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13.後輩に今すぐ逃げろと言ったけど



 ――イヴァリス・エリア。

 それが後輩の名前だった。……彼の知る後輩の名だった。


「えっと……どういうことだ?」

 頭痛がしてきそうな気分で額を押さえると、後輩は「えーと」と呟く。

「まあ、知ったからって何かある訳じゃないんですけど……」

 後輩はあからさまに嫌そうな顔をして、小声で告げた。


「……イヴ=アリセリア・イーチェス。それがわたしの名前です」


 渋々と言わんばかりの声と表情である。彼は「なるほど」と頷いた。

「……で?」

「こっちの台詞ですね」

 顔を見合わせ、それから二人揃ってユーリアを振り返る。ユーリアは大きく振りかぶった剣が空振りに終わったみたいな顔で立ち尽くしていた。



 少しの沈黙を挟んでから、後輩が口を開く。

「あのー……まあ、はい。確かにわたしはユーリアさんの仰るとおり、そういった身の上なんですけど……」

 後輩は困惑を前面に出しながら片手を挙げた。「まあでも、ちょっと良い感じのおうちに生まれついたのはユーリアさんも一緒というか……先輩、これ何て答えれば良いんですか?」

 訊かれても困る。顔を見合わせて沈黙してから、後輩はぱちんと指を鳴らした。

「……お、おそろいですね!」

「絶対違う」

 分かんないけどこれが最適解ではないことは分かる。後輩はあたふたと言葉を探した。


 ユーリアはこれ以上待っていても仕方ないと踏んだらしい。肩を竦め、頬を吊り上げる。

「別に、だからといって何か申し上げる訳ではございません。ただ……王太子殿下とのご結婚を控えたお姉様がいらっしゃるのに、まさかその妹が男性の格好をして剣を振り回しているだなんて……なんて素敵な醜聞ですこと」

「うっ!」

(……王太子!?)

 何か今変な単語が聞こえた。それに対して突っ込むより早く、ユーリアは言葉を続ける。


「それに、確かアリセリア様は……学院で花卉の研究をなさっていて、今は小さな花園を運営しているというお話だったのでは?」

「大嘘こいてんじゃねぇか」

「やめて……恥ずかしい……」

 後輩は両手で顔を覆ってしまった。彼は思わず後輩を振り返る。男装して働いていることを言っていないばかりか、お花のお世話をしているという嘘までついていたらしい。後輩は「だって……」とぶつぶつと言い訳を垂れていた。



 ユーリアは超然と笑って、片手をひらめかせる。

「私を捕らえるのも結構ですが……そうなれば、ついうっかり、口を滑らせてしまうやもしれませんね」

「……わたしを脅すおつもりですか」

 後輩は唸るように問うた。ユーリアは答えなかった。ただ、ゆっくりと笑みを深めるのみ。


「ね、アリセリア様。賢いあなたなら、どうすれば良いかおわかりでしょう?」

(いや、こいつは結構馬鹿だぞ)

 案の定、後輩は隣で「え……分かんない……」と小声で漏らしている。

「要するに、アレだよ」

 彼は腕を組んでいる後輩を小突いた。「バラされたくなかったら何も見なかったことにしろってやつ」

 言うと、後輩は動きを止めた。反芻するように瞬きを繰り返し、それから顔を上げる。


 後輩はカッと目を見開いて、「それは出来ません!」と首を振った。握りしめた拳を震わせて、強い声音で告げる。

「どんな風に脅されたって、わたしはこんな所業を決して見逃したりなんてしないわ!」

「たとえ身分証を偽装していることが詳らかにされても?」

「うッ」

「お前、弱みを握られすぎじゃないか?」

 後輩は勢い込んですぐに崩れ落ちた。「だから男装なんてやめておけって言ったんだよ」と肩を叩くと、がくりと項垂れる。



 よろよろと立ち上がって、後輩は強い眼差しをユーリアに据えた。

「……別に、構わないです。家族の縁を切られたって、わたしも咎を受けたって」

 彼女は周囲を取り囲む檻の数々を見回した。その表情が痛ましげに歪む。狭い檻の中からは数え切れない火狼がこちらをじっと観察していた。


 後輩は決然と告げた。

「わたしは、あなたのこの所業が許せない。あなたの傲慢なその考えも、それを実行に移してしまえる非道なところも、ぜんぶ、……全部です」

 ちょっと決め台詞っぽい言葉に、思わず彼は後輩の身の回りをざっと確認した。今回は何か面白いことにはなっていないらしい。良かった。



 ユーリアはしばらく、その言葉を反芻するように視線を斜め下に投げていた。短剣を持たない方の手を反対の肘に添え、不思議そうに目を持ち上げる。

「――傲慢? どうしてそう言えるの?」

 後輩は淀みなく答えた。

「人間が、魔物を管理する……できるという考えが、自然の領分を大きく逸脱しているからです」

「その考えは、人間を他の生き物とは違うものだという認識に基づいているのではなくて? そちらの方がよほど傲慢よ。私たちもまた自然の一部であることには変わりないし、私たちが為すことも全て自然の摂理。弱肉強食と何が違うの? 狼に食われる兎のために毎回涙を注いでいたら、きりがないでしょう」


 ユーリアも表情を変えることなく平然と答えを返す。まさに立て板に水、これがこの場で考えられた答えではなく、身に染みついたものであることを伺わせた。後輩は気圧されたようにしばし黙り込む。

 弁舌をふるうことに関しては、あきらかにユーリアの方が長けていた。後輩は今にも泣き出しそうな幼子のように顔を歪ませた。声が喉に絡んだみたいに、後輩は何度も唾を飲んだ。そうして、静かな声で問うたのだ。


「生存競争だと言いたいの? ……これが? こんなにも醜い振る舞いが?」


 倉庫の広い床に並べられた檻を振り返りながら、後輩は顔を歪める。ユーリアは「ええ」と頷いた。


 後輩はしばらく沈黙した。それから、ゆっくりと彼を見やる。

「帰りましょう、エド先輩。これ以上相手をしていられません。さっさと通報した方が世のため人のため魔物のためです」

「そうだな」

 頷き交わして踵を返しかけた二人に、ユーリアが声をかける。



「――まさかこのまま返すとお思いでしたか」

 そんな言葉と共に、がちゃんと金属が動く音が響いた。剣呑な言葉と物音に、彼は身構えて振り返った。後輩も一拍遅れで肩越しにユーリアを見据える。


 ユーリアの傍らにあった檻が、その扉を大きく開いていた。……中にいるのは、三匹の火狼。

「この子たちは、まだほんの小さな頃から私が大切に世話を見てきた大切な子たちなんです。右から、シムとティムとリムです」

 ユーリアはそう言って微笑み、檻からゆっくりと歩み出てきた火狼の頭を撫でる。火狼はまるで従順な犬のようにユーリアの手に頭を擦り付けた。

「さあ――狩りの時間よ」


 囁いて、ユーリアが手を打ち鳴らした直後、三匹は弦から放たれた矢の如く飛び出した。

「ぎゃあ!」と後輩がどこぞの令嬢とは思えない声で叫ぶ。振り返って走り出すほどの間もなかった。彼は咄嗟に後輩を後ろに突き飛ばす。場所が入れ替わりになった。肩に火狼が飛びかかる。

 踏ん張ることなど出来るはずもなかった。彼はそのまま床に押し倒される。肩に鋭い牙が食い込み、思わず呻いた。


「先輩!」

 悲鳴のような声で叫んで、後輩が火狼を押しのけようとする。火狼は倒れた彼の背に乗ったまま動かない。四本の足でしっかり背中を踏みつけられ、残る二頭も周囲で低く唸っている。

 今にも首筋に噛みつかれ、喉笛を噛み千切られると思った。彼は頭を抱えて目をつぶる。

(避けられない……!)

 火狼の熱い息が首にかかった。後輩が床に倒れ込む音がした。



 ――そのとき、どこか遠くから、甲高く鋭い笛の音が空気を割った。


 火狼たちはぺたりと耳を伏せ、動きを止めた。打ち据えられたように体を縮め、低く唸っている。見れば、檻の中の火狼たちも同じように苦しんでいた。彼が背の上の火狼を押しのけても、火狼は身動きが取れないようになすがままになっている。

(これは……)

「魔物避けの、笛……?」

 後輩が呆然としたように呟いた。直後、激しく鐘が鳴らされる。鐘楼からだ。「なに?」とユーリアが声を漏らす。彼は黙ったまま鐘の音に耳を澄ませていた。


 打ち鳴らされた鐘の回数を数える。……五回。それに気づいた瞬間、彼も後輩も大きく息を飲んだ。

「魔物の襲撃……!」

 彼は慌てて立ち上がる。後輩は険しい表情で「これって、もしかして」と彼を振り返った。同じことを考えていたらしい。

 ――きっと、狙いは、この大量の火狼だ。


「逃げましょう、ユーリアさん!」

 後輩が叫んだ。その残響が消えるより早く、夜の空気を裂いて獣の遠吠えが届く。紛う方なき狼の声である。それに呼応するように、倉庫の火狼たちは一斉に顎をのけぞらせ、天に向かって声を張り上げ始めた。その間にも笛の音は続く。鐘楼では鬼気迫った様子をありありと示しながら、何度も何度も鐘が打ち鳴らされる。


「まずい……取り返しのつかない大災害になる……!」

 後輩は大きく目を見開き、周囲を見回した。



 昨日、後輩は言っていた。

『街にかかっている魔物避けの結界も、炎狼がその気になれば簡単に壊せる』と。しかし……この街を囲む城壁は強固である。面倒を厭うとされる火狼や炎狼が、わざわざそんな壁を突破してまで人を襲うなど、有り得ないと思っていた。――この倉庫を見るまでは。

 無数の火狼を擁した倉庫。生きている火狼だけでもこれだけの数がいるのだ。……毛皮としてここに運び込まれた火狼はどれほどいることか。

 そして、それを火狼が永遠に放っておくはずがないのだ。


「炎狼が、ここに来るのか?」

「恐らくは、」

 ……森の主。小さな小屋ほどもあるような巨躯を赤々と燃え上がらせた魔物が、怒り狂って街へ侵入してきたというのか。


「逃げるぞ!」

 彼は通ってきた倉庫の通路めがけて走り出す。後輩もそれに追随した。

 恐らくそれほど時間もかからずに、ここに火狼がやってくる。そのとき自分たちがここにいたら巻き添えである。これ以上何かに巻き込まれるのはごめんだ。


 倉庫の一番大きな部屋を出ようとしたところで、後輩が振り返る。

「ユーリアさんが、まだ」

「ほっとけ」

「でも!」

 ユーリアは茫然自失とした様子で、一斉に吠えだした火狼たちを見つめて凍り付いている。後輩が制止を振り切って走り出した。止める間もなかった。後輩が駆け寄り、その腕を掴んでも、ユーリアは動く気配がない。

「ユーリアさん!」

 耳元で叫ばれて、ようやくユーリアは我に返ったように瞬きをする。その唇が何事かを呟くが、遠吠えや笛、警鐘にかき消されて言葉は聞こえなかった。



 後輩はほとんど引きずるようにしてユーリアを連れてきた。

「行くぞ!」

 声をかけると、後輩は大きく頷く。彼は先に行って、通路へ繋がる扉に手をかけようとした。指先が扉の溝に触れようとした瞬間、引き戸だったはずの扉が内側へ倒れてくる。

 咄嗟に後ろに跳んで避けると、その向こうには背を燃え上がらせた狼の群れがいる。ざっと数えて十匹はくだらない。


「ゲッ!」

 後輩が叫んだ。ユーリアが細い悲鳴を上げて尻餅をつく。彼は火狼と対峙したまま、ゆっくりと息を吸った。


 火狼は静かに一歩踏み出す。彼は後輩を背に庇いながら後ろに下がった。その後輩は背後にユーリアを庇っている。縦に三人並んで何をしているのか。冷静に考えれば滑稽な光景だが、そんな余裕はなかった。


「ユーリアさん、この部屋に他の出口は?」

 後輩が小声で囁く。ユーリアは「いいえ、ここだけ」と消え入りそうな声で答えた。彼は舌打ちしたいのを堪えて、左腰に両手を回す。

「……イヴァリス、剣の準備をしろ」

 後輩が慣れた長剣を所持していないことが悔やまれた。動きの鈍い人間相手ならまだしも、火狼に対して武器を短剣しか持っていないのはあまりに厳しい。


「ここの通路を突破する。お前はそこのご令嬢を連れて真っ先に外を目指せ」

 後輩はこの期に及んで『あなたを見捨てることは出来ない』といったような世迷い言を口にはしなかった。二人がかりで対抗してどうにかなる相手ではない。……共倒れが最も避けるべき事態である。

「道中で閂を外してやれ」

「……分かりました」


 後輩は沈黙を挟んで頷く。彼は後輩に背を向けたまま、薄らと微笑んだ。

「行くぞ、イヴァリス。……それともアリセリアと呼んだ方が?」

「イヴァリスで結構です。それかイヴ」

 後輩は笑みを含んだ声音で答える。「分かった」と彼は頷き、一気に剣を抜いた。ぎらりと月明かりを反射した剣先に、火狼が低く唸る。


(骨くらい残ったら良いな)

 彼はぼんやりとそんなことを考えながら、数歩後ろへ足を運ぶ。後輩とユーリアは横に避けた。火狼が一匹、また一匹と部屋の中に入り、彼を取り囲むように広がった。

(行け)

 後輩に目配せをしたが、何故か後輩はその場から動こうとしない。ユーリアは何故か明後日の方向を眺めている。

(はよ行けって)

 後輩も一緒になって変な方向を見ている。一体何を見ているのか気にならない訳ではないが、生憎目を逸らすことは許されない状況である。



 ついに火狼が彼に飛びかからんと後肢を張り詰めさせた、その瞬間のことだった。

「熱っ!」

 とてもではないが火狼とのんびり剣を交えていられないような熱が、頭上を過ぎた。頭頂部の皮膚がヒリヒリした。

「え? ……え?」

 思わず辺りを見回すと、それまで周りを囲んで低く唸っていた火狼たちが動きを止めている。ついに視線の先を追う。


「あれは……!」

 後輩がごくりと唾を飲んだ。


 視線の先、――先程まで壁があった場所には、ぽっかりと天井まで続くような穴が開いている。熱に溶け爛れたように石造りの壁が泡立っている。それだけで、どれほどの熱が放たれたのか分かるというものである。

 そしてその向こうには、見上げるような大きさの、一頭の狼。それを囲むように無数の火狼が佇んでいる。

(炎狼、)

 彼は押し寄せる熱に目を細めながら、呆然とその名を胸の内で呼んだ。燃える巨大な狼は、その炎に似つかわしくないような冷然とした瞳を持っている。その眼差しを突きつけられるたびに、胸の底がどこか覚束なくなった。命の危険や恐怖、そんな単純なものではない。得体の知れなさ、畏怖、羞恥。その目で見据えられるたび、彼は諸々の感情に襲われた。立っていることもままならないほどだった。


 炎狼が、一歩、その前肢を踏み出した。倉庫の中はいつしかしんと静まりかえっていた。檻に入れられた火狼たちも、まるで固唾を飲んでいるかのように沈黙して炎狼を待つ。

(まるで王者の御成りだ)

 彼は身動き一つ出来ないまま、倉庫の中央で炎狼を待ち構えた。



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