守ります」
「お前は? イヴ、お前はどうしたいんだ」
目の端でユーリアを窺いながら問うと、後輩はくしゃりと顔を歪めた。彼は淡々と後輩に迫る。
「お前は欲張りで我が儘な奴なんだよ。俺はそれを知ってるから、……言えよ」
「わたし、」
後輩は彼の両腕を掴んで、縋り付くようにしながら叫んだ。
「――わたしは、どっちも、救いたいんです……!」
「よし分かった」
彼は後輩の赤毛をかき混ぜ、それから躊躇いなく歩き出す。「せんぱい、」と後輩が呟いた。呼びかけを無視して、彼は炎狼を見上げる。
「炎狼!」
叫ぶと、それまでユーリアを見下ろしていた巨狼は顔を上げた。超然とした視線に臆するのを堪えて、彼は口火を切った。
「……今回のことに関して、人間の一人として、心から詫びる。なかったことにして貰おうなどとは思わない。だが、――人には、人の理がある」
炎狼は反応を示さなかった。彼のこめかみに汗が伝う。それは本当に熱によるものだっただろうか。
「ここで、その人を殺せば、再び禍根が生まれる。また巡る。俺たちは必ず、いずれ相まみえることになる。そのときは全てが悪化している。頼む、……俺たちにあなたを殺させないでくれ」
炎狼が瞬きをした。明らかに『聴いている』。そんな確信があった。炎狼がたとえこちらに通じる声を持たずとも、この聡い生き物は確かに人の言葉を解していた。
彼はゆっくりと、炎狼の前に頭を垂れる。
「俺たちが助けたあの二匹に免じて、……お願いします」
「わたしからもっ!」
背後から駆け寄ってきた後輩が、がばりと腰から丸まるようにして頭を下げた。
「図々しいことを言っているのは分かってます、でも、それでも……!」
後輩は床に向かって叫ぶ。目頭から勢いで涙が飛んだ。
「わたしは、これからも、みんなと一緒に生きていきたいんです!」
それは、獣の雄叫びとさして変わらないような、張り裂けんばかりの絶叫だった。否、この場にいる誰もが等しく獣だった。
炎狼は、沈黙したまま、反応を示さなかった。けれど火狼たちはぴたりと動きを止めた。輪の中でユーリアは呆然としたように肩で息をしている。
「ユーリアさん、」と後輩は静かな声で囁いた。
「あなたの言い分に則って答えるのならば、――ええ、これは間違いなく生存競争です。火狼も人間もみんな自然の一部。わたしたちが為すこともすべてが摂理。その上でわたしはあなたに伝えたいんです」
火狼の輪が割れた。後輩はゆっくりと歩みだし、ユーリアに手を差し伸べて立ち上がらせる。向かい合って視線を混じらせ、後輩は微笑んで、……そしてユーリアを左の拳でぶん殴った。
「きゃ、」と床に転がり込んだユーリアを見下ろして、後輩が押し殺した声で言葉を叩きつける。
「あなたがしたことは、わたしたち人間という種を脅かす行為です。わたしがあなたを止めるのは、わたしたちの生存のため」
ユーリアの腕を乱暴に掴んで引っ張り上げ、後輩はその鼻先に顔を寄せて叫んだ。
「――この、ばか!」
熱が引いた。そう思って顔を上げれば、炎狼が緩慢な動きで踵を返そうとしていた。我に返ってみると、外では大変な大騒ぎになっている。武装した騎士たちが駆けつけたものの、歯を剥き出しにした火狼に怖じ気づいているらしい。
炎狼の後ろ姿が遠ざかる。それを囲むように、無数の火狼たちが歩いて行く。夜の街に、燃える狼たちが大きな列を作った。
「……これで、良かったんですかね」
後輩が、その肩をこつんとぶつけてきた。「さあな」と彼は目を伏せた。
「でもまあ、……お前、言ってただろ。『俺たちが平穏に過ごせているのは、ひとえに寛容なお隣さんの厚意による』って」
「そんなことも言いましたね」
後輩は苦く笑う。その手が自らの頭をかき混ぜ、やるせなさを滲ませた息を重たげに吐き出す。
「全力で信頼に応えなきゃですね」
「次に何かやらかしたら、今度こそ見逃しては貰えないだろうからな」
そんなことを言いながらユーリアに視線を向けて、彼は息を飲んだ。
ユーリアは小さな声で呟く。
「――シム、ティム、リム、」
床に座り込んだユーリアの頬を、三匹の火狼が必死に舐めていた。その体に頭をすり寄せ、甘えるように高い声を漏らす。
小さな狼だった頃からユーリアが育てたという三匹だ。既に成熟した狼が、哀しげにユーリアにその頭を撫でられていた。ぺたりと伏せられた背の毛。少女が決して火傷しないようにと抑えられた熱が、柔らかな温もりとなって空気を暖める。
少女が決して手を切らないように。決して火傷しないように。決して転ばないように。牙を出さず、火を抑え、優しく寄り添っていた三匹は、やがてその抱擁を解いた。
「行くの?」
ユーリアは掠れた声で囁き、手を伸ばす。数秒前まで、まるで仔犬のごとく甘やかな雰囲気を漂わせていた三匹は、音もなくユーリアの側を離れた。
夜の闇にすっくとその四肢を突き立て、しなやかな体を冷えた空気に晒す。ユーリアはよろめきながら二本の足で立ち上がった。
胸元に三匹をかき寄せ、ユーリアが頬を濡らす。
「――――元気でね、」
……ごめんね、と続いた言葉に、火狼は応えなかった。三匹の火狼は、静かに、ないた。




