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白い朝日

作者: サザメ

眠れないまま、そろそろ夜明けだ。

冴えない夜だった。ベッドを共にしようとした恋人は手に入らなかったケーキのせいでご機嫌ナナメ。奮発して買ったダブルベッドの真ん中を占領し、毛布に包まってグズっている。

生白い御御足を前にお預けをくらった俺は、悶々とした気分を落ち着かせるべくうんと濃いコーヒーを淹れて、本棚から適当な一冊を引き出した。

寂しい俺の夜長の共は彼女がお勧めしてくれたラブロマンスに、洋物のホラーサスペンス、猫をテーマにした短編集だった。

物語の好みで言えばもっと重苦しく後味の悪い純文学が好きなのだが、こんなに肌恋しい夜なんだ、ポップでスラスラと読み進められる物語が相応しいのかもしれない。

電池式の非常用ライトが照らすテーブルの上、読み終えた本の表紙の可愛らしい猫の瞳がじっと俺を見つめている。冷えてしまった五杯目のコーヒー、つまみのクラッカーとチーズとサラミ。途中から酒に変えなかったのは一人でソファに横になりたくなかったからだ。

しかしいい加減、文字の海を漂うのも飽きたしコーヒーの味にもうんざりだった。

ライトを消して椅子から立ち上がる。腕を上に伸ばして背をそらすと、固い木製の椅子の上ですっかりと凝ってしまった体がパキパキと音を立てる。

ベッドの上の恋人は、まだ中央を譲ってはくれず、毛布に包まって寝息を立てている。カーテンの隙間からこぼれてくる朝の気配に徐々に慣れてきた俺の目は、シーツに散らばった彼女の長い髪や彼女が脱ぎ捨てた衣類の残骸から、ようやくなりを潜めたはずの寂しさと肌恋しさを見つけてしまう。

ほんとうに、冴えない夜だった。

ベッド脇のチェストからセブンスターとジッポを手にとって、ベランダへ向かった。

薄いレースのカーテンを残したまま窓を開け放ち、ベランダ用のクロックスを履いて白い朝日に浴び始めた町を背に手すりに寄りかかった。

冷たい風が部屋に吹き込み、レースのカーテンが穏やかに揺れる。彼女が身じろいで毛布からはみ出ていた足の先が潜った。

セブンスターを咥え、火をつける。

一服、吐き出した煙がふわりと漂う。タバコを厭う彼女のためにベランダに出て吸うようになった。禁煙するかとも思ったが、ベランダで一服する俺を見る彼女があまりにも甘い目をするので思うだけにとどめた。キスの前はタバコを吸わないでと言ったくせに、気まぐれにタバコの合間に抱擁とキスをねだってくる。

かわいいひとだ、可愛い人なのだ。

「悪かったよ」

朝の風はあまりにも冷たい。

徹夜してしまった怠い体には爽やかすぎるらしい。

「パティスリー・クオーレのショコラムースだろ、ちゃんと覚えてた。買ってこれなかったのは悪かった。代わりのものをとも思ったけれど、どこも開いてなかったんだ。君の好きなベリーのパイを売っている店も、シュークリームの専門店も、クリームが甘ったるいって言ってたロールケーキの店も」

一服。タバコを咥えた唇が震える。

「手土産を探すのにあまり時間をかけすぎて、長く君を一人にするのも心配だったんだ。なにぶん物騒なこの頃だ、いつなにが起こるかわからない。少しでも早く君の傍に帰らなきゃと焦ったんだ」

ゆるしてくれないか、と問いかける。

彼女は応えない。

うっかり喉元までせり上がってきた溜め息を飲みくだし、タバコを唇で弄ぶ。

薄暗い部屋は雑然としている。半分近くを占めるベッド、その脇のチェスト、足先の壁に沿って立つ大きな本棚、さっきまで俺が座って居た小さなテーブルセット。

二人で住むと決めてから、彼女の希望によって買い揃えられたものがほとんどだ。結婚もしていない恋人同士だが、将来を見据えて契約したファミリータイプのマンションだった。築年数はそれなりだが家賃が安く、なにより日当たりがいいのが決め手だった。

ベランダの窓脇にあるオリーブの鉢植えは引越しの記念にとその日のうちに買ったもので、たっぷりの日差しと彼女の献身ですくすく成長している。

しかし植物も育てる人間に似るのか、漂う煙から逃げようとオリーブは葉を揺らしているように見える。

なんだか堪らなくなって、背を預けていた手すりから身を起こして振り返り街を見渡した。

東の空から白い太陽が昇ってくる。

紗のようにたなびく雲が低い場所に浮かび、新しい日の光に深い夜の空はゆっくりと染められてゆく。

眼下の灰色の町は静かで穏やかだ。

口元まで迫った灰を落とし、タバコの火を手すりに押しつけて消した。

「もう気にすることもなくなるからって、不精しちゃダメよ」

背後で衣擦れの音がした。

「せめて吸い殻は灰皿かゴミ箱に捨てましょ、私が声をかけなかったら外に落とすつもりだったんでしょうけど、もし下に誰かいたら可哀想だわ」

「こんな日のこんな朝早くに誰が出歩くもんか」

「わからないわよ。私たちみたいな物好きがいるかもしれない」

寝起きにしてはしっかりとした彼女の声。ベッドのスプリングが軋んで、裸足の足音が毛布を引きずる音を携えてやってくる。

ベランダ用のクロックスは一足しかない。

つめたい、と言いながらベランダに出てきた彼女は俺の隣に来て同じように町を見た。

「寒いだろ」

「へいき」

仕方なくクロックスを脱いで彼女の足元に転がすと当たり前に足を入れる。

素足にコンクリートの冷たさが染みて、すぐに背筋に登ってくる。

柔らかい匂いがする。

ぼんやりと温かな体温が触れて、長い髪が風に靡く。

「怒らないのか」

ケーキを買えなかったこと、一晩拗ねた恋人を慰めなかったこと、手すりで火を消したこと。

「最後だもの。もったいないことはしないって決めたの。怒ったり、イライラしたり、我慢したりしないのよ」

「いつも言うほど我慢してたのか?」

「スタイルのためにお菓子を食べない、新色の口紅を買わない、猫が飼いたいって言わない。あなたの靴下を廊下で脱ぐ癖についてだったりシャワーでお風呂を済ますことだったりタバコをあちこちに置いたまま忘れちゃったり、細かいことならたくさんあるのよ」

「半分俺のことだな」

「あなたが我慢してることの半分もきっと私のことだわ。好き合っているとはいえ他人同士が暮らすのだからしょうがないの」

しょうがないのよ、と言いながらも優しい口調で彼女は俺に寄りかかる。

しょうがないもんだ、俺もそう言って彼女の体重を受け入れる。

灰色の町は静かで穏やかだ。

新しい日の光を浴びているのに、まるで死んだように。

四日前、世界は恐慌に包まれた。

巨大な隕石が地球に堕ちる。逸れる確率はわずか、人類が生き残れる確率はそれよりも低かった。

隕石を事前に察知出来たことは僥倖だったのか、過去最大の不幸だったのか。

はじめは誰もが信じなかった。しかし緊急アラームが鳴り、どのチャンネルでも同じニュースが流れ、町内放送用の大きなスピーカーで無駄な避難が促されるとたちまち人々はパニックに陥った。

俺もパニックになり、必要な物を車に詰め込み、逃げるぞ早くと彼女を急かした。しかし彼女はいつもと変わらぬ調子で、どこへ、とだけ呟いた。

四日前、世界は絶望に陥った。

根拠のない安全を求めて多くの人が逃げ惑い、町は荒され、秩序は乱れた。

そんな恐慌の日々の中で俺と彼女は静かに、日常とあまり変わらない暮らしをした。時々、感情的になって落ち込みいっそ吹っ切れて無茶になったが、およそ世界が終わる前の数日間とは思えない穏やかさだった。

いま、この町にどれだけの人がいるのか。

海が近いこの町は、きっと津波で沈むだろう。

多くの車はより内陸の方へ走っていった。俺たちのようにすべて諦めた人間と、逃げることもできない人間と、何も知らずに人の居なくなった町を闊歩する動物達しかこの町にはいない。

電気の供給と公共の交通機関は次の日には止まり、ニュースがあったその日の内に多くの店は襲われた。高い建物の屋上から飛び降りる人が相次ぎ、その周辺の道には死体が積み重なっているのを、俺は見てしまった。

「嘘みたい、世界が終わるのに朝はこんなにも穏やかなのね」

寄りかかる彼女の柔らかな重みも温かさも匂いも、すべていつもと同じものだ。

朝の風の冷たさも、屋根のヘリで鳴く雀の囀りも、すべていつもと同じものだ。

「あなたも私も若くて健康で、世界が続けばきっとおじいちゃんおばあちゃんになるまで生きていられたのに。いつもと変わらない今日で、すべて、終わるのね」

「こわい?」

「こわいけど」

彼女の声が震える。

寒さからじゃない、体の震えも感じる。

手に持ったままだった吸い殻を落として、彼女の腰に腕を回した。

隕石が堕ちる動画を見たことがある。尾を引いた巨大な流れ星が昼間の空に現れ、そして一瞬の閃光、轟音。

地球が終わるほどの隕石がどれほどの大きさなのか想像もつかないが、あの動画のように目が潰れるほどの閃光と地すら震わす轟音のあと、世界の終わりが始まるのだろう。

「わたし、しあわせだわ」

彼女を見た。

すっかり昇りきった朝日の眩しい光線が、微笑んだ彼女の横顔を照らす。まぼろしのように、一筋涙が頬をつたう。金色の稲穂のような豊かな髪が舞い上がり、肩に掛かっていた毛布がずり落ちて肌を滑り、しなやかな肢体があらわれる。

それはまるで、女神のようにうつくしい。

「最期は、愛とともに、おわるのね」

灰色の町のうえ、朝の色の空、大きな流れ星が閃光とともにやってきたーー。

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