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一章はエグイです
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あの時、僕はこの結末を知っていれば自ら死を選んだのであろう。
まあ、そう思えども。結果はどうせ変わらなかったし。どうすることもできなかった状態でもあった。
義善治 正というのは結局。間違っていることが嫌いで、誰かを助けていないといられない人間であることは変わらないのだから。
だからこそ、今こうして自分の選択を悔はなく、けれどどこか後悔している僕がどこかいる訳だ。
けどまあ、間違っていることが嫌いというのはちょっと違うわけか。そもそも今まで自分のしてきたことや、その結果については些か正しいこととは程遠いと僕は思う。
人は自分の行動を正しいと思いながら行動するのに、後からそのことについて追及されると、それが本当に正しいことなのか疑問に思い不安になる。
少なくも僕がそう言った人種だ。
自身の今までしてきたことに、自信をもって正しかったなんて言えない。
ましてや、『正しい』なんて、それこそ自分で決めることでもないかもしれない。起こした行動が正しいか、正しくないかなんて決めるのは周りの人間だ。政治だ。法律だ。風習だ。
自分ではない。
ただし、そこにAという人間がした場合、正しいと言われても。Bという人間がした場合、正しくないと言われる矛盾はある。あの人がやっていたのに自分はいけない。この人がやるのはいい。そういった理不尽が世の中には存在する事は知っている。
まあ、そんなこと自信ない人間の言い訳に過ぎないんだろけど。
少なくとも僕はそういう言い訳はもちろんするし、だからといって何もしないなんてことはない。
むしろ、正しかろうが正しくなかろうが、どんなことでも僕は迷わず行動をするだろう。
そういう人間だ。
そういう人間なんだ。
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってそのイネの束を背負い
南に死にそうな人あらば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
どこぞの偉人を見習えば、この一節こそが僕を表している。そのものだ。ただの偽善と行動力の塊。
それこそが僕。
だからこそ、
そうであったからこそ、
この物語は始まったのであろう。