11.後輩が追いかけましょうと言ったので
狭い路地裏で横に並んで歩くことは出来ない。そんなことをしたら片方の肩が削れてしまう。
「先輩が前だとわたし何も見えなくて歩きづらいんですけど」
「文句言うなよ」
彼は素っ気なく苦情を棄却した。……何かあったときにイヴァリスを盾にする訳にはいかないのである。
「けちけちしないでくださいよぅ」
後輩はぶつくさ文句を言って、脇腹をつついてくる。
「ちょっ、おいやめろって」
「えいや」
路地裏の地面には、何が入っているとも知れない木箱がちょくちょく積んである。それを避けるように歩くだけでも面倒なのに、後ろから攻撃されては歩きづらいことこの上ない。
「イヴァリス、いい加減に――」
しろ、と振り返って、そこで彼は動きを止めた。
暗く湿った路地裏の先。そこを、見たことのある少女が横切った。
「せんぱ」
不思議そうに首を傾げた後輩の口を塞ぐ。後輩の声はよく響くのである。片手で口元を覆われた後輩は、不思議そうな顔で彼の視線を追った。
「へんぱい、何かあったんでふか」
もごもごと小声で囁いた後輩に、彼は「いや、」と呟く。
(見間違いか?)
眉をひそめて、彼は視線を落として考えこんだ。
今しがた見えた、固い表情で歩く少女の姿。――それは、ユーリアに酷似していた。
そのことを伝えると、後輩は「ユーリアさんが?」と目を見開く。
辺境伯のご令嬢。火狼に襲われていた被害者の一人である。街で待機した方が良い、と言ったはずなのに、どうしてこんなところに?
「大丈夫かな……何かに巻き込まれているんでしょうか」
顔から手を外すと、後輩は不安げな顔で呟く。彼も頷いて、ユーリアらしき人影が去った方向を見やる。
ここは滅多なことがなければ人が歩くこともないような裏路地である。そんなところを、何の理由もなく、高貴なお嬢様が――それも一人で、出歩くはずがない。
「エド先輩、ユーリアさんを追いましょう」
後輩は彼の手を引いて、来た道を振り返る。彼は頷いて、そして二人は足音を殺して道を戻り始めた。先をゆくのは後輩である。
(――ああ、そういえば)
彼は歩きながら、昨日見た光景を思い出していた。
(二つ前の街で、服を買っていたとき、)
あのときも、自分は、ユーリアを見つけたのだ。あのときユーリアは一体どんな顔をしていただろう。困ったような顔はしていなかったか? そう思って記憶を浚うからそんな風に思えるだけだろうか。
後輩は難しい顔で、「まさかこんなところでユーリアさんと出くわすなんて、予想だにしませんでした」と低い声で囁く。
「ああ」と彼も頷き、細い道を歩く遠い背中を見据えた。
ユーリアは路地を躊躇いなく歩いて行く。道に迷う様子はないが、時折臆したように周囲を見回していた。
ユーリアの不安げな様子に、後輩が眦を下げる。
「話しかけてあげますか?」
「いや……俺たちは土地勘もないんだ、慎重に行こう」
「今のところは出来るだけ距離を取る感じですか」
「そうだな。……行く先も知りたい」
低い声で囁き交わし、ユーリアを追う。もしその身に危険が迫ることがあればすぐに駆けつけられる、けれど気づかれない程度の距離を保って、二人は暗い裏通りを縦横無尽に潜っていった。
***
ユーリアを追ってたどり着いたのは、街外れの倉庫街だった。
「どうしてこんなところにユーリアさんが……」
後輩は呆然としたように呟く。
等間隔に立てられた街灯が、長い影を落とす。辺りを見回しながら歩く令嬢の輪郭を、影絵の如く浮かび上がらせ、光は震えるように点滅した。石畳にこつこつと足音を響かせ、ユーリアは規則的な足取りで一つの巨大な倉庫へと歩み寄った。
「あそこに入ったな」
あまり近づけなかったから状況ははっきりとは分からない。けれど間違いなく、ユーリアは扉を中から開けた男に迎えられて倉庫の中へ入っていったのだ。
「ユーリアさんが危ない……! 早く入りましょう」
後輩はもうすっかり、ユーリアが何か怪しい団体に誘い出された体で話を進めている。
「まあ待て」
後輩は鼻息を荒くして、今にも倉庫の中に突撃しそうだ。それを手で制して、彼は後輩の前に出た。
「まずは中の様子を見てからにしろ」
言いつつ、中が覗けそうな窓を探して首を巡らせる。倉庫の壁沿いに歩くと、頭の上に小窓が見つかった。恐らく換気用の窓だろう。
後輩は背伸びをして、窓を見上げる。
「先輩、覗けますか?」
「お前は俺の身長を過信しすぎだろ」
流石にあれは無理である。その場でジャンプすれば窓枠に手をかけられる程度の高さだ。
「でも、他に窓らしきものは……」
「見当たらないな」
彼は腕を組んだ。裏に回って窓を探しても良いけれど、あまりウロウロするのは望ましくなかった。
「……イヴァリス」
彼は後輩に背を向けてその場にしゃがんだ。後輩はしばらく黙り込んでから、「なるほど」と額を押さえる。ちらとこちらに視線をやって、後輩が唇をへの字にした。
「……ごねても駄目なんでしょう?」
「駄目だ」
「はーい……」
真顔で頷くと、後輩は不満げな顔で「失礼します」と肩に手を置いた。
後輩を背負って立ち上がる。「見えるか?」と訊くと、背の上で後輩は「あー……」と言葉を濁した。
「……見えないのか」
「見えそうで見えないというか、あともうちょっと頑張れば窓枠が目線と重なるといいますか、」
「なるほど、見えてないな」
素早く頷いて、彼は後輩を下ろす。
「……イヴァリス、肩車だ」
後輩はここに来る道中で、随分と肩車に拒否反応を示していた。だが他に手段は思いつかない。周囲に脚立は見当たらないのだ。
「い、いやです」
「どうしてだ? 何か理由があるのか」
「……トラウマがありまして」
後輩は目を逸らす。
(トラウマ?)
彼は首を傾げた。後輩は言いづらそうに目を伏せている。
「じゃあどうする? 俺のことを担ぐか」
「いや、それは勘弁ですね」
即答である。
後輩は小さくため息をついた。
「わたし、ずっと、肩車に憧れていて……、でもお父様に頼んだら、子供みたいなことを言うなと怒られたんです」
「へえ」
(案外厳しい家庭で育ったのか?)
腕組をしながら相槌を打つと、後輩はさらに苦しげな顔になる。
「それを見ていたお兄様が、あとでこっそり来て下さったんです。僕が肩車してあげようかって。でも……でもそうしたら、」
「そうしたら?」
後輩は苦渋に満ちた表情で、低く囁いた。
「――お兄様が、ぎっくり腰に」
へーえ、と彼は薄目で頷いた。
「……ちなみにそれはいつの話なんだ」
「二年前」
「そりゃ怒られるわ」
彼は真顔で首肯した。それは納得である。「肩車はもっと小さなときに堪能するものだぞ」と言うと、後輩は「やっぱりそうですか?」と舌を出した。
肩を竦めて、彼はその場にしゃがみこむ。
「良いよ、ここには親もいないんだし、怒られることはないだろ」
「でも先輩が」
「流石に人ひとり担いだくらいでどこか痛めるような鍛え方はしていないつもりだ」
「……治療費はわたしが払いますね」
後輩は重々しく頷いた。病院送りは確定らしい。
「壁に手をつけろ」
重心が上に行く分、どうしたって肩車は不安的になりやすい。後輩は大人しく従った。
「上げるぞ」
「わたし、これが人生初の肩車です……」
「デビューおめでとう、……行くぞ」
足を踏ん張って後輩を持ち上げる。後輩は「見えた、」と囁いた。
「……中はどうなってる?」
「暗くてよく分からないです。でも、何か……火が焚かれているみたいな……ううん、違う、」
後輩はぶつぶつと呟き、窓枠に手をかけて身を乗り出す。
後輩の片手が、頭の上に置かれた。恐らく自分では何も意識していないのだろう、頭頂部の髪がぎゅっと握られる。ハゲるからやめて欲しい。
「動いてるんです、火が、――――ああ、」
後輩が不意に、大きく息を飲んだ。はたりとその指先が窓枠から滑り落ちる。
「せんぱい、どうしよう」
後輩が、頭の上に身を伏せた。迂闊に身動きを取ることも出来ず、彼は目線だけを持ち上げて頭上の後輩を窺う。
後輩は両手で顔を覆っていた。
「ここだ、きっと。……目的の場所はここです」
ユーリアがここに入ったのは確認済みである。「まあ、……そうみたいだな」と頷くと、後輩は「違う」と呻いた。
「わたしたちの、探していた場所。――ここが、火狼が運ばれてくる、先です」
彼は暗闇の中で目を見開いた。
「ひどい……みんな檻に入れられて、」
後輩はそっと体を起こし、窓枠に両手で縋り付くようにした。
「誰だ!」
――直後、窓の中から鋭い誰何の声が飛んだ。後輩は驚いてのけぞり、そのまま後ろに倒れ込みそうになる。後輩を落とすのは何とか堪えたものの、二人して地面に転げるのは避けられなかった。
地面に尻餅をついたまま、彼は後輩の腕を掴む。
「逃げるぞ! 駐屯所へ行って応援を呼ぶ!」
「でも、今ここで逃げたら、ユーリアさんがどんな目に遭わされるか分かりません!」
後輩の反駁に、彼は息を止めた。……そうだ、既に自分たちの存在はバレている。ここで逃げては、一番怪しまれるのはユーリアだ。
彼が逡巡している間にも、事態は刻一刻と変化する。
「いたぞ! こっちだ!」
「まずい!」
倉庫の扉が開け放たれ、中から長い棒を持った男が走り出てきた。その指先が真っ直ぐに自分たちを指しているのを確認して、彼はすぐさま立ち上がった。
「……イヴァリス、お前は駐屯所にこのことを伝えてこい」
「先輩をひとりで置いていけってことですか?」
「ああ」
すらりと剣を抜き放ちながら、彼は短く頷く。
(いけるか? ……無理だな)
思いのほか中から出てくる人数が多い。倉庫の大きさからしても、まだ人員はいると思った方が良さそうだ。どいつもこいつも、絵に描いたような荒くれ者ばかりである。この倉庫を使用しているのがまともな組織とは思えない。
振り返ると、後輩はまだそこにいた。黙ったまま、彼女は鞄に手を突っ込み、短剣を取り出す。彼は顔をしかめた。
「何をしている、早く行け」
「――わたしに、あなたを見捨てろって?」
後輩は心底腹に据えかねているみたいな怒り顔で、彼は思わずそんな場合じゃないのにたじろいでしまった。
後輩は無言で一歩踏み出した。
「先輩はお気づきじゃないみたいなので教えて差し上げますけど」と後輩は鞘から短剣を抜きながら隣に立つ。一呼吸置いて、しなやかに伸びた腕が短剣を構えた。
「――わたしだって、先輩のことが大切なんですよ」
後輩はそう言い置いて、そして先陣を切って飛び込んでいった。
振り下ろされたのは重い鉄の棒だった。どうしてこんな棒を武器に、と思ったが、後輩が先程漏らした『檻』という単語を思い出す。これは檻の一部か?
どちらにせよ武器として振り回すのに適した得物ではない。倉庫から出てきたごろつきたちは、小回りの利かない重い棒を明らかに持て余していた。
後輩は小さな体を屈めて、振り上げられたままなかなか下ろされない鉄棒の下をくぐる。掌底で顎を突き上げ、大きくぐらついた男の鳩尾を短剣の柄で鋭く突いた。剣自体はただの威嚇で、実際に触れさせるつもりはないらしい。
(妥当な判断だな)
後輩の一挙一動を横目で確認しながら、彼は滑らせるように足を運んだ。腰の高さで横薙ぎに振るわれた棒を剣先で跳ね上げ、素早く距離を詰める。柄から右手だけを離し、拳で頬を打ち抜いた。
(流石に証拠もなく一般人に剣をぶっ刺したら、捕まるのは俺たちだ)
万一これが何かの勘違い……多分そんなことはないだろうが、例えば、もしもここが火狼の仮装をするパーティ会場だったりしたら、犯罪者は自分たちの方である。
***
地面に倒れ伏した男たちを一瞥して、後輩が「ふぅ」と息を吐いた。額の汗を手の甲で拭い、剣を収める。
「外に出てきた分はこれだけですかね」
「そうみたいだな」
何かもう、ここまで来て『じゃあ戻るか』とは言えない雰囲気である。ユーリアの安否も心配だ。
「行くぞ」
「はい」
開け放たれたままの扉に近づく。中を覗き込めば、暗い通路に点々と燭台の灯りが浮いている。
「先輩が先に行ったら何も見えませんよぅ」
どこかで聞いたような文句を垂れて、後輩が唇を尖らせる。「そう言うなよ」と彼は後輩を背後に庇うようにしながら、倉庫の中へ足を踏み入れた。
「……俺だってお前のことが大切なんだから」
照れ隠しに、口調は不必要にぶっきらぼうになった。後輩は全く気にした様子もなく笑った。
「知ってますよ」
「へえ?」
「だってわたし、いつも見てますもん、先輩のこと。先輩、いっつもわたしのこと見てるでしょ」
「さあ、どうだろうな」
剣呑な事態におよそ相応しくない、わざとらしく浮ついた軽口だった。ふざけたような声音だが、後輩の目は油断なく周囲に配られ、その手は剣の柄を掴んでいる。
奥から、低い唸り声が聞こえた。はっと身構える。――明らかに、人間の声ではない。
「生きた火狼がいるのか」
「少なくとも、三頭は見えました」
低い声で囁き交わす。……囁き声と足音、自分の鼓動、火狼の声。他には何の物音も聞こえてこない。