6-21 ケンカ両成敗
優佳は緑茶を飲むと落ち着きを取り戻し「ありがと、でも心配しすぎ」と怒られた、なぜだ。
昼食を終えた頃には十六時を過ぎ、開け放したベランダの窓からは時折涼しい風が入り込んできた。僕は二人分の緑茶をポットで入れなおし、風を受けながらお茶の熱が自然に冷めるのを愉しんだ。
優佳はスプーンをかき混ぜ棒にして湯呑の中をくるくる回す。スプーンがぶつかり合う音が風鈴のようで耳に涼しい。ゆったりとした時の流れが、小学生の夏休みを想起させる。
そんな時を飽きもせずに十年以上過ごして来れたのが、優佳だった。
どれくらい時間が経ったのか、お茶の熱が完全に引いたころ優佳はおずおずと口を開いた。
「……いままで、顔を合わせられなくて、ごめんなさい」
優佳は手をスプーンから離し、伏し目がちにそう言った。
「理由を、聞いてもいい?」
「サトシに会うのが、怖かった」
「怖い?」
「うん、だって三ヶ月も連絡取らないなんて、あったらいけないことだから。それに李さんのこと、サトシも理解してくれたのにヒドイことばかり言った」
「……」
「だからサトシには嫌われても仕方ないって思った。そう考えたらすごい怖かった」
「嫌う、なんてそんなことあるわけないだろ? 心配こそしたって嫌うなんてありえない」
「うん、でも一度そう思ってしまうと、その考えが頭から離れなかった。サトシは何度も会おうって言ってくれたけど、話をしたらそれっきり二度と会えなくなっちゃう気がして」
「優佳……」
「あ、でもでも! サトシは電話口でいつも優しかったし、ちゃんと会わなきゃって思ってたよ」
優佳は少し腰を浮かせ、口早に言った。
「それにちゃんと話はしないと、失礼だなって」
失礼、なんて言い方しないで欲しかった。
親しき中にも礼儀あり、とは言うけれど、それを言葉にされると少し悲しい。
「だから、ごめんなさい。李さんのことを認めてくれたの嬉しかった。それなのにわたしヒドいことばかり言って……」
「それは優佳が謝ることじゃない、僕がいままで李さんを勝手に悪い人だと思い込んでしまった。優佳の言うことなのに信じて来れなかった、そこに優佳は謝っちゃいけないよ」
「サトシ……」
「だから頭を下げるのは僕のほうだ。……この十年間、優佳の味方になれなくて、ごめんっ!」
立ち上がって優佳に頭を下げた。
そう、十年間だ。
レイカに初めて会い、李さんがレイカを手放した理由を聞き、正義感に燃えた僕はレイカを李さんから遠ざけて、優佳の言うことに聞く耳を持たなかった。
僕は優佳の幼馴染で、親友で、恋人だったのに、それを一度たりとも認めてやらなかった。
それこそ許してもらえなくたって不思議じゃない。僕は優佳の心の拠り所になるべきだったのに、あろうことか優佳の意見を否定し続けてきた。
なんて愚かで、傲慢。
もし優佳の恋人なら無条件で、言っていることを信じるべきだし、少なくとも理解しようと努めなければいけない。
それを僕は、十年間も怠ってきた。
「許してもらえるものでもないと思う、それに僕はなにより……優佳の言葉で李さんを信じられなかった」
優佳の言葉で信じられなかった罪、それは重い。
僕は最後まで優佳を信じなかった。僕が心動かされたのは傑先輩、そしてエーコと華暖だった。
そしてそれをあろうことか、優佳の前で堂々と言ってしまった。
「優佳は何度も僕を説得しようとしてくれたのに、それに見向きもせず自分の過去の妄信を捨てられなかった。本当に、馬鹿だ」
「……」
「それがどれほど優佳を傷つけたかわからない。なのに僕は胸を張って優佳に……」
優佳はそれを黙って聞いていた。
その沈黙は、僕の謝罪が筋違いでないことを肯定する、沈黙。
優佳は先に頭を下げたが、それは話の口火を切らせるための便宜にすぎない。
今回の問題は、僕と優佳がいままで過ごしてきた中で、優佳がずっと怒りを抱えてきた部分だ。
だから僕は自分の恥を、十年の妄信をしっかり捨てて、優佳の心に訴えなければいけない。そこに自分から踏み込んでいかなければ、優佳とのこれからは絶対にありえない。
「わかった風な口をきいているかもしれない、僕の謝罪がそもそも筋違いなのかもしれない。でも僕は……優佳とまた過ごしていきたい」
頭を少し上げ、優佳と目線を交わそうとした。
けれど僕のことをずっと眺めてきたであろう視線は、逃れるように横にずらされ、斜め下に逸れていく。
その優佳が、本当の優佳だ。
先ほどまでの”仮面をかぶった笑顔”でもなく”明るくしようといつも通りを振る舞う”顔でもない。
僕に対して不満と、不信を持つ、素の優佳。僕が顔を合わせなければいけないのは、こっちの顔。久しぶりに触れ合い、涙を流した僕の頭を抱えることはできても、キスまでは絶対に許すはずのない、等身大の感情を持った彼女。
「……はは、サトシって。ホント不器用。そんなこと言う必要、ないのに」
「でも、口で伝えないと……」
「うん、わかってる。言わなくてもサトシのことは、わかってるよ」
僕が口で伝えようとする意味を、看破してしまう彼女。
「サトシは、さ」
「うん」
「どうして、いま李さんに会おうと思ったの?」
「傑先輩と、エーコに、会った」
「二階堂君に、エーコちゃん?」
意外そうな反応を示す。
「優佳が帰ってきて、レイカといるところを見られて、李さんの国に行った話を聞いて、僕はなにがなんだかわからなくなってしまった」
”レイカといるところを見られて”という言葉に、優佳は息を呑む。
優佳の仮面は徹底的に剥がさなければいけない。だから僕は優佳が確信に触れたい部分を、隠さずにどんどん見せつけていくべきだ。
「あのとき僕は、レイカを守る選択をしようとした。レイカが僕の知らない間に、思いもよらないほど自分を悲観していたから」
優佳はもう口を挟まない。
話の真偽を探り、吟味している。
「だから僕は自分の人生を乗せてレイカを救おうとした。……もちろん優佳のことは気になった、けれど目の前のレイカを放ってはおけなかった」
馬鹿正直に全部を伝える僕の視線を、今度こそは逸らさず、真正面から受け止める。
先日の早朝では、やらかしてしまった。
徹夜明けの頭で舞い上がっていたから、なんて言い訳はしない。
だから今日この日が来たときに、しなければならない話のすべては頭に入っている。
優佳を傷つけず、すべてを伝えられて、また一緒に暮らすことを念頭に置いて、僕が許してもらうための話。
「けれど僕のやり方は間違っていた、レイカの心の根にある部分は決して明るくならなかった」
そして優佳が帰ってきて、すべての前提がひっくり返った。
李さんとレイカを会うことをお義父さんが許したこと。レイカは李さんに会いたがっていたこと。
帰ってこないことさえ覚悟した優佳が帰ってきたこと。優佳にレイカとキスしようとすることを見られてしまったこと。
「優佳、信じて欲しい。僕はレイカにキスしなかった。けれどタイミングさえ違えば、そうなる未来が来たことは……否定しない」
優佳はその言葉を、黙って聞いていた。
「僕は祭りの夜、優佳にこの三ヶ月を聞かされて、なにがなんだかわからなくなってしまった。自分の信じてきたこと、やってきたことが全部間違いだと否定され、頭が考えることを止めようとしていた」
あの辺りの日々の記憶はほとんど残っていない。眠ることができずにどんどん頭は回らなくなっていき、気が付けば吐いてばかりの生活だった。
「……もう僕は、縁藤家と、関わらないほうがいいんだと思った」
優佳の目が、少しだけ揺れる。
「そして、傑先輩と会った」
いま思うとあの時、あの三人と会えていなかったら僕はどうなっていたのだろう。僕は未だにこの部屋のカーテンを閉め切り、思考の迷宮に閉じ込められていたのかもしれない。
「僕はこれまでずっと李さんを許してこなかった。けど傑先輩は僕のそのこだわりに疑問を呈し、一度会ってみるべきだと言った」
あの瞬間、僕という人間がまた動き出した。
「そして……優佳の言うことが正しかったことを知った」
ゆっくりとその言葉を吐き出す。
「最初から優佳の言うことを信じ、李さんとレイカが会えるように協力していれば、きっとこんなことは起こらなかった」
僕は決して立派な人間ではない。
いつでも間違いばかりだし、調子に乗って心無い発言をしてしまう。
「優佳は僕に行き先を伝えた上で李さんの国に行っただろうし、一緒にお義父さんを説得することだってできた。それも全部、僕が優佳を信じて来れなかったのが原因だ」
だから僕はこれまで以上に謙虚に生きていこう。そして、愛する人を信じて行こう。
「本当に、ごめん」
僕はまた改めて優佳に深く頭を下げる。
これが、今回の事件の真相。
僕の思い込みに匙を投げた彼女は、その家から逃げ出した。
けれど、それで終わりになってしたくない。
僕はまた優佳と暮らしていきたい。
僕のことを子ども扱いして、叱りつけて、時には年下のように甘えてくる彼女と。
情けないと思いつつ彼女の好意に甘えるヒモ男の日々に戻りたい。もちろんいつの日にかは、それを挽回し優佳を養ってあげられるようなそんな日々を目指して。
優佳は目を瞑り、僕の言葉を反芻する。
開け放したベランダから入る涼しい風は、もう肌寒いくらいの温度になっていた。けれど言葉を吐きだし続け、頭に熱を持っていた僕には気持ちいい風だった。
優佳はその空気をすうっといっぱいに吸い込んで、言葉と共に吐き出した。
「うん、わかった」
優佳の可愛らしい、くりっとした目が開かれる。
「サトシのこと、ゆるします」
そう言って、優佳は口元に笑みを浮かべた。
その言葉を聞いて……いまにも倒れてしまいそうなほど力が抜ける。
「ホントに、ホント~に、そのことだけはね、ずっと怒ってたんだよ?」
「……言葉もないです」
「でもね、わからないでもないの。サトシはそうやってレイカを守ってきたのは事実だったから」
優佳はそう言って困ったように微笑む。
「わたしの望む形と違っても、サトシはレイカをずっと大事にしてくれた。それは五年前のあの日、レイカに降りかかったかもしれない暴力から守ったのも、そう」
それはレイカの組みしていたグループと、巌さんとの対立。
「わたしにはそれから守ることなんて、きっとできなかった。だからこうしてサトシが頑なに守ってきた誓いも、決して無駄じゃなかったとも思ってる」
「ありがとう……そんなこと言ってくれるなんて、考えもしなかった」
「わたしはサトシと、レイカのことばかり考えてるからね」
そう言って僕たちは、笑いあう。
仮面のはがれた優佳と笑うことができた。
それは涙が出るくらい幸せな光景で、幸せな気持ちになれて。
またこんな日が来るなんて信じられないようで、けれど当たり前の日々が戻って来ただけのような気もして。
僕は幸せ、という形をこの瞬間に感じた。
もう迷わない。
僕はこれだけ大事にして生きていければそれでいい。
覚悟を、決めるべきだった。