おとぼけ天使の笑顔な魔法
この作品は、牧田紗矢乃様主催【第三回・文章×絵企画】参加作品です。
イラストはi-mixs様(http://10275.mitemin.net/i234307/)からご提供頂きました。
私――アイリスは今、とてもウキウキしています。
憧れのお姉ちゃんから、大事にしていた黒のワンピースを譲って貰ったから!
「散歩から帰ってきたなら着替えて仕事しろ、アイリス」
「あ、ランジアちゃん。おはよー!」
バイト仲間のランジアちゃん。背が高くて、スタイル抜群で、キリッとした顔が格好いい天使さんだ。
ワンピースのおかげでご機嫌だった私は、いつもより二割増しくらいに元気良く挨拶したら、なぜかランジアちゃんに小突かれた。
「馬鹿。その服、オーナーから頂いたんだろ。そんなはしゃいで、水はねで汚れたらどうするんだ」
「だいじょーぶ。これでも私、平衡感覚には優れてるんだよ」
「それ関係ない。先に常識を身につけろって」
「だってこんなに綺麗なんだよ。ほら、雨上がりで地面が鏡みたい」
「またアプリコットに叱られるぞ。『アイリスさんはいつまで経っても子どもみたいです』とか何とか」
「う。それはいけない。年上の威厳が地に落ちるよ」
「最初からそんなものないだろ」
「ランジアちゃんひどい! 私だってやればできるんだからね」
「あ、おい。アイリス!」
お店の中に入る。甘い匂いがふわりと広がる。ここはケーキショップ『リトノ』。私のお姉ちゃんがオーナー兼パティシエをしている人気店。私もランジアちゃんも、この店でアルバイトをしている。
働く天使はもう一人――
「アプリコットちゃん、おはよう! 今日も一日頑張ろう。おーっ!」
私の気合い十分な挨拶を受けて、モップを手にした金髪小柄な天使ちゃんが「おはようございます」と返してくれた。うーん、今日も可愛い。
お客さんもそうだけど、私はこの子を笑顔にするために毎日頑張っているんです。アプリコットちゃん、普段からあまり笑わないからなあ。
不肖アイリス。今日も皆の笑顔のために働くよ。
「……アイリスさん。その足……」
「え? あ」
足下を見て気付く。そういえば私、水辺をスキップするときに靴を脱いでたんだった。
板張りの床には私の足跡がくっきりと残っていた。
恐る恐るアプリコットちゃんを見る。小さな背中から、ごごごご……と何かが噴き出す。
「せっかく綺麗にしたのに、何てことするですかー!」
「ごめんなさーい!」
翼を畳んで二階の更衣室に退散する私。
「まったく。アイリスさんはいつまで経っても子どもみたいです」
「ほら、言われた」
すれ違い様、ランジアちゃんに呆れられた。私の方がアプリコットちゃんよりお姉さんなのに。年上の威厳が地に落ちたよ……とほほ。
制服に着替え終わったとき、いきなり一階からランジアちゃんたちの大声がした。びっくりして下に降りると、ランジアちゃん、アプリコットちゃんが二人して、オーナー――私のお姉ちゃんだ――に迫っていた。
「何かあったの?」
「あらあ、アイリス。おはようー」
お姉ちゃんはいつもこんな喋り方だ。
「実はねー、新作ケーキを作るのに夢中になっちゃって、冷蔵庫が空っぽなのよー」
「それ一大事だよね!? お店はどうするの!?」
「何とかなるわよー」
のほほんと微笑むお姉ちゃん。
ランジアちゃんが決意の表情で言う。
「アイリス、聞いての通りだ。一刻も早く店を正常に営業させるため、私たちで材料の調達をすることになった。行き先は人間界の果樹園だ」
「了解だよ。パティシエの妹としての実力を遺憾なく発揮してみせるよ!」
「いや、パティシエ関係ないから」
「私も行くですか?」
ちょっと不安そうにアプリコットちゃんが言う。私はアプリコットちゃんの手を握る。
「大丈夫だよ。私がいるから!」
「不安です」
「そんなあ」
でも、ここはアプリコットちゃんに良いところを見せるチャンス。さっきの失敗を挽回するためにも、頑張らなきゃ。そうじゃなきゃ、いつまで経っても笑顔になってもらえないもんね。
「アイリスー。ちょっとおいでー」
お姉ちゃんに手招きされる。何だろうと思っていると、一枚の手紙を渡された。宛名も何もないただの封書だ。
「これを持って行きなさい。困ったときにそれを開けてねー」
「もしかしてこれ、魔法がかかってるの?」
笑顔でうなずくお姉ちゃん。お姉ちゃんは近所でも名の知れた魔法使いでもある。いつものんびりしているから誤解されがちだけど、お姉ちゃんは凄い天使なのだ。
「アプリコットちゃんを笑顔にできるように、頑張るのよー」
「ありがとう。お姉ちゃん」
私は手紙を大事にしまった。
「よし。行くぞ、お前たち」
どこかイキイキし始めたランジアちゃんを先頭に、私たちはお店を出た。
◆◇◆
世界を繋ぐ光のカーテンを越えて、人間界に無事到着。
ここはいつも賑やかだ。いろんな人たちが道を行き交い、たくさんのモノがやり取りされている。天使界の自然たっぷりも好きだけど、人間界の活気も私は好きだ。
「……怖いです。やっぱり苦手です、人間界」
アプリコットちゃんはそう言って、ランジアちゃんの背中に隠れている。ランジアちゃんがちょっと羨ましい。
私たちは農園に向かった。以前から何度かお世話になっているので、農園の人たちとは顔見知りだ。
農園が近づくにつれ、ますます緊張した顔をするアプリコットちゃん。私が肩を叩くと、びっくりしてぴょんとジャンプした。可愛いです。
「大丈夫大丈夫。農園の人たち、皆いい人ばっかりだよ。この間なんて、一緒にお話しただけでお土産までもらっちゃったし」
「アイリスさんはコミュニケーション能力が高すぎなのです。私はアイリスさんのようにはできません」
「そうかなあ。アプリコットちゃん可愛いから、きっと皆も好きになると思うけど」
「か、可愛いとか言わないでください。私はそんなに可愛くないです」
「えー? 可愛いよお」
「無駄話は終わりだ二人とも。着いたぞ」
ランジアちゃんがきりっとした顔で言う。瞳が輝いている。クールそうにしているが、ランジアちゃんは人間界に来るのを毎回楽しみにしていることを私は知っている。
問題はアプリコットちゃんなんだよなあ。
どうやったらこのコの緊張をほぐせるだろうと考えていたとき、お姉ちゃんから貰った手紙を思い出した。だけど、封を開けるのは我慢する。まだ果樹園に着いたばかり。アプリコットちゃんの笑顔は私自身の力で勝ち取らないといけないと思う。いつまでもお姉ちゃんに頼り切っていてはダメなのだ。
ランジアちゃんの号令で、果物採取が始まった。目当ては妖精樹の実。傘のように覆った葉っぱの内側、枝の根元辺りに実を付けるちょっと変わった樹だ。お姉ちゃんのケーキの、あのふわふわした食感を出すには、この実が必要不可欠なのだ。
けれど私たち天使族は、翼が邪魔をして実のところまで行けない。
そんなときに協力してもらうのが人間の皆さんだ。彼らなら木登りで実を採ることができる。
ちなみに、妖精樹は大きな樹だから、途中の枝まで人間さんを抱えて飛ぶことがある。
「アイリスちゃん秘技、スペシャル大回転ッ。やっほーっ!」
「おおっ、すげえ! 速え!」
「ふふふ、甘いなアイリス! 単に速く飛べば良いというものではないぞ。目標に対していかに正確に、いかに滑らかに接近するかが重要なのだ。つまり、こうだ! とうっ!」
「あははっ。ランジアお姉ちゃんすごーい! びゅーん、ぴたって停まるの」
「それでこそランジアちゃんだよ! 私のライバルに相応しいねっ」
「ふっ、力の差というものを見せてやろう」
ランジアちゃん、人間界の空を飛ぶのが大好きなんだよね。バイト中よりもイキイキしてるよ。
子ども二人を乗せて妖精樹の周りを飛ぶなんて荒技を横目に、私は地面に降りる。手伝ってくれた人間の子の手には、実がたくさん入った籠が握られている。
「楽しかった! アイリスお姉ちゃん、ありがとう」
「お礼を言うのは私の方だよ。手伝ってくれてありがとう」
籠を受け取り、手を振る。ああいう子を見ていると、自然と笑顔になるよね。
さて、あとは――と。
「アプリコットちゃん。どう、たくさん採れた?」
「どうもこうもないです。私、誰かを乗せて飛ぶのは苦手だって、いつも言ってるじゃないですか」
不満そうに頬を膨らませるアプリコットちゃん。私は隣に立った。
「でも、ちゃんと見守ってるんだよね」
そう言って、妖精樹を見上げる。
ひとりの人間の男の子が樹を上っていた。一番低い場所にある実を目指しているのだ。
「あの子、アプリコットちゃんの分まで頑張ってくれてるんだね」
「……私は『しなくていい』って言ったんですけど」
男の子の手が実に届いた。私はアプリコットちゃんの背中を押す。おずおずと前に出た彼女に向けて、もぎ取ったばかりの実を男の子が落とす。しっかりとキャッチするアプリコットちゃん。
男の子は慣れた様子で降りてくる。私たちの前に立つと、誇らしげに鼻をかいた。
私はアプリコットちゃんに耳打ちする。恥ずかしそうに視線を逸らす天使の子の手を取って、「せーの」と合図する。
「ありがとう!」
私は今日一番の笑顔で。
アプリコットちゃんはちょっとぎこちない微笑みで。
男の子にお礼を言うと、彼は「うん!」と元気よく返してくれた。その顔を見て、アプリコットちゃんもほっとしたようだ。
「ね? 笑顔は大事だよ」
「アイリスさんの明るさがいつも羨ましいです。私なんか」
「だーいじょうぶ。大丈夫。ちゃんと笑えてたよ。アプリコットちゃんもできるできる!」
「私でも、できるでしょうか」
「うん。アイリスちゃんの永久保証付きだよ」
「それは不安ですね」
「あれ?」
アプリコットちゃんが、また少しだけ笑った。
私は内心で「よっしゃ」と拳を握った。アプリコットちゃんに少しずつでも笑顔が増えて欲しいと、ずっと思っているのだ。
袖を引かれた。いつの間にか人間の子たちが集まって、「また飛んで」とせがんでくる。もう、しょうがない子たちだなあ。今度はランジアちゃんもびっくりの飛行術を披露しようじゃありませんか!
「アイリスさん。私、残った材料を採りに行ってきます。皆さんと楽しんでてください」
「アプリコットちゃん、ひとりで大丈夫?」
「子ども扱いしないでください。そんなに量もないですし、飛ぶ必要もありませんから。それに、アイリスさんたちが楽しい方が私も嬉しいです」
アプリコットちゃん……!
「ただし。お二人とも、調子に乗りすぎないでくださいね」
「了解でっす!」
「くれぐれも調子に乗りすぎないでくださいね」
二度言われた。
「大丈夫だよ。アプリコットちゃんも、行ってらっしゃい。すっごい成果、期待してるよ」
「……まあ、頑張ります」
◆◇◆
「アプリコットが迷子!?」
「そうなの。どうしようランジアちゃん」
ああ、どうして私はアプリコットちゃんをひとりで行かせたのだろう。私の馬鹿馬鹿。
「落ち着けアイリス。まだそう遠くには行っていないはずだ。農園のみんなにも協力してもらって、手分けして探すんだ」
「う、うん。わかったよ」
ランジアちゃんはこういうとき、冷静でとても頼りになる。それに比べて私は……。
神様、お姉ちゃん。ごめんなさい。アイリスはとても馬鹿な子です。
そこで、はたと思い出す。
「そうだ! お姉ちゃんからもらった手紙」
ポーチから封書を取り出す。困ったときに開けなさいとお姉ちゃんは言っていた。今がまさにそうだ。私と違って優秀な魔法使いであるお姉ちゃんがしたためたものなら、きっと答えを教えてくれるハズ。
しかし――
「あ、あれ? 封が取れない。仕方ない。破って中身を……ふぬぅ、ふっ、ぬうぅ……ん」
お姉ちゃん、これ開かない!
ぴっちり綺麗に封をされた手紙は、指先で剥がすこともできなければ、端から破ることもできなかった。
こうしている間にもアプリコットちゃんがどこかで泣いているかもしれない。気ばかり焦る。
「アイリス。何をしているんだ。行くぞ」
「ランジアちゃん。そうだね、おろおろしてばかりじゃだめだよね。――ところで、後ろの方々はどちらさま?」
「捜索隊を組織した。寄せ集めだが、腕は確かだ」
仁王立ちするランジアちゃんの背後には、屈強な男の人がずらりと並んでいる。こんな人たち農園に居たっけ? というのは置いといて。真剣だけどいつも通り冷静なランジアちゃんを見て、少し落ち着いた。
大丈夫。アプリコットちゃんはきっと無事だ。だから――
「私のアプリコットちゃん・センサーの出番だね!」
「それって山勘だろ」
「そうとも言うよ!」
「胸を張るな」
大丈夫。アプリコットちゃんへの愛情があれば、多少の不確定要素なんてあっという間に収束するんだ。第六感、大切。第六感を信じよう。
ふと、ランジアちゃんが微笑んだ。
「そうやって脳天気に頑張る方がお前らしいよ」
「ランジアちゃん」
「早くアプリコットを見つけてあげような」
うなずく。
ランジアちゃん一隊が捜索に出かけるのを見届けて、私も出発した。ランジアちゃんたちは農園のさらに奥に向かったので、私はその反対、小さな雑木林に目星を付ける。
私の勘が、アプリコットちゃんは果物採りに加えて山菜採りをしていて迷子になったと告げている。賢いあの子のことだから、きっと無闇に奥へ奥へ行くことはないはず。陽当たりがそこそこ良くて、山菜がたくさん生えている場所を目指せば、アプリコットちゃんは見つかるはずだ。私のアプリコットちゃん・センサーに狂いはない。いざ、行かん!
結果。
「迷いました」
私が。
周囲はいつの間にか鬱蒼とした森林地帯に変わっていた。生い茂った樹々が陽光を遮っていて薄暗い。蔦がロープのように垂れ下がり、自慢の翼で空を飛ぶこともできなくなっていた。
……え、なんで? どうして? どういうこと?
私、ちゃんと探してたよ。当たりを付けて探してましたよ。それがどうしてこんなことに。っていうか、どう考えてもおかしいよこの状況。こんな鬱蒼とした森いつできたの!?
いやいや。本来の目的を忘れるな私。あの子を見つけ出すまで、泣き言を言ってはダメ。
「おーい。アプリコットちゃーん。どこ? いるなら返事して!」
必死の呼びかけがこだまする。
――やけに声が反響するよね、ここ。
――というか、さっきから生き物の気配がまったくないのですが。気のせいですか。気のせいだと言ってお願い。
「おぉーい。アプリコットちゃーん。どこにいるの。いたら返事してくださーい。アプリコットちゃーん。ランジアちゃーん。どこですかぁ。ここ、どこですかぁ。こ、怖いよぉ」
だんだん弱気になっていく。
空気はひんやりしていて、翼の先まで震えてきそう。物音はしないけれど、それが逆に、どこかから何か恐ろしいモノが飛び出してくるんじゃないかという不安をかきたてて、涙が出そうになる。
ついに私は、その場にへたり込んでしまった。
両手を胸に押し当て、湧きだしてくる恐怖を必死になって抑え込もうとした。
そのとき、かさりと音がした。座り込んで震えた拍子に、お姉ちゃんの手紙がずれ落ちたのだ。私は、はっとした。
そうだ。今なら手紙が開けられるかも。
慌てたせいか何度か取り落としながら、私はお姉ちゃんの手紙に手をかけた。指先が封をひっかき、またひっかき、さらにひっかいて。
「――開かないじゃん!」
腹の底から声が出た。
「もおお、お姉ちゃんってば! 困ったときに開けろって言ってたのに。全然役に立ってないよ!」
心からの不満を言いながら手紙をぶんぶん振る。
しばらく怒りをぶちまけたら、だいぶ落ち着いた。恐怖と不安が少しだけ遠のく。私は深呼吸した。
もう一度、信じてみよう。私のアプリコットちゃん・センサーはそんなにポンコツじゃない。このくらいの困難で、皆の笑顔が見られなくなってたまるものですか。
私はいつだって、私の信じるように、アプリコットちゃんたちの笑顔を願って頑張ってきた。その結果、ここにいるんだ。大丈夫。私を信じよう。
立ち上がる力が戻ってきた。正直まだ怖いけれど、この場でじっとしているのはダメだと思うことができた。
眦を決して、前に進む。柔らかな土と固い葉っぱを踏みしめる。
ふと、不思議な感覚になった。
何か前にも、こういうことがあったような。既視感と言えばいいのか。
この感覚がとても大事なことのような気がした。私は足を前に進めながら、必死に記憶を探る。
――光を感じた。
気がつくと、森の切れ目に出ていた。目の前には綺麗な小川が流れている。太陽の光がカーテンとなって差し込み、小川の流れが光を柔らかく受け止めて、幻想的な光景になっている。
小川のほとりに、人影を見つけた。
「アプリコットちゃん!」
「あ……」
驚いた顔で振り返る可愛い天使。アプリコットちゃんだと確信した瞬間、私は彼女に抱きついていた。
「アプリコットちゃん、アプリコットちゃん、アプリコットぢゃんう゛あああ」
「ア、アイリスさん。落ち着いてください」
狼狽えるアプリコットちゃんの胸で涙と鼻水を流しながら号泣する私。嬉しさと安堵と怒りが同時に湧き上がってきた。
「じんばいじだああどぼじでう゛もおわだじおごづでるがらぁああ」
「えっと。とりあえず人の言葉でお願いします」
冷静なアプリコットちゃんのツッコミで我に返り、私は涙とか拭った。
ハンカチを差し出しながらアプリコットちゃんが尋ねる。
「……私のこと、探してくれたですか?」
私はうなずいた。
「時間になっても戻ってこなかったから。ランジアちゃんや農園のみんなも一生懸命探してくれたんだよ。でも……ごめんなさい」
「どうしてアイリスさんが謝るんですか」
「だって私、ダメダメだったもの。アプリコットちゃんを探して自分が迷子になるし、途中、怖くて動けなくなったし」
「でも、ちゃんと見つけてくれたじゃないですか」
ぼそりとつぶやいたセリフは、私にはよく聞こえなかった。
アプリコットちゃんが視線を外す。
「アイリスさん、覚えてますか。ここ、初めて私とアイリスさんが出会った場所なんですよ」
「え……あ! そういえば!」
「忘れてたですか……」
ちょっとがっかりしたようなアプリコットちゃんの顔。私は小さくなった。
「人間界に遊びに来ていた私が、迷いの霧の入ってしまって。どうにもならなくて泣いていたときに、アイリスさんがやってきたんです」
「迷いの霧?」
「まれに発生する異世界への入口のことです。今回たまたま、農園近くの雑木林に現れたみたいです。私、山菜採りに夢中になっていて。気がついたときには霧に飲み込まれてしまっていて。たぶん、アイリスさんも同じように迷い込んでしまったんだと思います。……昔とちっとも変わってないですよね。私たち」
遠い目をするアプリコットちゃん。私は身体の震えが止まらなくなった。アプリコットちゃんが不安そうに私を見る。
「あの、アイリスさん。大丈夫ですか」
「……う」
「う?」
「うおぉっしゃああああ! アイリスさん大勝利!」
突然握り拳を突き上げて歓喜する私に、アプリコットちゃんが固まった。
「あの。アイリス、さん?」
「うふふ。ふふふ。いやあ、やっぱり私の勘は正しかったんだあ。アプリコットちゃんは雑木林に山菜採りに。まさに私の読み通り! これはアプリコットちゃん・センサーが完璧に動作する何よりの証だね! すごいぞ私!」
「思い出しました。そういえば最初に会ったときもこんな風でしたね、アイリスさん。で、あのときも言ったですが、暑苦しいので抱きつかないでください」
「えへへ。自分を信じて良かったよ。もう会えないかと思ったもの」
「……まったく。アイリスさんはいつでもどこでも変わらないのです」
アプリコットちゃんがいつもの反応を返してくれる。私はまた嬉しくなる。
「よし! それじゃあ帰ろう。ランジアちゃんも心配してるから」
「そのことなんですが」
アプリコットちゃんの眉がハの字になった。ちょっと可愛い。
「ここから出られないみたいなんです」
「どうして? ほら、空が見えるよ。飛べば大丈夫じゃない。アプリコットちゃんも、一人で飛ぶのはできたよね」
「はい。ですのでさっきから試しているのですが」
アプリコットちゃんが翼を一振りしたので、私も彼女について飛び上がる。樹々の梢を足下に、さらに高度を上げていく。広い広い森が広がっていた。確かに、これなら途方に暮れるのもわかる気がするけど。
でも、『出られない』ってどういうこと?
首を傾げた直後、視界が滲む。突然口に水が入ってきて、私は目を白黒させる。慌てて手足を動かし、頭上の灯りを目指す。
「ぷはっ。あ、あれ?」
ようやく空気を吸えるところにたどり着いたと思ったら、そこはさっきまでアプリコットちゃんと話していた場所の小川の中だった。
「こんな感じに、延々ループするんです。大丈夫ですか。アイリスさん」
一緒に水面から出てきたアプリコットちゃんが言う。諦めきった表情にも見える。
「むう。これは摩訶不思議だね。さすが異世界」
「アイリスさん、そんな暢気な」
「そういえば、前にここに迷い込んだときにはどうやって出たんだっけ?」
「それも忘れたですか? アイリスさんのお姉さんが駆け付けてくれたんですよ。私、それがきっかけであのお店で働くようになったんですから」
おお、さすがお姉ちゃん。
直後、私はぴんときた。腰に付けたポーチから手紙を取り出す。水中に飛び込んだにもかかわらず、手紙には水滴ひとつ着いていない。
「アプリコットちゃん。きっと大丈夫だよ。だから笑って」
「こんな状況で笑うなんて」
「いいから。笑って。笑顔はエネルギーの源なんだよ」
戸惑いながら、アプリコットちゃんが頬を上げる。無理矢理感がすごくて、でも可愛くて、私は大爆笑してしまった。「ひどいです!」とぷりぷり怒るアプリコットちゃんをぎゅっと抱きしめる。
「アプリコットちゃんの笑顔がずっと見られますように」
囁くように祈る。私は手紙の封をめくる。まるで最初から糊付けされていなかったように、手紙は綺麗に開いた。
まばゆい光が放たれる。
風が吹いていないのに、周りの樹々が大きくざわめく。飴細工のように幹が曲がり、森を真っ直ぐ貫く半円形の光の道が現れる。
「笑顔を守るためなら、お姉ちゃんに不可能はないんだよ」
呆然としたままのアプリコットちゃんに、胸を張って言う。
私をちらりと見て、小さな天使ちゃんはつぶやく。
「それって、アイリスさんのことですか」
「え? なに? 聞こえなかったよ」
「何でもないです」
アプリコットちゃんから諦めの表情が消えていた。私は安心して、手を差し伸べる。
「さあ、一緒に帰ろう」
「はい」
手を取ったアプリコットちゃんは、これまでで一番良い笑顔を見せてくれた。
◆◇◆
それから私たちは無事、霧の中の異世界を抜け出すことができた。ランジアちゃんや、手伝ってくれた農園の人たちに「ありがとう」と「ごめんなさい」を二人で言って回った。
皆さんはとても優しくて温かくて、アプリコットちゃんの無事を一緒に喜んでくれて、私もすごく嬉しかったので、勢いで『お帰り! アプリコットちゃん』のパーティを開いて皆さんと楽しんだ。すごく盛り上がった。
それを見たアプリコットちゃんは一言。
「非常識な姉です」
バッサリ。でも、それも可愛いと思えてしまう。
その後、「早く帰らないと店が大変だろう!」とランジアちゃんにも怒られて、パーティはお開き。三人揃って帰宅した。するとランジアちゃんの言う通り、お店には長蛇の列が出来ていて、しかもお姉ちゃんは相変わらずのマイペースで接客してたものだから、私たちは大慌てでお客さんをさばくことになった。忙しすぎてその日はアプリコットちゃんとまともに話もできない有様だった。
――翌日。
朝の開店前、まだ眠い目をこすっている私の隣で、ぴっちり制服を着こなしたアプリコットちゃんが呆れた表情で立っている。
「アイリスさん、もうお客さん来ますよ」
「りょーかーい。ふわぁ……」
「まったく。いくら感謝の印と言っても、昨日農園の人たちとあんなに騒ぐからそうなるんです」
「アプリコットちゃんは元気だよね」
「当然です。心構えの問題です」
「そっか。昨日私と一緒のベッドで寝てくれたからじゃないんだ」
「ちょ……! アイリスさん、その話は」
「えへへへ」
真っ赤になった小さな天使の頬をつつく。アプリコットちゃんはぷいと顔を背けたけれど、私の隣から立ち去ることはなかった。
うん。今日も元気で頑張れそう。
「そろそろ開けるぞ。朝イチでお客さん、待ってるからな」
外で看板を替えてきたランジアちゃんが戻ってくる。
アプリコットちゃん、ランジアちゃん、お姉ちゃん、そして私。
皆一緒の一日が始まる。
ドアベルが鳴り、本日最初のお客さんが入ってくる。
さあ。
皆で、元気よく、笑顔で。
「いらっしゃいませ!」